日曜日の昼前、土井たか子・元衆議院議長(元社会党委員長・元社民党党首)が亡くなったという速報が流れてきました。いつかこんな日が来るのではと内心で思うこともありましたが、現実になるとやはり喪失感が襲ってきます。
「私は憲法と結婚したのよ」と冗談まじりに言っていた土井さんが、いちばん危惧していた憲法が軽んじられる政治状況が続いているだけに、その発言や肉声を未来永劫、聞くことができないのはのはきわめて残念なことです。
社会党が140議席から90議席に後退した1969年12月の総選挙の時、私は小学校6年生でした。このとき、私は学校の自由研究で「日本社会党の敗退」を取り上げました。そう書くと、ずいぶんませた子どもだと思われる方が多いでしょうが、本当のことです。この選挙で最後の当選者となったのが土井たか子さんだったそうです。
それから17年。土井さんが第10代の日本社会党委員長になった時、女性を中心とした市民応援団が生まれました。ある日、国際政治学者の國広正雄さんから「女性ばかりなので少しは男もいないとね」と誘われました。私は当時、教育問題を中心に学校現場を歩くジャーナリストでしたが、政治の場に関心もあり、自分にできる応援はしたい、と思いました。
さらに翌87年の東京都知事選で、社会党が候補者を決めることができずにいた時、私は何人かの若者たちとともに「土井たか子、出るべし」と勝手に擁立運動を仕掛けました。結果は実らなかったのですが、この時のやりとりをきっかけに、土井さんとよく話をするようになりました。
やがて「土井ブーム」は社会現象となります。私は、そのピークともなった89年の参院選で、土井さんの全国遊説をカメラマンとともに同行取材しました。東北新幹線の仙台、福島、郡山の3駅では、真夏にもかかわらず駅前に数万という群衆が集まっていました。リクルート事件、消費税の導入、農政問題は当時「3点セット」と呼ばれました。「だめなものはだめ」という土井さんの歯切れのいい言葉が、政治不信を抱える人々の耳に新鮮に響いたのでしょう。
戦後政治史の中で、演説に数万人の群衆を次々と集め、大きく票を動かしていった政治家は、土井さんが初めてだったと思います。
「山が動いた」
与野党が逆転した参院選の記者会見で土井さんがそう言った時、私も至近距離から歴史的瞬間を見つめていました。
ところがその後、あまりに変化の遅い社会党に苛立って、私は数々のシンポジウムやセミナーを企画するようになりました。とくに、93年に非自民による細川政権が発足した時に、社会党が「小選挙区制度」をのんでしまったこと、さらに土井さんが議長として政治改革関連法案をめぐり、与野党に調停・斡旋をしたことには批判的でした。
私は辛口で言いたいことをいい、注文もつけながら活動する「もの言う応援団」だったと思います。その当時のことは『あたたかい人間の言葉で伝えたい――3メートルの距離から見た土井たか子』(90年)にまとめています。
96年9月23日、私の電話が鳴りました。議員会館にいる土井さんからでした。
「村山さんが(社民党=96年1月に党名変更)党首を(私が)やるように、と勝手に発言した」
えらい剣幕で、その声は怒りに震えていました。2度目の党首就任をめぐり、村山さんと土井さんとの話し合いは数日間にわたり、なぜか私はそのすべてに立ち会いました。当初、党首就任に難色を示していた土井さんも「生まれ変わって、市民に開かれた政党になるなら」とついに受諾します。
この時、私が考えた「市民との絆」というキャッチフレーズを、土井さんは自ら筆を取って何度も書いていました。就任の記者会見は「市民との絆」という文字をバックに行なわれ、ポスターにもなりました。「絆」という言葉が社会的に使われるようになった最初ではないでしょうか。その秋、私も国会に行くことになりました。
政治家としての土井さんは、「憲法9条を守る」と壊れたレコードのように頑なに繰り返していたように受け止められているかもしれません。そして、気っ風が良く、カラオケが好きで、気さくな人柄というイメージが一般的かと思います。
たしかに、街頭でマイクを握った時の迫力と聴衆をひきつける力には凄味(すごみ)がありました。しかし、舞台にあがる前の土井さんは慎重で、山のような資料にあたりながら準備と勉強を重ね、自分なりの言葉を探ろうとする努力家でした。
社会党委員長、衆議院議長、社民党党首と、長い間、公的な場にいた土井さんには、いわゆる「失言」のたぐいがありませんでした。マイクを握るとすらすら出てくるように聞こえる言葉も、事前にひとこと、ひとこと言葉を洗い出し、練り上げながら自分の表現をつくりあげ、何度も反芻(はんすう)しながら慎重に吟味したものだったということは、あまり知られていないかと思います。
また、土井さんの周辺には、層の厚い多彩なブレーンや助言者がいました。党首討論でのわずかな時間のやりとりでも、事前にいくつかのテーマをあげて、こうした専門家や学者の意見に丹念に耳を傾けていました。これでもかというぐらい多方面からの意見を集めて、自分なりの方向感覚を探っていく姿が焼きついています。
土井さんは初当選以来、衆議院外務委員会に所属していました。70年代から80年代にかけて、条約をめぐっての議論を振り返ってこう話していました。
「当時、外務委員会で条約をやる時には、時間制限はなかったのよ。憲法と法律の間にある条約については、質問しようとする議員が『わかった、もう聞くことはない』というまで延々と議論したものよ」
委員会で4時間ぶっ続けで質問したこともある、と聞きました。官僚たちも土井質問によって鍛えられていきました。
そして、いまでも忘れられない言葉があります。
「国会法104条を読み直してみなさいと(政府に)言ってごらんなさい」
国会議員が資料を要求した時には政府は応じなければならない、と定めた国会法の条文を引き合いに、国権の最高機関である国会が持つ「国政調査権」を使いなさい、というアドバイスでした。
私は、この言葉をヒントに、質問方法や準備手法を練り上げ、やがてダンボール何箱もの政府資料を取り寄せる術を身につけ、「国会の質問王」と呼ばれるようになりました。憲法や国会法の使い方だけでなく、国会で仕事をするという重み、その発言の価値というものを教えてくれたのは、憲法学者でもある土井さんだったのです。
3年半前の春、東日本大震災の後に世田谷区長選挙に出る時、私は社民党を離れて無所属になりました。永田町から離れているからこそ、昨年の特定秘密保護法やこの夏の集団的自衛権の行使容認の閣議決定など、戦後政治の重要な局面で土井さんの意見を聞いてみたいと思いながら、ついに果たせませんでした。
東京を離れて郷里の神戸に戻っていた土井さんを何度も訪ねようと試みましたが、土井さん自身が強く拒んでいたとのことです。誰と会う時にも、自分のコンデションを整えておきたいという、土井さんなりの美学だったのではないかと思います。
子育て世代が「憲法」に向かい合うカフェ・トークに参加する時代です。それは、土井さんが守ろうとした「9条」の精神がなし崩しに踏みにじられていく恐れが強まっている時代でもあります。
これからも、土井さんの歩みと軌跡をしっかり次の世代に伝えていきたいと思います。
1955年、宮城県仙台市生まれ。世田谷区長。高校進学時の内申書をめぐり、16年間の「内申書裁判」をたたかう。教育ジャーナリストを経て、1996年より2009年まで衆議院議員を3期11年(03~05年除く)務める。2011年4月より現職。『闘う区長』(集英社新書)ほか著書多数。