ハッカーの遺言状──竹内郁雄の徒然苔
第11回:奇人と変人

元祖ハッカー、竹内郁雄先生による書き下ろし連載(毎月下旬に掲載)の第11回。今回のお題は「奇人と変人」。

ハッカーは、今際の際(いまわのきわ)に何を思うのか──。ハッカーが、ハッカー人生を振り返って思うことは、これからハッカーに少しでも近づこうとする人にとって、貴重な「道しるべ」になるはずです(これまでの連載一覧)。

文:竹内 郁雄
カバー写真: Goto Aki

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2014年になって、総務省が「異能ベーション」という公募事業を開始した。私が2000年から関わっている未踏事業とよく似た仕組みなので、良い共存競争関係になればと思っている。この異能ベーションのキャッチは「変な人を求む」で、まさにキャッチーだ。ちなみに未踏は「とんがった人を求む」だ。異能ベーション事業には賛否両論あるようだが、ここではその話ではなく、「奇人」と「変人」の違いを話題にしたい。

世の中では「奇人変人」というように、同語反復的な意味合いでも使われているが、奇人と変人は本当に同じ意味なのだろうか。簡単な辞書を見ると、たしかに同義語のように書いてある。しかし、気になる人もいるらしく、「奇人 変人 違い」で検索すると、いろいろなQ&Aやブログが見つかる。違いはないという人もいれば、違いがあるという人もいる。

言葉の意味は移ろいやすい。昔の「正統意味」を知っている年寄りが「その『全然』の使い方は間違っている」といってももう大勢は傾いているし、昔の正統意味なんかなさそうな「やばい」はいまや若者たちの間では絶賛的な意味合いのある褒め言葉にもなる。コミュニティの多数決で言葉の意味が定まるのが言語現象なのである。

しかし、流れにさおさしたくなることもある。と言っては本来いかんのですね。流れに棹さすは、本来は流れに棹をさして水の勢いに乗る、つまり大勢に乗ってその勢いをさらに増すような行為のことなのだが、いまやその逆の意味、大勢に逆らうという誤用のほうが2倍ほど多いらしい。流れに棹さして川底まで突き刺せばよかったのかな? ともかく、最初の「流れに棹さす」は誤用、しかし、いまや大勢の使い方だった。

では、言い直し。上記のQ&Aやブログの大勢に逆らって、ここでは奇人と変人のきちんとした区別を考えよう。どちらも漢字2文字の言葉なので、正統派的アプローチぶるなら漢字の意味に直接当たるべきだ。

「変」の旧字は「變」で、糸、言、糸の横並び(続くという意味)の下に「攴」(打つという意味、攵はその略体)がついている。つまり、連続するものを絶ち切るという会意文字である。字義は、(1)いままでと違ったようになる/する、(2)乱れる、乱す、(3)普通でない、(4)思いがけない出来事、などである。熟語を見ると大半が「かえる、かわる」の動詞的な意味で「変」が使われている。例えば、「変異」「変更」「変化」「変質」など。

一方、「奇」は形声文字で、「大」は両手両足を広げて立つ人の象形、音符というか意味を表す「可」は、カギ型に曲がる意味。これを併せて「変わった人」ということらしい。おお、やはり変人と奇人は同じか……。しかし、「奇」の字義は多少異なる。(1)珍しい、(2)怪しい、(3)優れる。このほかに対の片方とか、余りの意味もある。「奇数」はここから来ている。

こう見ると、「奇」には、珍しい、優れるという「変」にはないニュアンスがあることが分かる。ここがポイントだ。「奇才」というが「変才」とは言わない。「奇偉」は優れて偉大なこと、「奇警」は優れて賢いこと、「奇骨」も珍しい気骨があること、「奇士」は優れた人物、「奇童」は神童と同義、「奇抜」の第一義は優れて抜きん出て並々ではないこと、「奇麗」は優れて美しいこと、などなど。

私がこれを調べたのは「新漢語林」の電子版であるが、驚いたことにこの辞典には「変人」の見出しがない! 正統な漢語ではないのかもしれない。ついでに「奇人」には私が知らなかった意味が出ていた。「余り」の意味の「奇」が使われて、「奇人」の第2の意味は、暇な人である。余裕を感じさせて、いいですねぇ。

ここまで見てくると、正統派的には「奇人」のほうが「変人」よりは正しく、かついい意味で使われるべきだと思う。寛政の三奇人は江戸時代の寛政期に活躍した、傑出した3人の人物のことである。近代日本三奇人は小川定明、南方熊楠、宮武外骨とのこと。どういうわけか、奇人は「四奇人」もあるが「三奇人」とくくられることが多い。語呂がいいからだろうか。賢人は三賢人、四賢人、五賢人、六賢人、七賢人、万遍なくあるようだ。

世の中には「変人会」という名前のコミュニティが多いが、「奇人会」は見当たらなかった。自分を「奇人」と呼ぶのは、褒め言葉なのではばかられ、謙遜して「変人」の会と呼ぶからだろうか。だとすると、世の中の人々は結構ちゃんと使い分けている?

いまから10年ほど前、私が電気通信大学にいたころ、情報処理学会の全国大会が電通大で開かれることになった。大会のプログラム委員長を頼まれてしまったので、いろいろと「変な」じゃなくて「奇妙な」企画を立てた。企画立てついでに、「奇怪な」色紙まで書いた。それが写真1である。

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写真1:色紙「奇人の佳遇」。原本はどなたかに差し上げたと思う。

ここに「奇人の佳遇」とあるが、これは東海散士(本名は柴四朗という明治・大正の政治家)が書いた、なんと全16巻の長篇政治小説「佳人之奇遇」の題名のパロディである。もちろん読んだことはない。高校生のとき、日本史だか国語だかの授業で聞いておもろい題名の本だなぁと思った程度の記憶である。でも、このパロディはその当時に作ったもののはずだ。当時、週末ぐらいにしか会えなかった親友と遊ぶことを表現するのに使った。オリジナルの「佳人」はもちろん美人が本義である。この色紙は、当時参加者が減っていた全国大会を、奇人たちの佳い遭遇のチャンスであると鼓舞する意味合いであった。この言葉は本家ハッカーが集ったときにも使えそうだ。

未踏(現在の正式名称は「未踏IT人材発掘・育成事業」)では、数多くの奇人に出会った。筆頭格は当時鹿児島大学の教授だった竹内康人さんだろう。私より歳上だった。周囲からは「変人」と呼ばれていたかもしれないが、れっきとした奇人だ。大学教授になる前は横河電機で体内の様子を超音波で撮像する超音波機器の開発をされていたと聞いている。

竹内康人さんのプロジェクトは「ささやき声を有声音にする」である。会議中に携帯電話に緊急の連絡があったとき、ささやき声で応答することになるだろう。これを聞いている側では、普通に母音が発音されているように聞こえる音響処理をする技術の開発である。これ自体、とても面白いプロジェクトだったのだが、それはさておき、竹内さんの奇人ぶりを示す画像やエピソードを紹介しよう。

大学教授の教授室は乱雑だと信じている方が多いと思うが、実はそうでもなく、竹内さんの部屋は常規を逸していた(写真2)。

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写真2:竹内康人先生の教授室(2001年)。この部屋でも必要なものはすぐに出てくるようだった。

右に放射線発生器、横にオーボエ、その奥に非常に高価なシンクロスコープ、さらに奥には中が空のラヂオ受信機、明治天皇御影などなどで、しかも足の踏み場がない。

プロジェクトが終わって6年ほど経ってから、別のプロジェクトで鹿児島大学に行ったとき、竹内さんはもう定年間近だったが、とうとう教授室の外の廊下にもいろいろなものが並ぶことになった(写真3)。

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写真3:竹内康人先生の教授室の前(2007年)。掲示物などを子細に眺めると結構度肝を抜かれる。ちょうどお留守だったので写真をパチパチ撮ってきた。ドアの上にダースベーダの仮面と赤茶色の木魚がある。 ※写真をクリックすると拡大表示できます

ささやき声プロジェクトのあと、竹内さんはなんとも「奇妙な」研究をしておられた。竹内さんはバイオリンを弾き、鹿児島大学学友会管弦楽団の部長をしていたこともあり、バイオリンの高い音をもっと簡単に弾けるようにしようと、最高弦のE線より、さらに高いH線の実験をしたのである。ハイポジションを使わなくていいからというわけだ。しかし、そのためには細くて高張力の線材が必要で、いろいろ苦労をしたものの、結局弾きにくかったとのこと。次は尺八の歌口をクラリネットの本体に繋げた、その名も「尺埒しゃくらち」の開発。これもまともな音が出なかったそうだ。でも、どちらもちゃんと研究会論文として発表されており、「猥竹」の名前で私に送ってくださった。

変人ではなくて、奇人たる所以は、外形的な奇行ではなく、アイデアの「奇抜さ」と深い技術背景、さらには学生諸君の「奇特」とも言える面倒見のよさである。いつぞや、留学生の修士修了後の進路で協力させてもらった。

大方の読者はご存知だと思うが、2003年の未踏ユースで出会ったSoftEtherの登大遊君も天性の遊び心を持った素晴らしい奇人だ。最近は筑波大学松美池に忽然と現れたスワンボート「博士号」で世間を騒がせた。実に用意周到な、割りとお金のかかる「遊び心」的準備があったのは、いかにも登君らしい。現在SoftEtherの代表取締役会長をしながら、筑波大学の博士課程を楽しんでいるが、大学当局から完全に一目置かれているようだ。

登君は、モーツァルトが音楽を書くような調子でさらさらとプログラムを書けるとんでもない逸材だが、それだけではない幅広さを持っている。私が東大にいたころ、彼の創造力の秘密を喋ってもらおうと、ほぼ同じ年の大学院生を前に1時間強の講義をしてもらったことがある。そのとき、「大変楽しい低レイヤソフトウェア開発とベンチャー起業」と題した、なんと296枚のスライドを用意してきた。もちろん技術詳細にわたる全部は見せなかったのだが、彼が最後のほうに示した10数枚のスライドは感動的だった。図1は彼の「ベンチャー企業経営」。

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図1:登君の「楽しいベンチャー企業経営」。技術者と経営者を両立させているところがすごい。

これだけを見ても彼の才能ぶりというか、奇人・奇才ぶりが窺えよう。最後の2行は、彼の開発した当時の「SoftEther」(現在はPacketIX)にイチャモンをつける人々や企業が多く、いろいろな訴訟があったのに、負けない自信があったので、 訴訟を楽しんでいたということを示している。

図2図3は登君の創造の秘密を示したスライドである。

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図2:登君の「創造力を発揮するときに行うこと」。彼は会社の経営者としてはビジネス一辺倒でないので、そこが彼の弱みだという人もいるが……。

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図3

これもすごい、というか、簡単には真似できない秘伝だ。私が「モーツァルトのように」と表現した所以である。このスライドのあとにも詳細な説明があるのだが、あとは登君ご自身にお任せしよう。

ほかにも未踏では書ききれない数の奇人と遭遇したが、紹介の最後の3人目は現在サイボウズラボにいる西尾泰和君にしよう。西尾君のことを初めて知ったのは未踏が始まって間もない2001年の6月、松江で彼に出会った現在はこだて未来大学学長の中島秀之さんからのタレコミメールであった。いわく「AI学会で有望な若手に会いました。まだ2年生なので自費参加ですって」。

それだけだったらよくある話かもしれないが、実際に会ってみて、彼は典型的な「奇人」だと思った。本人は否定するが、大学生なのに、奈良からどうやって大阪の自宅まで電車で帰るのか分からなかったとか、エピソードが絶えない。しかし、「ゲノムの可視化」というプロジェクトを完遂したあと、京大3年修了後に奈良先端科学技術大学院大学に進学して、1年で修士、2年で博士、つまり24歳で博士号を取ってしまった。この記録は簡単には破れまい。

西尾君がすごいと思うのは、興味分野の変遷の多様さである。次から次へと新しい分野に手を伸ばしては、チョチョイといろんなことをやってのけてしまう。最近は昔より大人になって落ち着いたと思うが、それでも生来の気質は変わっていない。

ここで紹介した3人はもちろん、未踏で素晴らしいと思った奇人たちの共通項は好奇心の強さである。つまり、「奇」を好む心の持主だということだ。私は大学の講義で、学生によく「好奇心を持て」というお説教をしていた記憶があるが、「奇人」と「好奇心」が結び付くとはつい最近まで気がついていなかった。ついでながら「奇想天外」も私の好きな言葉である。

さて、私は自分の名前でGoogleを検索することはほとんどない、というか過去何年もしていなかったと思う。何年か前に「竹内郁雄」で検索すると、ご丁寧に「関連検索: 変人 竹内郁雄」というのが紹介されていた。もうそれはなくなっただろうと思って、さきほど検索したら今度は「他のキーワード: 竹内郁雄 変人」と出てきた。おお、「忘れさせてくれないGoogle」だ。ついでに「変人」も入れて検索してちょっと下のほうを見たら、大日向大地さんのブログがあり、「変人度単位『鵺』」というのが出ている。なにかと思ったら、西尾君が「変人+竹内郁雄のヒット数が98なので、変人度の単位として100ヒット=1鵺を提唱しよう。僕は56センチ鵺。」という投稿をしていた。うーむ、いつの間に……。ちなみに、私と変人の組合せは、私が変人について言及しているものが多いからである。しかし、これからは上記の考察をベースに反省をし、「奇人」という言葉を使うことにしよう。

とはいえ、これから頑張っても「他のキーワード:竹内郁雄 奇人」が出てくることはなさそうだ。「奇人」の発展はこれから出てくる若い人たちに期待することにしよう。

◆     ◆     ◆

追記:
念のため、いろいろな漢和辞典を調べてみた。私が昔から愛用しているコンパクトな宇野哲人編「明解漢和辭典」三省堂(写真4)、昭和丁卯年(昭和2年)の「變」を見ても、「變人」はない。

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写真4:私が愛用している「明解漢和辭典」

この辭典のすごいところは、四が三に一を加えた数と書いてあることで(ほかの漢数字も同様)、まるでブルバキの数学原論の流儀である。しかも、「奇人」の第2の意味は丁年に達していない人である。つまり未成年ということ。この意味も初めて知った。「丁」は丁半の「丁」だ。

日本最大の「諸橋大漢和」(大修館書店)を見ると「奇人」は、(1)氣質、擧動が常人と異なった人、(2)家業を支へるに必要な者以外の人。手すきの人。ひま人。間の人(ちなみにこの間のJISコードは16進で3456)。奇は餘、(3)風がはりの人。かはりもの、とあり、漢籍の出典が数多く出ているが、変人(偏人)のほうは仮名草子からの出典などである。荘子には、世の常ならぬたのしみを意味する「奇樂」という言葉が出てくるという。「氣楽」に通じて、いいですねぇ。

小学館の「日本国語大辞典」を見ても、変人には漢籍の出典がない。白川静編の「字通」(平凡社)でも、変人は主要見出しにはない。私の直感は当たっていたようだ。なお、同じ白川静編の「字統」によると、「奇」を「大」と「可」に分けてはいけなくて、「奇」から「口」を引いたものと「口」に分けるべきだそうだ。この引いたものは、把手のある大きな曲刀を表し、祭礼などで振るもの(図4)。

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図4:たしかに曲がった刀に見える。

これが奇跡などを引き起こすことに繋がるらしい? やはり、言葉をかっちりと定義するのは難しい。なお、「変」には、天道は正常にして不変、これに反するものを変という、とあった。

面白かったのは、類語大辞典(柴田武、山田進 編、講談社)で、奇人は、変人よりさらに変わっていて、奇怪な行動をする人、という説明があったこと。いろいろな解釈があるものです。(つづく)


本連載は、毎月下旬に掲載していく予定です。竹内先生への質問や相談を広く受け付けますので、編集部、または担当編集の風穴まで、お気軽にお寄せください。(編集部)


変更履歴:
2014年9月30日:「平凡社の白川静編の『字通』(平凡社)」の「平凡社の」をトルツメしました。


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