【第0回】短編小説の集いのお知らせと募集要項 - Novel Cluster 's on the Star!
企画に乗っかって、黒歴史時代以降久しぶりに小説もどきを書いてみました。
お題「りんご」。
条件:三人称、5000字以内(4663字)
『発熱』
佐藤氏は寝込んでいた。頭も喉も腹も痛く、鼻はつまり痰は絡み、口で呼吸をするたびにひゅうと胸がなった。激しく咳きごみ思わず上体を起こすと、今度は吐き気が襲ってくる。そんな具合であった。しかたがないので便所に行くか、水を飲むかするとき以外はベッドの上でおとなしく布団と毛布をかぶっていた。このまま孤立死するのかしらん、とも思った。3LDKの家族向けマンションは10年前、佐藤氏が30代半ばのころに購入したものだった。いつか結婚することもあろうと思い購入したのだ。家族は増えず、部屋の一室は物置に、もう一室は置くものさえなく空き部屋になっていた。会社は昨日から休んでいた。幸いなことに今日は土曜日だ。この週末のうちに治してしまいたいところである。まずは栄養をつけなきゃならん、佐藤氏は思った。しかし普段自炊をしない彼の冷蔵庫には、このような緊急事態のときに食べられそうな食料は入っていなかった。
「りんごでもあればなあ」
佐藤氏は幼いころ、彼が熱を出すたびに母親がりんごをすりおろし食べさせてくれたことを思い出した。あのころは幸せだったあのころは……
誰かに呼ばれたような気がして佐藤氏は目が覚めた。重いまぶたを努力して開けた。また熱があがったかな、彼は夢と現実の狭間にある頭で思う。体中が暑く、息苦しいほどなのに悪寒がした。
ふと、違和感を覚えた。
布団の中から見上げた天井の風景が見慣れた景色とは異なっていた。いや、それだけではなかった。佐藤氏が寝ている布団は、ベッドの上ではなく畳の上にあった。
「どこだ、ここ」
高熱の影響だろうか。佐藤氏は自分の体を中心にして、風景が、世界が、ぐわんぐわんと回っているように感じた。
「目、覚めた? 調子はどう?」
不意に佐藤氏は、彼を見つめる女の存在に気づいた。体調不良の影響だけではない寒気が背筋を走ったように感じた。何かを言わなければと思った。
「ここはどこだ」
「うちですよ」
女は四十代の半ばぐらい、ちょうど佐藤氏と同じぐらいの年齢だろうと思われた。太っても痩せてもいず、美人でも不細工でもなかったが、中年の疲れを表すかのように顔には何本かのしわが走っていた。胸はやや大きかった。とても平凡な顔かたちの女であった。が、佐藤氏が今までにあったどの女にも似ていなかった。
夢を見ているのだ、佐藤氏は思った。あるいは熱のせいで幻覚を見ているのだ。
「はい」
「これは」
「りんご、食べたいのでしょう」
器の中にはヨーグルトと共にすりおろしたりんごが入っていた。
「これを食べたら薬飲んでね」
佐藤氏は昨日から何も食べていないことを思い出した。空腹が見せる幻想かと思いながらも、女から器と小さなスプーンを受け取った。
「お水入れてきます」
女は和室から出ていく。佐藤氏は体を起こし、言われたとおりにりんごヨーグルトを食べた。冷たくておいしかった。りんごヨーグルトの冷たさとやさしい甘みが佐藤氏の体を駆ける。彼は自らの体がいまだに発火するかのように熱いことを感じた。
女は水の入ったコップと薬の入った紙袋を手に再びやってきた。彼は渡された薬を女の指示に従って飲み込んだ。
「電気、消しとくから」
女は佐藤氏が薬を飲み込み、再び横になったのを確認し言った。電気が消された。佐藤氏は目を閉じる。まだ腹の底にヨーグルトりんごを感じた。しかしその感覚とは裏腹に彼の意識は再び遠くなっていく。
佐藤氏の次の目覚めは、遠浅の砂浜から潮が引いていくように穏やかなものだった。少しは熱が下がっているようだった。薬が効いたのだろうと佐藤氏は思ったが、次の瞬間には薬を飲んだのは夢のなかの出来事に違いないと思い直した。病は人に妙な夢を運んでくるものだ。佐藤氏はゆっくりと目を開けた。目に飛び込んできた天井は、あの、奇妙な天井であった。彼はまだ畳の上の蒲団にいた。
「ここはどこだ」
夢にしてはやけにリアルに感じられた。あたりをゆっくりと見回す。突然、佐藤氏は理解した。
「ここは俺のうちだ」
彼のいる和室は、彼のマンションの彼が普段物置にしている部屋に違いなかった。彼は立ちあがった。襖をあける。そこには見慣れた廊下があった。便所に行く。彼が思ったとおりの場所に便所はあった。ここは俺のうちだ、と佐藤氏は声に出さずに言う。でも、俺はどうしてあの和室に寝ているのだ。
彼は用を足し、和室の布団の上へと戻った。彼は寝込んでから今までのことを思い返してみた。不思議なことは、あの妙な夢、りんごヨーグルトを食べた夢を見たことぐらいだった。とても自然なやりとりだった、佐藤氏は「彼女」を思い出しながら思った。まるで俺の妻みたいじゃないか。
ふいに声がした。
「お父さん、起きたの? 大丈夫?」
佐藤氏は息を飲む。体中に緊張が走る。心臓は早鐘を打つようであった。今度襖を開けたのは、まだ若い女だった。少女といってもよいくらいの年齢だった。
「お父さん?」
やっとのことで佐藤氏は聞き返した。
「え?」
少女はそんな佐藤氏に怪訝そうな目線を投げた。
「あっ、いや……」
また夢を見ているのかもしれない、と佐藤氏は心のなかで言ってみる。それとも誰かが彼のマンションまできて看病をしてくれているのか。少女の態度は妙に馴れ馴れしいというか、変な親しみがあるように感じられた。その態度は先ほどの夢の女に通じるものがあった。
「りんご、食べる?」
「あっ、ああ?」
「わかった、切ってくる」
少女は小さく頷き、台所の方へと引き返していく。佐藤氏は考えた。あの少女は俺のことをお父さんと言った。いや、何かの聞き間違いか。また佐藤氏が気になったのは少女の顔かたちであった。どこかで見覚えのある造詣だったのだ。いやしかし彼女自身には会ったことがない。そのうち佐藤氏は思い当たった。少女の顔はもう十年以上あっていない佐藤氏の姉にどこか似通っているのだった。
やがて少女は皿の上に八等分にしたりんごを乗せて戻ってきた。りんごは「うさぎ」の形に切ってあった。
「はい、お父さん」
佐藤氏はまじまじと少女の顔を見つめた。やはり姉の顔に似ていた。特に目尻のあたりが。けれどもそれだけではない。少女の輪郭はりんごヨーグルトの女ともよく似ていた。
「君は、ひとりか?」
「え?」
「このうちには君だけしかいないのか?」
「えっと、お母さんは買い物行ってるけど。どうしたの、君、なんて」
「あっ、いや、その」
「やっぱりお父さん調子悪そう。熱あるの? 寝てなよ」
佐藤氏は思い切って聞くことにした。
「お父さんって、お前は俺の娘なのか?」
「えっ……違うの?」
少女は目を見開いた。佐藤氏はその反応に急にどぎまぎとし、自分の発言を後悔した。
「あっ、いや、その、違わないよ。ただ改めて見ると俺の姉さんの若いころに似てるなって」
「晶子おばさんに?」
「あっ、ああ。ついさっきまで、子供のときの夢を見ていて」
晶子というのは確かに佐藤氏の姉の名前だった。
「やっぱ、お父さん変。疲れてるんだよ、これ食べて寝なさい」
佐藤氏はりんごを食べた。塩がふってあるのだろう。しょっぱさを舌の先に、それから瑞々しい甘みが口全体に広がっていくのを感じた。齧るとぱきりという軽い音がした。久しぶりに固形物を食べたのだった。少女はまるで幼い子供を見るような目で佐藤氏がりんごを咀嚼する様子を見ていた。佐藤氏がりんごを食べ終わると、少女は満足げな笑顔を見せてその皿をさげていった。佐藤氏は眠った。
佐藤氏が目を覚ましたのは、朝の7時前だった。目を覚ました瞬間、今までの体調不良が嘘のように良くなっていることに気がついた。むしろ十分な睡眠をとったおかげか、ここ数年来もっとも力が充実しているようだった。生まれなおしたみたいだ、佐藤氏は思う。
佐藤氏は立ち上がり、部屋を出た。台所にはあの女が立っていた。トントントンと包丁が小気味良い音を立てている。ああ、夢ではなかったのかと彼は思う。しかし不思議と、恐怖やら驚きやらは感じなかった。
「あら、大丈夫なの」
女は部屋の隅で立ち尽くしている佐藤氏に気づき言った。
「ああ、大丈夫みたいだ。今日は何曜日?」
「月曜日」
「そうか、仕事行くよ」
「出勤するの? もう一日ぐらい大事をとって休んだら?」
「そういうわけにもいかんだろう。それにもうすっかりよくなったみたいなんだ。シャワー浴びてくるよ」
女と普通に会話をしている自分を不思議に思いながら、佐藤氏は自分の言葉の通りシャワーを浴びた。風呂場にあったシャンプーとリンスは、半透明のボトルに入った英語以外の横文字言語で書かれたブランドのものだった。もちろん佐藤氏には初めて見るものだった。女が選んだものだろうか、それとも10代の少女が選んだものだろうか、佐藤氏はふと思う。使うことに後ろめたさを覚えた。シャンプーもリンスも、甘ったるい匂いだった。石鹸も、固形石鹸の他にボディーソープのボトルと洗顔料の入ったチューブが置いてあった。佐藤氏は固形石鹸で体と顔を洗った。そして鏡を見た。曇りを落とすためにお湯をかけると、鏡面にはさえない中年男が映っていた。ここ数日の闘病で、少し頬はこけ、腹も凹んでいたが、そこに写っていたのはまぎれもなく佐藤氏自身であった。
「俺は俺だ」
口を開くと、鏡のなかの男も口を開いた。が、やがてその鏡像は湯気に覆われ消えていった。
パラレルワールド、佐藤氏は声に出さずに言った。きっと何かが起きて、別の世界に来てしまったんだ、佐藤氏は考える。
その世界では俺は結婚していて、娘もいる。悪くはない、一人暮らしの部屋で寝込んでいるよりはずっといい。もしくは、一人暮らしの部屋に寝ていた「俺」は、あの部屋で孤立死してしまったのかもしれない……
バスタオルはいつもの戸棚のなかに入っていた。戸棚のなかにはいつものバスタオルに加え、はじめてみる色鮮やかなキャラクターもののバスタオルも入っていた。佐藤氏は前者のバスタオルを使った。
「あ、お父さん、おはよう」
パジャマからワイシャツとスラックスに着替え、ふたたびダイニングキッチンへと向かった。ダイニングテーブルの上には朝食が並んでいた。少女はテレビを見ていた目をちらりとこちらに向けただけだった。彼女は高校の制服を着ていた。
「おはよう」
佐藤氏は少女の前の席に座った。そこは佐藤氏の定位置であるようであり、ごはん、味噌汁、目玉焼き、サラダの隣に真新しい新聞紙が置いてあった。
「いただきます」
わざとらしく手を合わせ、佐藤氏は箸をもった。俺はおかしくないだろうか、佐藤氏は女二人の目線が気になっていた。しかし二人はまるで佐藤氏には無関心に、それぞれ朝食を口に運び、朝のニュースを見ていた。
「あっ、りんご」
サラダに千切りにしたりんごが入っていた。
「ああ、あなた、治っちゃったからサラダにしてみたの。嫌い?」
「いや、美味しいよ」
「私は、普通に切って、果物として食べればいいと思うけどな」
少女がサラダのなかのりんごを箸でつまみながら口を挟む。
「まあでも、普通に食べるだけだと飽きるじゃない」
「ふーん、やっぱ40年以上生きてると、いろいろ飽きるんだ」
「飽きる?」
女が聞き返した。息を飲む音がした。
「飽きない、生きるのって」
朝の食卓に妙な緊張が走った。佐藤氏の脳裏に「父の威厳」という言葉がひらめいた。
「そんなことないさ」
佐藤氏は落ち着いて言った。
「人間生きていれば、それまで予想もしなかったような、突拍子もないことに直面することもあるもんさ。飽きないよ。良くも悪くもな」
佐藤氏はこの世界で生きていくことを決めた。
以上。お粗末さまでした。
小説を読むことは好きだが、どうしたら面白い小説が書けるのか分からない。