僕は感情の表現が下手だ。楽しい嬉しい悲しい寂しいが上手く表現できない。唯一上手いのは“怒っている”時だけ。原因はわかっている。目が笑わないからだ。
何かを祝ってもらった時も喜びが表現できていないらしく、よく“冷めている”や“ドライ”と言われることが多い。そんなことはない。嬉しく思っている。キャラのせいでややこしいけど人間だもの。
でも実際の所、本当に“ドライ”な一面もある。それは“泣かない”という事。
今まで感動的な映画を観た時も、学生時代の卒業式でも、7年近く続けたバンドの解散の時も泣かなかった。強がっているわけではなく、寂しいとか感動が涙で表現ができないのです。本当に“冷めている”のでは?と自分で不安にもなる。人生の大きな死別は別として泣いた数はほんの数回。僕の28年間の涙は柴田理恵4日分ってとこだと思う。
こんな性格なので映画やスポーツ、ドキュメンタリーなどを見た後によく聞く『“泣いた”報告』がどうも気に食わない。というのも『泣いた』が感動を表す最上級の代名詞のように使われているような風潮に感じる。実際そんなことないんやろうし、こちとら泣けないから僻みやっかみで歪んでおります。ならば他にはないものかと考えてみたけど『感動した!』と高ぶる気持ちを表現する度に小泉の純ちゃんを思い出すのもなんだかなぁだし、感動の余り『漏れた』と言えば『泣いた』を越えれそうな気もしたが、人としてのモラルが疑われる。漏ラルが。
とっても!ラッキーマン 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)
- 作者: ガモウひろし
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2012/06/29
- メディア: Kindle版
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突然なんだと思うと思いますが、こちら『とっても!ラッキーマン』でございます。
僕が唯一『泣いた』マンガなんですよね。言ったそばからの堂々『泣いた報告』。
は?と思う方もたくさんだと思います。僕も思います。は?だってギャグマンガでしょ?って。参考までに上の画像を載っけておいたんですけど、一目瞭然のバチボコギャグマンガです。
僕は昔からマンガは“ドカベン”や“タッチ”を中心とする野球マンガしか読まず、数少ない友達に借りた“ONE PIECE”も4巻まで借りパクしてヤギもビックリ読まずに売った。仕方がないので売値は返しました。それぐらいある意味ドライでマンガを読まない子供だったんですけど、ラッキーマンだけはなぜかすごいハマってまして。全巻集めてたんですよね。恐らく小学生の時かな。
何が泣けたかというと最終話なんですけど、その前にざっくりとした説明を。主人公“追手内洋一(ついてないよういち)”という日本一“ついてない”中学生が突然“ラッキーマン”という実力はないが運のよさだけで敵と戦うヒーローになるのです。
なんだかんだあり地球やラッキー星を守る為にたくさんの敵と戦い、最終的に敵を全滅し、平和が訪れたところでラッキー星の王になる。
ここからが感動的で、追手内洋一はラッキーマンに変身している間だけは何でもラッキーな結果が待っていて、追手内洋一に戻れば何でもついてない結果となる。つまり、ラッキー星の王となり、一生ラッキーマンの姿でいれば一生幸せな人生を過ごせるわけ。
けど、地球を見下ろしてみると、家でお父さんお母さんが追手内洋一が帰ってこないと悲しんでいるのだ。それを見て、ラッキーマンでの幸せな人生ではなく、追手内洋一としてついてない毎日でもいいから自分の大好きな両親と過ごす人生を選ぶのです。めでたしめでたし
泣いた。
こんなオーザックみたいな(ざっくりした)説明でさすがに感動まで伝わってないと思いますが、僕は思い出しただけでも泣きそうなんです。
今まで泣いたマンガは?みたいな話になると、僕はすかさずラッキーマンを繰り出し、この話をするんですけど相変わらず誰もが、は?って。このエピソードすらギャグのように捉えられてしまい、笑われておしまい。どうしょうもない。
このラッキーマン最終話の感動を分かち合える人に出会った時こそ素直に涙が溢れてきそうな気がする。
おわり
電車でお兄さんが勢いよく下ろしたリュックのヒモがほっぺにあたったんだなぁ
たぬを
— 吉本ユータヌキ (@gonnakill_uta) 2014, 9月 29