宅録ミュージシャン雑記 月に見下ろされて ~宅録ミュージシャン trifling beetleのブログ~

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神戸の女児が行方不明になったという報道があったのは知っていたが、急に展開して行き、遺体が発見されて、あれよあれよという間に容疑者が逮捕された。

ただ、なんというか、すごく出来過ぎな展開というか。

遺体を入れていた袋にタバコの吸殻とか診察券って、え、そうなんっ!!

...って思う。

わかりやすいというか、幼稚というか場当たり的というか...わかりやす過ぎて、他の意図というか、他の真相があるのではと邪推してしまう。

本当のところはどうかわからないけど。

ただ、真犯人が誰であれ、ただ一人、全てを知っているわけだから、そこは嘘をつかず、自分から正直に告白して欲しいなと思う。

まあ、この事件もそうなんだけど、その背景というか裏には、今現在、加害者とされている容疑者や、あるいは被害者とその御家族の置かれていると思しき複雑な社会的環境とか、社会的な問題点、例えば貧困問題...なんかの影がちらほらと見えている気がする。

6歳の子供が、下校してから夕方6時頃まで、たった一人で日傘をさして町内を毎日徘徊していること...がとても尋常とは思えない。

また、容疑者が真犯人であろうとなかろうとそれ以前に、この人は現実問題、かなり社会から孤立していた、そんな自分に対して、とてもとても言葉では表せないほどの思いを抱いていたと思う。

淋しさ、やるせなさ、鬱憤、痛み、焦り、人恋しさ、苛立ち。

もっとあるだろう。

概ねネガティブなものだろう。

同情ではない。

しかしながら、それははたして、思い過ごしとか、被害妄想、メンタル的な問題ということだけで片付けられるものなのだろうか。

人はやはりひとりでは生きてはゆけない。

御近所トラブルの常連だったとか、そういう事実だけに目を奪われてしまったら、その奥にあることは見えなくなると思う、瞳が曇ってしまって...。

その奥にあることもまた、事実であり、事件の重要な要素のひとつだと思う。

真実はひとつ、ではない。

というか、単数ではない。

そして物事には、必ず表と裏、あるいはもっと多数な面が存在する。

ひとつの、ごくわかり易い面だけに光を当てて、曝け出し、そうやって幕を引いてしまうことは、本当に無意味だ。

あと気になったのは、容疑者に知的障害があったことなんかも、もうバンバン報道されている。

自分的には、障害があることと犯した罪との間には、何らウエットなものが入り込むべきではないと思う。

要するに、何の脈略もないと思う。

障害があるから罪の重さが減る、という考えには常に否定的だ。

法律上、情状酌量というものが、たまたま、形式上存在するだけだと思っているし、障害のある人の万引き行為と、ない人の万引き行為に何の差異もない。

まったくのイコールだと考えている。

やったことには、まったく変わりがない。

犯した罪には、変わりがない。

まったく同じ。

ただ、障害のあるなしそれ以前に、「人が罪を裁く」ということの根本的な意義について常に懐疑的なのだ。

それが果たして「正義」というものの絶対的な総体なのか、と。

だからこの事件でもそうだが、ただ単に犯した罪を「人が裁く」だけでは、何ら根本的な解決にまで至らないという気がしてやまないのである。



「水のないプール」。

ピーピング癖を持つファッキンユーヤが怖すぎて、イナセで、クールだ。

街を狩場に「昆虫採集」を展開してゆくという、なんとも恐ろしいホラーだが、地下鉄の切符切り職員の背負った物悲しさ、鬱屈感、悶々としたやり場のない感情なんかも的確に表現されていて、目が離せない。

はたしてこちらとあちら、精神病院は一体どちらかわからない。

そんな現代社会の病みを見事に表現している。

昆虫...すなわち「女」たちだ。

何でこんなことをしてなきゃならね~んだという、誰しも一度ならずとも持ち得るあのやるせない感情、それをファッキンユーヤは、クロロホルムを部屋に散布してひとり暮らしの女性宅に侵入し、そして狩る、採集する=強姦するという、なんとも頓珍漢な方法で解消しようとするのだ。

冷静に考えればトンデモナイ話しだが、それでも、社会に鬱積した感情が蔓延している限り、誰がこうなってもおかしくないよということが言いたいのだと思う。

現代人は、多かれ少なかれ誰しもが「ファッキンユーヤ」を心の中で飼い慣らしている。

だから、ファッキンユーヤ=狂気は、決して特別なものではない。

狂気と正気なんて、所詮は単なる諸刃の剣なのだ。

どちらが表で、どちらが裏なんて、語るだけ野暮。

いつ何時、表と裏がそっくりそのまま裏返るかは、まったく与り知れないものだからだ。

実際、この映画のネタになった事件は実在する。

ウィークエンダーで笑劇的に報道されていたのを憶えている(笑)。


最後のつかまり方もとっても間抜け。

強姦中に自分で撒いたクロロフィルムを吸ってしまい爆睡。

朝、被害者が目を覚ますと、全裸の自分の隣で、見知らぬおっさんが全裸で横たわっている!

絶叫である。

ここはコメディ的要素なのだが、そこまでの全編を見てきたならば、とてもそんな楽天的に考えられない。

とても、笑え、ない。

そもそも、それまでの何十分間、スクリーンにこれでもかとぶちまけてきた「狂気」の濃度が、こんなワンシーン程度で薄まるはずがないのだ。

最初から最後まで、目を背けたいのに、なぜか背けられない、そんな映画だ。


70~80年代の日活ロマンポルノを少しソフトにした感じである。

...というか、映画自体がそもそも1981年度作品だが(笑)。


一応、ピンクレディーを解散したばかりのミーちゃんがいきなりこんな映画に出たので、それはそれで話題を呼んだものだ。


そんなおどろおどろしい狂気に彩られた物悲しい中年男性の哀愁を、もの静かな演技でロケンロールユーヤが、まったく隙を見せず演じている。

この映画全編を通じて、ユーヤが微笑むことは、たったの一度もない。

いつもアブナイ表情をしているのだ。

それは自分の子供たちの昆虫採集を手伝っているときも、切符を切っているときも、強姦しているときも、いつも変わらない。

「十階のモスキート」「コミック雑誌なんかいらない」「エロティックな関係」「餌食」「魚からダイオキシン」なんかを通じて思うが、こういう演技をさせてファッキンユーヤの右に出るものはいないのではなかろうか。

日本一だぜ!

強姦される女性役にMIEと中村れい子、ファッキンユーヤの嫁役が藤田弓子、ジュリーと安岡力也がヤクザ役、極右系警備会社のカリスマ社長が原田芳雄、カメラ屋の店主タモリ、交番の警官は赤塚不二夫、なかなか面白い。

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