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日蓮大聖人御書講義    第二十四巻に挟まっていた物


昨日、届いた「日蓮大聖人御書講義    第二十四巻」の裏表紙に聖教新聞の切り抜きが・・・
その記事を下に書き出してみました。







【社説】

 六月度の御書学習会集会が、七日、八日、を中心に開催される。今月の教材は 「四条金吾殿御返事」 (御書一一九二㌻)である。
 この御書は、別名を 「法華経兵法事」 と呼ばれるように、人生勝利の要諦は法華経の兵法以外にないことが明かされている。

 強盛な信心が一切の根本

 弘安二年十月、強敵と激闘のすえ撃退して無事だった四条金吾に対して、日蓮大聖人は 「前前の用心といひ又けなげといひ又法華経の信心つよき故に難なく存命せさせ給い目出たし目出たし」 と仰せになり、さらに 「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず ・ 果報つきぬれば所従もしたがはず、所詮運ものこり果報もひかゆる故なり」 と、金吾が苦難に勝利できた理由をお示しくださっている。
 苦難に直面したとき、それに負けずに乗り越えるためには、とっさに賢明な判断のできる智慧と、体当たりして道を開いていく勇気が必要であることはいうまでもないが、いざというときにそれが発揮できるのは、日ごろの御本尊への強盛な信心があればこそなのである。
 また、考えぬいた方法 論が とられ、ぬかりのない努力がなされたとしても、福運が尽きてしまえば、その結果はみじめなものになり、ついてくるはずの人々からも見放されてしまうこと、現実によく見られることである。何ごとにも崩れぬ福運を積みゆくためには 「いよいよ強盛に大信力をいだし」ていく以外にない。
 したがって 「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」 と仰せの 「法華経の兵法」 とは、御本尊への純粋で強盛な信心 ・ 実践であるということができよう。
 今までの知識や経験や能力などではとうてい解決できそうもないような事態に直面したときには、いったん、いっさいの方法論を捨てて、御本尊に祈るしかない、と決めることである。
 その祈りも、大聖人が四条金吾に 「何なる世の乱れにも各各をば法華経 ・ 十羅刹  ・ 助け給へと湿(しめ)れる木より火を出し乾ける土より火を儲(もう)けんが如く強盛に申すなり」(同一一三二㌻)と御教示のように、濡(ぬ)れた木から火を出してみせる、砂漠のような大地から水をほとばしり出してみせる、という一念でなければならないだろう。
 世間の常識ではとうてい不可能と思われることも可能にする無量の御力が御本尊にはそなわっているのである。それにもかかわらず、私達はよく 「そんなことはできない」 「自分なんかダメさ」 ときめこんで、初めからあきらめてしまう場合が多い。それは、御本尊の御力を知らないためであり、御本尊不信に通じるのである。
 いざというときこそ 「この御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、即ち祈りとして叶わざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり」 (観心本尊抄文段) との大確信を奮い起こすべきなのである。

 不可能を可能にする戦い

 御本尊に南無し奉り、祈りに祈ったとき、豊かな知恵と、たくましい生命力が涌現することは当然である。そこから、最高の作戦 ・ 方策が生まれ、それが最高の行動 ・ 実践に移されたとき、諸天の加護もあり、不可能も可能になって、大勝利の実証が示されることは、過去の広布の歴史においても、個人の苦難との戦いにおいても、数多くみられる。
 勝たなければならない広布の戦いや、打開しなければならぬ現実の険路に直面したときこそ 「兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて難病にては叶うべからず」 の御金言のままに、強い祈りと勇気ある実践の〝法華経の兵法〟で見事に大勝利にしようではないか。

「昭和56年 (1981年) 6月4日(木) 聖教新聞」より





 私が特に注視したのは、
「今までの知識や経験や能力などではとうてい解決できそうもないような事態に直面したときには、いったん、いっさいの方法論を捨てて、御本尊に祈るしかない、と決めることである」
の部分です。
 やはり、現実では、どうしても、問題が起こると、とっさに考え始めてしまい、その後も延々と考え悩みあぐねいてしまい、その行為に執着し続ける傾向が強いのです。
もっと言ってしまえば、もしかしたら、もう少し考えたなら、解決策が出てくるかもしれない。
そう思えてならず、唱題をしに仏間へはなかなか足が向かない私です。
 が、この記事を読んで、これではイケナイな、と、これでは、御本尊不信ではないか、と、深く胸に刺さりました。
そうです。自分自身でも、知らず知らずのうちに、そういうことをしでかしてしまっている、ということが恐ろしく思えました。
 いつ、どんな瞬間に出くわしたとしても、「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」と、大聖人様の仰せの通りに、「いよいよ強盛に大信力をいだし」て、自身の身の上で、実験証明をしていこう。
 そのように決意することができました。

 この、新聞の切り抜きをされた方は、「日蓮大聖人御書講義 第24巻」の、「四条金吾殿御返事の最初のページに、切り抜きを挟んでおいたようで、新聞の跡が黄色く残っています。
 御書講義の勉強に切り抜きを抜粋されたのか、単に自分の学習にされたのかはわかりませんが、切り抜きには、数か所、鉛筆で線が引いてありました。
 33年という時を超えて、今、こうして見ず知らずの大先輩の足跡を確認して、後に着いて広布の道を歩んでいるという、このなんとも言われぬ気持ち。

 大変に幸福な気持ちであります。

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