亡くなった土井たか子元社会党委員長(元衆院議長)は「おたかさん」の愛称で親しまれ、「護憲のシンボル」的存在だった。同時に、護憲と政権参加との間で葛藤し続けた政治家人生でもあった。
ブームをつくり出せる政治家はそうたくさんはいない。土井さんは社会党委員長当時の一九八九年参院選で女性候補を多く擁立してマドンナ旋風を起こし、自民党を参院で過半数割れに追い込んだ。「山が動いた」という名文句はこの時のものだ。好きな言葉が「動かざる初心」だった。その連想もあり、社会党躍進を「山が動いた」と表現したのだろう。
翌年の衆院選でも土井ブームは続き、同党は百三十六議席を獲得した。六七年衆院選での獲得議席が百四十だから、「やるっきゃない」のおたかさんパワーで六〇年代の勢力まで回復できた。現在の社民党勢力が衆参合わせて一けた台にとどまることをみても、土井ブームのすごさを物語る。
土井さんは九三年、自民党の単独政権が崩壊し、小沢一郎氏の主導で社会党を含む八党派連立の細川護熙政権が誕生した際、衆院議長に就任。憲政史上初めての女性議長として登壇者を慣例の「君付け」ではなく「さん付け」で呼ぶなど、国会に新風を吹き込んだ。
しかし、細川、羽田孜両政権の後、自民、社会、さきがけ三党連立の村山富市政権で与党の座を死守したころから、「護憲」と「政権」との間で矛盾が拡大した。
九六年に党名を社民党に変更したが、旧民主党結成に伴って大量の議員が離党。土井さんが党首に返り咲いても、ブームの再来はなく、党勢衰退の道を歩んだ。
土井さん自身も二〇〇五年衆院選で落選した。その後も護憲、人権、軍縮などの活動を続け、近ごろは、政治的風潮が同郷・兵庫県の政治家、斎藤隆夫氏が「反軍演説」を行った戦前に似ていることを強く懸念していたという。
社民党も一時期参加していた三年三カ月間の民主党政権時代を経て、自民党の安倍晋三首相が政権に復帰。結党以来の党是である憲法改正発議の機をうかがっているようにも見える。
国会では自民党の「一強」支配が強まり、社民党だけでなく、野党の存在意義も問われている。
憲法の平和主義を守り抜くにはどうすればいいのか。護憲を理念だけでなく、現実に生かす政治を新たに構築し、国民の支持を取り付ける。それが土井さんの遺志を継承する道ではないだろうか。
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