価値のない話

「夢と違うじゃねえかよお!」

「せんせいさようなら」と日本語の発声教育の話

 タイトル真面目ですが、中身は割とぐだぐだです。

 

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「保育園の隣に住むのは発狂レベルの騒音だった」という話 | sanmarie*com

 

 タイトルに反して興味深い視点が「子供の声が不快なのはそういう声を出させている教育なのではないか」というところです。ちょっと面白いので一部乗っかります。

 

「せんせいさようなら、みなさんさようなら」の謎

 自分が小学生のころ、音読の宿題をしていて母に「幼稚園の喋り方みたいだから直しなさい」と言われたのを覚えている。その頃は「幼稚園の喋り方」とは一体何かわからなかったけれど、おそらくこういうイントネーションのことだろう。リンク先は完全に個人の動画なので注意。

 

 上の動画は現在どこにでもある平均的な幼稚園の風景だと思う。しかし、この言い回しはどこからやってきたのだろうか。他にもこのような言い回しは「せんせー、男子が掃除してくれませーん」とか「いーけないんだーいけないんだーせーんせーにゆってやろー」みたいな子供特有の囃し歌によくあらわれる。適当に思いつく例を挙げただけだけれど、どうも「先生」が絡む言葉に多いのかもしれない。

 


なべなべそこぬけ - YouTube

 

 なんとなく「なべなべそこぬけ」の節と似ている気がする。わらべうたにのせて言葉を覚えさせていたのが最初なんだろうか。とにかくこのイントネーションの出自が知りたい。方言とも違うだろうし、何故この言い回しをさせるのだろうか。ざっと検索をかけたけれど、こういう研究をしている人が見つからなかった。もし何かいい文献があったら教えてください。Twitterで呼びかけてみたけど意外と食いつきがわるかった。「なるべくそういう発声をさせないようにしている」という意見ももらったので、今では改善されてきたのかなぁ。

 

 でも、多くの人が「特に意識をせず」この言葉を使ってきたという点が興味深い。子供でも個人対個人で「さよーなら!」という挨拶をすることはないし、大人になれば自然と消える。それなら、何故この発声をしていたのだろうか。何かわけがあるなら知りたい。

 

「気持ちを込めて読む」とは?

 発声からつながる話で、国語の授業では「音読」の分野で「気持ちを込めて読もう」という指導を受けた人が多いのではないだろうか。「登場人物の気持ちを想像して読もう」ということはできるのだが、実際にどういう発声をするかの指導はない。だから自然と「囃し歌」のイントネーションになって、それが「気持ちを込めて読む」だと思ってしまう。そして「物語の音読」はあっても、「論文の発表」という指導は行わない。

 

 大体の人は「音読」というとあまりいい記憶はないのではないだろうか。学年がどんどん上がるにつれて「一人を指名して音読させる」形式が増えてくる。そこで「前を向いて読みなさい」とか「口をもっと開けなさい」とか、そういう指導は行われない。読めない漢字につっかかりながらぼそぼそと読んだ後「もっと元気に読みましょう」という抽象的な感想しかもらえない。

 

 おそらく「このように話をしましょう」という指導を受けた人はほとんどいないのではないだろうか。特に人前でスピーチをするときの話し方が身についている人はあまりいないのではないだろうか。重要な言葉は大きな声で言うとか、話す速さを調節するとか、そういうのを体系立てて指導されないから肌で覚えるしかない。だからメモを棒読みするだけのつまらないスピーチがはびこっているのだ。

 

 実際に小学校の指導要領ではどうなっているかというと、「話す・聞く」の分野では「目的や相手に応じて」「相手に合わせた」という言葉はたくさん出てくるが「不特定多数に意見を訴える」というような内容の項目はなかった。目指すところがあくまでも「ワガママを言ってお友達と喧嘩をしないようにしましょう」というところだろうか。あくまでも発声や声量の指導はない。

 

第2章 各教科 第1節 国語:文部科学省

 

  ついでにいうと、文化庁のHPでは「正確な発音は円滑なコミュニケーションを図る上で大切であり,音声言語について人々が関心を高めること,新聞・放送等の分野や,学校教育においても,一層このことに意を用いていくことが望まれる。」と書いてあるその下にイントネーションについては「近年,若い人に多く見られる,文中のある語の語尾を上げ,相手に尋ねるように間をあけるイントネーションについては,煩わしいと感ずる向きもあるが,個々人の音声表現の問題であり,相手や場面によることであって,一概に否定できるものではない。」となかなか混乱するようなことが書いてある。

 

文化庁 | 国語施策・日本語教育 | 国語施策情報 | 第20期国語審議会 | 新しい時代に応じた国語施策について(審議経過報告) | I 言葉遣いに関すること

 

 つまり「正しい発音」は教育しても「正しいイントネーション」は個々の自由ということだ。実際に方言などの問題があるので「このイントネーションは間違っている」というのは出来ないが、共通語のイントネーションくらい指導できないものか。方言と言うとどうしても固有名詞になりがちだけれど、実際はイントネーションの指導も大事なのではないだろうか。

 

 自分はアクセントなし言語圏で育ったので、「はし(橋・箸・端)」の発音が全部一緒なのだそうだ。「はし」は「橋」であって、「箸」は「おはし」、「端」は「はしっこ」と呼んでいたので特に違和感も何も感じたことはない。このことを学生時代に自称江戸っ子に「田舎者」と馬鹿にされたのも良い思い出である。

 

 とにかく、国語ですら満足に「はっきり声を出す方法」を指導しない。「大きな声を出しなさい」とは教えるけれど、大きな声の出し方はなかなか教えられないのだ。そして何故か音楽の領域で「腹式呼吸でお腹から」などと教えている。歌うことと大きな声はイコールになっても、スピーチと大きな声はイコールにならないのだ。

 

表意文字」である日本語と黙読文化

 何故日本ではこれほどまでに「発声」に関する教育がないのかと思うのだが、おそらく日本語の特性から多くの人が無意識に「必要ない」と判断しているのかもしれない。

 

 今でこそ街中で書籍を音読している人はいなくなったけれど、「黙読」という考え方が定着したのは活版印刷が普及してからで、日本では明治時代に入ってからだ。それまでは「子、曰く~」など漢籍の音読教育が一般的で、明治になっても新聞を音読する紳士がその辺にいたらしい。もともと識字率が低い時代は「読んで聞かせる」ことが多かったので、声に出して字を読むと言うことが現代より大事だったのだろう。

 

読書 - Wikipedia

 

 何で読んだか忘れてしまって申し訳ないのだが、「日本語など漢字を使う文化は目で言葉を確かめ、西洋の言葉は耳で言葉を確かめる」という文章を読んだことがある。中国や台湾に行くと繁華街の看板の文字列に圧倒されるが、西洋圏ではあまり看板を見かけない。その代わり、言語がメロディアスで歌のように聞こえるらしい。つまり、表意文字である漢字は視覚的に訴えることに特化して、表音文字文化圏では音が工夫して聞こえるよう聴覚的に特化したのではないかという話だ。

 

 そうした日本語の特色と黙読の広がりで「音読」は前時代の物として軽視されているところもある。そういうわけで普段から「適切な」ボリュームというものを意識しないから、音量調節ができない。シーンとした静寂かギャーギャー騒ぐかどちらかになる。「落ち着いた声」という存在がテレビの中にしかない人もいるかもしれない。家に帰ればガミガミギャーギャー、学校でも落ち着いた発声のメリットなど教えないとすれば必然的にガミガミギャーギャーいう人になる。

 

じゃあどうすればいいのか

 とりあえずディベートやディスカッション、全体スピーチなどの指導法を作るべきだろう。現段階でもやっているところはやっているだろうが、作文教育や部活動と一緒で全て教員個々の力量次第で行われている。だからいい先生に当たればいいのだけれど、さっぱりな先生に当たると目も当てられない結果になる。多分日本の教育はこの「教員の力量任せではなく、最低限の一貫した指導を全員が行う」を実施すれば少しはマシになるんじゃないかってくらい教員任せのところが大きい。

 

 真面目な話、優秀な教員だけが「子供のため」って消耗して、何もしないボケッとしている人も昇進のための勉強しかしない人も同じお給料でやっていると思うと優秀な教員は「やってられるか!」って思うと思う。あれ、これどこかで見たことがある構造だなぁ。

 

 個人的には「綴り方」のほかに「話し方」の時間があってもいいと思う。吃音の生徒には辛いだろうが、そこで少しでも自分の特性を知ることが出来れば周囲の理解が進むのではないだろうか。そもそも「誰もが発音できることが当たり前」という発想がよくない。そこから脱却しないと、不毛なぼそぼそ音読発表が延々と続くだけだと思う。

 

 参考:小学校国語教育の課題(pdf)

  学生が受けた国語教育が、実際に学生に伝わっていたのかと言う論文。学生が習ったことを生かそうという視点がないことから、大枠で国語教育の在り方を見直したほうがいいのではないかという話。

 

余談

 まるで関係ない話かもしれないけど、この前の休日に渋谷のセンター街に行ったらずっとスピーカーからガンガン「最新チャート」が流れていて、会話もできないくらい非常にやかましかった。BGMなんていうものではない。常人だってそうなのだから、聴覚過敏がある人なんて絶対耐えられないと思う。「国民的難聴」が笑えないかもしれないなーと思いました。

 

 あと、信じてもらえないのですが最近の中学生は「テキスト読み上げ」のような喋り方をするなぁと思っています。言葉は生きていると言ってはなんですが、つまりアクセントもイントネーションも存在しない喋り方が増えてきていると思う。そしてコミュニケーションの取り方も「ニコニコ動画のコメント欄」に近い。映画館で「キター!」って発声しているローティーンたちを発見したときは正直ビビりました。そうやって「日本語」が変質していくんだなぁとしみじみ感じているのです、まる。