恩師 クラウス・プリングスハイム先生

1883年〜1972年)

 

      

      1959

       プリン先生(75)  宇野正寛(21)

 

ミュンヘン郊外で出生。ユダヤ系豪商の家系で、父アルフレート・イスラエル・プリングスハイムは

有名な数学者であった。父の手引きで少年時代より楽才を発揮。わずか13歳で最初の管弦楽曲を作曲。

青年時代はリヒャルト・シュトラウスから影響を受ける。ミュンヘン大学で数学・物理学を学んだ後、

ウィーンでグスタフ・マーラーに作曲、指揮を学ぶ。

 

1931年に来日し、東京音楽学校(現東京芸術大学)の作曲教師に就任。マーラーやストラヴィンスキー、

クルト・ワイルら、当時としてはモダンな作品学園オーケストラ指揮して上演し、新風を巻き起こ

した。学校オペラでは「デ・ヤ・ザーガー」を上演。このとき、主役の初年のテナーを演じたのがバリト

ン増永丈夫(藤山一郎)だった。日本におけるクラシック音楽の普及・定着に尽力するとともに、作曲や

指揮の教師として、著名な門人に、安部幸明・平井康三郎などがいる。

 

1937年にシャム政府に招かれ、秋からバンコクの芸術院で西洋音楽の教授に着任するが、1939年にタイ

政府が枢軸国寄りの政策に転じたのを機に、「ドイツならびにイタリアの正当なパスポートを持たないユ

ダヤ人」との理由で国外追放に処せられた。

 

第二次大戦後の混乱期には宝塚劇場の指揮者となるが、望んでいた教壇の道は開かれず、1946年渡米、文豪

トーマス・マンと結婚した妹一族の亡命先、カリフォルニアに滞在した。

 

1951年に「来日20周年記念演奏会」が東京で行われたのを機に、訪日の要請を受け再々来日。この時、日

本永住の決意を固めていて「武蔵野音楽大学教授」に着任。同年、加藤子明によりプリングスハイムの評

伝『日本の幻想』が上梓される。1961年には、東京文化会館開館記念の「東京世界音楽祭」(1961 Tokyo

East West Music Encounter)のために、吉田秀和らとともに日本側スタッフの一人として活動。初期の

「日本マーラー協会」「日本ヤナーチェク協会」設立にも奔走した。晩年は亡くなるその日まで、作曲活動

のかたわら、英字紙のために音楽評論家をつとめたという。

 

戦前・戦中においては、学生や演奏家の間で、気難しく癇癪もちといったイメージがもたれていたようだが、

戦後においては、武蔵野音大の学生・同僚の間で「プリン先生」の愛称で親しまれていた。また晩年には、

ビートルズにも注目していたといわれる。

 

(宇野正寛 記)

 

武蔵野音大作曲科入学(1956年)から卒業(1960年)までの4年間、和声の根底から卒業作品まで、毎週

こまごまとご指導いただきました。

 

特に和声では、平均律と純正調の違いを計算する事から始まり、ドミナントへ進むための属音を2(セカンダリードミナント)、サブドミナントへ進むための属音を0(ディーゼロ)とに機能を分けて、各声部の譜例を示され、響きとその動きをピアノで確かめる事でのレッスンが多くありました。

 

最後の1年くらいは作品「木管五重奏のためのテーマとバリエイション」ほかその他の作品の添削を細かく

していただきました。

 

終始先生はいつも優しさと厳しさを兼ね添えてレッスンがあり、そして最後に必ずにっこり「笑顔」で終わられます。

 

「プリン先生の笑顔について」

作曲科の学生は作曲の勉強以外に必ずオーケストラの体験をしなさい、とのカリキュラムがあり、私はパー

カッションを選びました。ある練習の時間プリン先生の指揮で授業があり,私はステージ上段の隅の方でトラ

イアングルを握りオーケストラに参加しました。ワーグナーの前奏曲であったと思いますが、フレーズの変

わり目でひとつトライアングルを打たいたその瞬間、先生がパッと私の方を振り向かれ「ニッコリ!」その

時のプリン先生の笑顔がいまだに目に焼きついています。

 

 

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