江戸時代の剣術の稽古道具と稽古方法

 

 江戸時代の道場ではどのように稽古が行われているか考えてみる。

 ただ、記録が残っていないのか詳細がわかる本が見つからず、断片的な情報の寄せ集めのため、はっきりしない点があることをご了承願いたい。

 

◆江戸時代の稽古道具

 流派道場ごとに使用する道具が異なり一概には言えないが江戸初期は竹刀、木刀(作中では木太刀と表記される)や刃引刀(刃を潰し斬れないようにした刀)、時には真剣を使う。江戸中期に入り本格的な剣術用の防具が開発されるまでは防具なしで稽古している道場が大半であった。

○木刀と竹刀

 竹刀は新陰流の祖・上泉伊勢守が用いた嚢竹刀(ふくろしない)が基になっているといわれている。木刀や竹刀の長さや材質、重さなど統一した規定がなかった。

 天保年間(1830年〜1844年)に柳川藩士大石進が五尺余の長竹刀を使い江戸の諸道場を脅かしてからは「当たれば勝ち」と考え、勝負にこだわりすぎる者が槍のように長い竹刀や鳥指竿のような細長い実用に程遠い竹刀を用いるようになった。

 安政二年(1855年)に幕府が設立した講武所では竹刀の長さの上限を三尺八寸と決めた。この規定が現代の剣道に受け継がれている。

 

○防具

 剣術稽古用の防具は直心影の山田平左衛門光徳(1639〜1716)により本格的に開発され、正徳年間(1711〜1715)に山田の息・長沼四郎左衛門国郷が籠手を、宝暦13年(1763年)に中西派一刀流の中西忠蔵子武が現代の胴の原型になった胸当てを開発した。

 防具の登場で剣術の稽古の安全性が向上、防具なしでは危険だった打込稽古が稽古の主流になるとスポーツ感覚で剣術の稽古ができるようになり剣術の愛好者を増やした。

 防具導入へ消極的な流派、道場があったようで防具開発から約百年後の嘉永7年(1854年)に若年寄支配下の剣術指南役(具体的には誰のことを指しているのか不明)に対して「防具を使わないのは危険だから公儀から防具を下げ渡す。希望者は遠慮なく担当の御目付に申し出よ」という主旨の触れを出したという記録が残っている。

 防具も流派ごとに異なる。流派ごとに攻撃する部位のみ防具を装着した。他流試合の禁が存在する時代の稽古相手は同流のみに限られ、流派ごとに防具を装着する部位が異なることは問題ではなかった。 

 しかし、幕末に他流の禁が解かれると他流試合が盛んになる。流派ごとに防具を装着する部位が異なると他流の相手に防具を装着しない部位を攻撃され、安全性が確保できない。そのため、入門者の流派を問わない講武所では多くの流派が攻撃する部位に対応できる標準的な防具を作り出し、入門者に貸し出した。この防具が当時の標準となった。 

 

○作中の道場の稽古道具は?

 作中では素面素籠手で木刀で稽古しているシーンがある。小兵衛が辻道場に入門した享保16年(1731年)には剣術用の防具が開発された直後で素面素籠手が常識であった。

 一巻・女武芸者が始まる安永6年(1777年)末では胴が考案されてから14年後のため防具を使っている記述が見当たらないのは決して不自然ではない。大治郎が修行した時代も防具はなかっただろう。ただ、作中のように真剣で稽古する道場はそう多くはなかっただろう。

 防具を用いているという具体的な記述があるのは1巻井関道場・四天王で三冬が黒塗りの胴、四巻天魔で金子道場で皮胴、八巻狐雨で笹野と杉本が打込み稽古を行っているシーンで胴を使っているぐらいである。

 ただ、竹刀か木刀での打込稽古と試合稽古を行う道場では防具は必須であり、常識の範囲内として記述を省略したのだろう。

 

◆稽古・修行方法

 数々の本に掲載されていた方法を列挙する。流派道場によって異なる。ここでは道場内で行われている稽古方法に限定する。

○作中の稽古シーン

 作中で描かれる秋山大治郎の道場の稽古は朝から1刻(約2時間)稽古をこなしてから朝食である。食事も稽古の一環で食物が唾液化するぐらいよく噛んで食べる。

 食事後、1刻休み(そのうち半刻は仰向けのままゆっくり静臥する)1刻稽古をする。道場の掃除も稽古の一環で掃きぬぐう動作にも整息術が含まれ呼吸と動作が一致するようになり体の鍛錬を目的に小兵衛に命じられていた。

 型を使った稽古は真剣を用いる。作中の設定では無外流の型は三段三十七手、創作者は辻平右衛門、37手を習得すれば邪念が消える設定である。第一弾は十一手。型には特別な名前がないそうだ。普通の道場では刃引刀か木刀を用いる。八巻狐雨で笹野と杉本が打込み稽古を行っているシーンでは胴を使っている。作中の稽古の様子は実在の無外流に基づく稽古かはどうかはわからない。

 入門者は最初に2貫目の振り棒を振らす。慣れてくると3貫のものに変える。初期の頃は4貫目のものを使っていた。体の仕組みを整えるのが目的で、同流の杉本道場でも同じことが行なわれている。

 作中の道場で振棒を用いるのは『剣客商売101の謎』で指摘されているように池波さんが短編の「明治の剣聖−山田次郎吉」執筆時に参考にした資料の中に「山田の師の榊原鍵吉が振り棒を毎日振った」という逸話を取り入れたことによる。

 

○素振り

 基礎中の基礎。現在も多くのスポーツで素振りから教えられている。

 

○型(組太刀)稽古

 型は相手の攻撃に対してあらかじめ決められた動作で対応するもの。単純に説明すれば「Aという攻撃に対しBという反撃を繰り出す」というもの。現代的な言い方では「マニュアル」が型に相当するだろう。

 作中でわかりやすい型の使用例は一巻・井関道場四天王。偽名を使った小兵衛と佐々木三冬が井関道場で立会い、小兵衛が敗れ三冬に弟子入りしたことを他の門人に見せるシーンである。あらかじめ型を決めて数日間稽古をし、二人が型を使っていると思わせなかった。時代劇の殺陣も全員が決められた動作をし「主役が悪役に勝つ」という点では広い意味で型に含まれる。

 剣術の型稽古は打太刀と受太刀(仕太刀とも言う)の二人に分かれる。打太刀が最初の一撃を繰り出し受太刀が防ぎ、所定通りに打合い最後に受太刀が反撃を加え一つの型が終わる。打太刀は型通りの攻撃を繰り出し、受太刀に防御の型を使わせ受太刀を勝利に導くため、打太刀を務める者が上級者という不文律がある。一人で稽古する時は相手の攻撃を想像して行う。

 木太刀を使う場合が主だが刃引刀を用いることもある。互いの一寸手前で剣を止めるが、一瞬の油断があれば木太刀でも命の危険があり、かなりの集中力を必要とする。雑念を払い剣に没頭する型稽古は精神力を鍛え、剣の真髄に達する方法と考えられていた。作中では真剣での型の場面があるが達人以外には危険極まりない。初心者には安全面を考え竹刀で型稽古させる道場もあった。

 型は相手の攻撃に対し反射的に体が動くレベルにならないと何の役に立たない。しかし、江戸中期に入ると型稽古が美しく見せることに重きを置く「剣舞」になった。そのため剣の腕は上がらず型以外の攻撃に対応できなくなり剣術素人に負ける有様になった。防具が普及すると初心者は型稽古はつまらないと感じ、稽古の主流が初心者でも安全にでき面白みがある打込稽古や試合稽古に移った。

 上級者のみ組太刀を教える方針の道場もあった。ほとんどの者が型稽古を好まず一部の者が学ぶことで型が残った。型は流派ごとに異なるが複数の流派を修めた剣客が存在することを考えるとある程度の素地があれば他流の型を身につけるのは難しくないようだ。

 

○打込稽古

 現代の剣道の稽古と似たようなもの。上級者向きの型稽古では間合いがわかりにくく、面白みに欠くことから始められた。竹刀を用いる。木太刀を用いる場合は打ち合っても相手の体の寸前で止めるのがルール。

 竹刀と防具が普及以降は危険性が格段に低くなり、初心者でも稽古ができるようになったことで稽古の中心になった。型稽古ではできない俊敏な太刀さばきを身につけることができた。町人の剣術愛好者を増やした反面、作中でも指摘されるように派手に打ち合うだけになったことも否めない。

 また、打込稽古は流派に関係なく稽古が可能という利点がある。作中、無外流の秋山大治郎が流派の違う小野派一刀流の浅田道場などで稽古をつけている。型は流派ごとに異なり他流の大治郎が教えるのは不可能だが打込稽古なら流派の違いは問題にならない。

 

○試合稽古

 試合形式で行われる稽古。一回ごとに勝敗を決めるため上達具合がわかりやすく、互いに競い合うことで心身を鍛えた。竹刀、防具を使用し安全を確保して行われる。江戸後期に試合稽古が普及すると稽古の中心になり試合稽古が盛んな道場に門人が殺到した。

 しかし、勝負にこだわりすぎ「勝てばいい」と安易に考える者が現れ相手の奇を狙う剣術を目指し長竹刀や鳥指竿のような細長い物実用に程遠い竹刀を用いるようになる弊害も一部で生じた。

 

○見取り稽古

 他者の稽古や試合、演武を見学し分析して優れている点を自己に活かす稽古法。大道場の場合は道場主や高弟が一度に全員稽古をつけることは不可能で待ち時間が生じる。呆然と順番を待つのではなく他の門人の稽古を見ておくように言われていただろう。

 優秀な剣客は相手の一挙一動を見て技量を判断する能力が必要で、達人は道場の稽古や評判を見聞しただけで道場主の技量を判断できるそうだが、見取り稽古の賜物なのかもしれない。

 

○野試合(打割野試合、広場稽古、集合撃剣とも言う)

 団体で行う稽古。試合と称しているが内容は稽古の一貫。実戦上必要な団体での訓練を目的としている。剣術の他に砲術、槍術や徒歩や騎馬も並行して行われることもある。広い場所で行われ門人を紅白の軍に分け合図で一斉に打ち合う。面の上に土器を載せ割られると討死したと見なし退場する。審判員が頃合を見て試合を終了し生き残りが多い軍を勝者とする。

 両軍に各一名ずつ大将を決め大将を討ち取った方を勝者にする方法や土器の代わりに鞠を乗せ打ち落とされると討死と見なすこともある。野戦の演習を兼ね、剣、槍、銃の各隊に分け陣を張る大規模なものも行われた。

 

○墨付兵法

 竹刀の先に墨を付け相手の体に墨をつければ勝ちになる。一見遊びのように思えるが防具がなく、打込稽古が危険な時代には打込稽古の代替手段として行われていた。

 

○太刀筋を見る稽古

 防具をつけて何度も打たれ太刀筋を見る力を養うと共に恐怖心を薄める。防具がない時代は寸止めまでだろう。

 作中では同様の目的からか大治郎は小兵衛と辻に体にわずかな切傷が出来る程度だが真剣で何度も斬られている。達人でなければ不可能である。おそらく、著名な剣客の実際の稽古方法から採ったのだろう。

 

○対多勢の稽古

 多勢の敵に対する稽古。稽古や試合では必ず一対一だが何者かに襲われる時に相手が一人だけとは限られない。多勢の敵への対策を稽古で身につけておく必要があった。

 

○対異武器稽古

 弓矢、槍、薙刀、鎖鎌、棒など刀以外の武器に対する稽古。他の武器を持つ相手と対峙することはありえるだけに異武器への対策を稽古で身につけおかないといざという時に苦戦する。

 五巻・暗殺で佐分利流の槍術の遣い手である杉浦丹後守に襲われた大治郎が傷を負いつつ勝利したところを見るとこの稽古をしていたのだろう。

 

○鍔迫り合い稽古

 鍔(つば)迫り合いをする稽古。鍔迫り合いをする機会は稀だが稽古で慣れておく必要があるので稽古が行われた。鍔をつけた木太刀か刃引刀を使ったのだろう。

 

○集中修行

 集中修行は現代の合宿のようにどこか他の場所で集中的に修行したのだろうか。『武士の家計簿』の加賀藩城下のある道場では七日間の集中修行(費用は70匁5分20文、金貨換算で約一両)があったと紹介されている。

 

○寒稽古と土用稽古

 江戸初期より存在する稽古。旧暦の11月10日から15日の早朝という最も寒さが厳しい時期に開始し一ヶ月間続く。寒さに耐えることで心身を鍛えるのが目的。土用稽古は最も暑い土用の時期に集中して稽古を行うもの。

 

○暗闇稽古

 暗闇の中で稽古する。暗闇で襲われることを想定して目を暗闇に慣らし相手の気配を察知する感覚を養った。江戸時代の夜は現在に比べて想像ができないほど暗いため慣れておく必要があった。

 

○短い竹刀・木太刀を使う稽古

 脇差を使うことを想定し、短い竹刀か木太刀を用いて距離感など脇差を使う感覚を養う稽古を行う。脇差は刀が折れた時か城内・訪問先など刀を預けなければならない場所に用いる。

 また、屋内での斬り合いは刀では天井か柱、家具を突き刺してしまう危険性があるため刀より短い脇差の方が使い勝手がよい。

 

○居合(抜刀術)

 居合は簡単に言えば刀を鞘に刺した状態で瞬時に刀を抜き相手に一撃を加える技。どんな不利な姿勢からでも刀を素早く抜く技術は必要という観点から無外流では自鏡流の居合というように多くの流派では居合を取り入れている。

 試合と果し合いでは抜刀するまで相手が攻撃してくる心配はないがそれ以外の場面で何者かに襲われた時に相手が待ってくれるとは限らない。抜刀に手間取れば不利になり、慣れていなければ抜刀の時に怪我をすることもあった。一方で居合を稽古し刀を抜く時に相手に一撃を加えられればその分有利である。

 居合の稽古では真剣や刃引刀を使うこともあるが鞘をつけた木太刀を用いることもある。居合は本来は正座という不自然な姿勢で行う。立った状態で行うのは立居合と分類される。 

 

○剣術以外の武術の稽古

 剣術以外の武術も稽古した。剣術が合戦で戦う戦闘術の一部と考えられていた時代の流派の多くが他の武器を教えていた。居合や柔術、槍、杖、棒、縄、小太刀、鎌、手裏剣など道場や流派によって教えた。

 二巻・老虎の四天流山本道場のように山野で稽古し剣で打ち合った後、相手と組み合うといった実戦のような激しい稽古をしている道場もあっただろう。江戸中期に起こされた講武実動流では槍術、居合術、気合術、柔術、砲術、兵学を含んでいた。

 小兵衛は剣を使うまでもない相手なら竹杖で懲らしめる、当身で気絶させる。稽古していたのかもしれない。

 

剣術編の最初のページに戻る