僕は流されやすい人間だ。付き合う人の思想や、価値観に自分が染まっていまいがちで、確固たる根っこの部分を持っていない。ナリワイで生きろと言われたら、「確かに、これからはナリワイがはやるかも」と思い、何かをやってみたいと試行錯誤する。メイカームーブメントが叫ばれれば、「僕も何か作りたい!」と、創作意欲が沸いてくる。高校時代に村上春樹の作品に出会ったせいで、大学生はみんな「僕」のようにJazzを聴いて映画を観て彼女を作るものだと思い込んでしまった。「君はひょうひょうとしているよね」と高校の教師に言われたことがあるが、なんのことはない、何も考えていなかっただけだ。
しかし、それを考慮するとローマ人は僕以上に流されやすい人間なのかもしれない。彼らは負かした相手を殲滅することなく、「同化」させる。「お、いいかも!」と思えば彼らの文化を吸収し、新しい技術を創造してしまう。ルールを制定する際も、それが絶対的な強さを持つ訳ではなく、時代に合わせて適宜修正していく。ローマ市民はフレキシブルな共同体なのだ。
『ローマ人の物語18』は、二代目皇帝ティベリウスと三代目のカリグラについて言及している。カプリに隠遁しながら、元老院に的確な指示を出し国を運営したティベリウスだったが、「ちょっと男子ー声出してよー」と国民からの支持は薄かった。その彼も七十を過ぎて往生する。後を継いだのは
アウグストゥスのひ孫にあたる、カリグラだった。御年二十四。幼児期をライン川防衛の軍とともに過ごしていた彼は、軍団兵のマスコットキャラであり、人気も高かった。しかも、財政はティベリウスのケチケチ政策で大幅な黒字。これはカリグラも羽目をはずしてしまうわけだ。ローマの家計は火の車となった。
そんなカリグラに追い打ちをかけたのは、ユダヤ人だった。彼らの宗教は一神教であり、なんでもかんでも神様にしてしまうギリシャ人やローマ人とは考え方に違いが出てしまう。
ユダヤ人にとっての「法」とは、モーゼの十戒のように、神が与えたものを人間が守るのが法なのである。実際はモーゼが岩陰かどこかで石片に彫りつけたものを人々の前に示し、神の意志ゆえ守らねばならぬと言わないと納得してもらえなかったからだろうが、神が与えたものとなった以上、人間ごときが変えてはならないのである。
一方、ローマ人の考える「法」とは、人間が考え、それを法律にするかどうかも、元老院や市民集会という場で人間が決めるものなのだ。ゆえに、現実に適合しなくなれば、改めるのに不都合はまったくない。
カリグラはユダヤ人の一神教に理解を示さず、逆に「エルサレムにユピテル神の銅像を建ててー!」ととんでもない命令を出してしまう。当然ユダヤ人は反発し、カリグラの支持率はどんどん落ちていく。
二時間ほどかけて読み終えた。僕は本を閉じるとカラのコーヒーカップをくずかごへ棄ててスターバックスを後にした。ケータイの充電は100%になった。疲れもとれた。
「よし!」
そうして僕は勧められたingressを再開した。
- 作者: 塩野七生
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