(5)伊豆大島大噴火 全島避難に関わって−重久和男さん


1万人の命の重さから学ぶもの

重久和男さん

重久和男さんのプロフィール
みどりの善福寺川を愛でる会 事務局 会員30名余
1986年11月大噴火した(500年ぶり)三原山のある伊豆大島の島民1万人が13時間で脱出した際、東海汽船の大島支店長を務めていた。
[当時の状況を知るための書籍]
・『ドキュメント 伊豆大島大噴火 全島避難せよ』  
著者:NHK取材班 発行:日本放送出版協会
・『伊豆大島噴から何を学ぶか 火災害時の判断と意思決定』 
 編集:地域安全学会 発行:ぎょうせい


日本のレジャーブームと東海汽船

東海汽船 橘丸

 金融機関勤務の父親がよく転勤するので、2,3年おきに全国各地に引越しをしていたという重久さんは、最後の社宅となった杉並にご両親が土地を買い、杉並区に定住することとなる。

 昭和32年、東海汽船に入社。航路は伊豆七島。房州の館山、勝山、春には、鋸山の行楽シーズン、夏は海水浴客を館山、勝山と小中学校の臨海学校の学童輸送を行い、多客時は4隻で運行していたという。昭和42,3年ごろ、重油(ハイボール)が東京湾の海水浴場に発生、旅客の減少が止まらず昭和46年に航路は閉鎖される。

 その後も、高度成長期は続く。行楽、レジャー、休暇という概念が日本に浸透していく。東海汽船も、それに応じて着実に伸びていった。
まずは、八丈島への日帰り旅行。当時は、夜竹芝を出向、夜中過ぎに八丈島着。仮眠をして、観光、午後2時には帰りの便に乗船という日帰りスケジュールだった。当時は「それでも、楽しかった」という。働くことばかりではなくて、楽しむことも知り始めた時代だった。大島くらいであったが、昭和41年、「至急応援に来てくれ」と竹芝桟橋からの連絡で駆けつけると、八丈島行きの定期船黒潮丸(貨客船)に乗せろ、乗せろの大賑わい。カウンターの窓ガラスが割れる事件まであった。

 一方、館山、勝山は、たちばな丸、あわじ丸、つばき丸など東海汽船の主力船3隻が、岩井海岸などに臨海学校の学童を運んだ。

[画像] 橘丸 提供:大島町


中京市場開拓、オイルショック、そして大島支店長就任

若き頃を語る重久さん

 昭和42年ごろには、新婚旅行ブーム。東海汽船は、熱海への新婚旅行客をターゲットに、「はまゆう丸」という一等席にリクライニング席を設定した船を導入。窓際に女性、その左手に男性がずらっと並んだ新婚旅行の様子が新聞を飾るや、さらにブームは広がった。

 そして昭和40年代に入ると一般的にも1泊旅行が浸透してくる。東海汽船は、各島の住民に民宿業を勧め、ノウハウも教える。東海汽船に申し込めば民宿客が斡旋されるというビジネスモデルをつくったのである。式根島、新島、神津島が、島全体で協力、成功を収める。大島、三宅島、八丈島などが続く。1977年の昭和48年が東海汽船の旅客輸送のピークだった。
重久さんが入社当時40万人そこそこの乗客数が、180万人輸送と大きく花開いた。

 昭和41年中京地区が延びると提言。社長から行って来い、20万人に延ばさないと返さない。中京地区から4年で30万人に伸び。本社に戻る。

 そして、オイルショック。ばら色の次期配船計画などもあったが、すべてがオイルショック後、しぼんだ。
重久さんは、1984年(昭和59年)大島支店配属。噴火の2年前だった。その頃は、バス48台、支店従業員100人を超える支店。バス運転手だけで50数名を抱える大所帯の所長。単身で社員寮暮らし。


噴火の前兆

噴火の前触れは、1年前ぐらいから。地震が続いていたので、毎晩制服を枕元において寝ていた。地震があってもどこからも連絡が来ないので、不思議だった。半年ぐらいで、対策マニュアルを作る。とはいえ、「机上では思いも付かないことが実際起こりました」

 噴火のちょっと前に、大島の助役が、バスを野増(のまし)に何台置けるかの相談があり、噴火対策かと危ぶんでいた。昭和25,6年の噴火時に溶岩の流出が懸念されたのは野増の上だったので、野増にはダムができていたのだ。その知識からの判断だった。

 噴火の前日に、報道関係者が入り始めたので、何かあるなと思っていた。11月15日のことだった。夕方、退社時に会社の玄関から上を見ると、山の上が明るい。警察と町役場に、連絡。島民は、観光客がまた来ると喜んでいた。登山道路を閉鎖。


日本放送出版協会『全員避難せよ ドキュメント伊豆大島大噴火』より

きれいな景観のため、観光客を当て込んだ旅館は、夜、宿泊客を車で運び、東海汽船にも夜のバス運航の要望が来ていた。町と警察からは、地元での判断にゆだねられ、夕方1便出すことになった。

 11月21日、わけもなく不安な予感がよぎる。午前中でバスの運行を中止したいが、警察も役場も警告は出していない。
22,23日が連休のため、娘も大島に来ていたというが、重久さんから家族の話題が出たのはこの一言きりだ。当時関わった人々からは、私利私欲よりも「1万人全員を助けよう」という思いだけが伝わってくる。
16時10分熱海行きが最終の船

 山頂から最終便を見送るために、車で降りる途中、落石が不安をあおる。「噴火だ、穴が違う、穴が違う」とあせった連絡が来る。「先客待合所は古い木造の家屋、つぶれるかなぁ。」などと話している矢先に町長から電話。「何人の観光客が?」「400人ぐらい」400人定員の船がそろそろ稲取に着く。それを呼んで観光客を返そう。

 観光客に伝えると、島民にも当然知れる。桟橋には、「船が出るぞ」と 桟橋前の広場(噴火が一番見える場所)に、どんどん人が集まる。船を待つ人と、噴火を見る人と3000人。
大島町、東京都、大島警察署、消防団、東海汽船 対策会。

 桟橋前には400人どころじゃない、結局4回ほどのピストン輸送、加えて海上保安庁の巡視船、自衛隊の輸送船と東海汽船の全船舶が脱出の輸送に携わる。

 その間も、重い金庫がぐらぐら揺れている。翌朝の7時30分避難の最終船が出る。

   [画像]
   『全員避難せよ ドキュメント伊豆大島大噴火』発行:日本放送出版協会より
   重久さんの記事掲載部分 *クリックすると拡大します。


一番の危機、地元消防団の活躍

高井戸にあった火の見やぐら

普段からのお付合いが大切

 重久さんに、1万人が無事に脱出できたのは、何がキーポイントだったのか聞いた。
「会社は普段からの地元とのつながりを大切にしていたからでしょう。それに消防団の活躍ですよ。」

 あの家にはお年寄りがいるよ、この家には小さい子が2人…地元消防団は普段からの地元の付合いから,各家庭の状況を把握していた。「どこに人手が必要か」という情報が収束されていた。大島の男性は成人とともに全員消防団に所属するそうだ。消防団の若者が、的確に救出に向かったという。

[画像]高井戸にあった火の見やぐら


杉並区の消防団とは

杉並消防団本部 消防団員募集記事

消防団のホームページ
http://www.fdma.go.jp/syobodan/


 ところで、消防団ってなんだろう?消防署とどう違うんだろう?名前は聞いたことあるけれど、よく分からないという方もいるのではないだろうか。 
 消防団員は消防組織法に基づき、生業を持ちながら普段は火災や救助・救出活動を行い、地域住民への初期消火・応急救護の訓練指導や地域行事の警戒等を行っている、また消防団員は、特別職の地方公務員(非常勤)であり、消防団長は区長が任命し、その他の団員は区長の承認を得て消防団長が任命する仕組みになっている。地震などの発生時には消防署と連携して消防活動に従事し、地域防災の中核として重要な役割を果たしている。

 
地域の防災、大丈夫ですか?

 たまに、防災喚起の呼びかけのチラシは入ってくるが、それ以上は何もきかない、と重久さんは心配げに漏らした。杉並区内には杉並消防団、荻窪消防団がある、我がまちを災害から守りませんかと新入団員の募集をしているそうだ。(両団合わせて定員は750名)

 また、杉並区の住民の7割以上は、区外で働く人たちである。日中の災害への対応が難しいだろう。
 .重久さんは、現役と体力もほとんど変わらない定年後の人材の活用はどうだろうか、という。
 また、消防団のほかに、防災市民組織(防災会)というものがある。杉並区内には、161組織(平成18年3月現在)があり、普段から消火ポンプの操作や避難・応急救護等の各種防災訓練のほか、防災知識の普及啓発活動などを行っている。
 防災に関心はあるものの、どこから始めていいかわからない、という方は、お住まいの地域の防災市民組織(防災会)活動に参加することから始めてみてはどうだろうか。
  防災課 電話03-3312-2111(代表)
 重久さんのお話をうかがって、個々人の防災準備だけではなく、行政や地域にある災害時要援護者情報を消防署や消防団に提供して災害時に区民の手助けをする地域ぐるみの協力が大切だと実感した。いざとなったら、ではなく、その前に、私たちは普段から町内会、防災会、隣近所とのつながりを綿密にしておきたい。
                             
―執筆:豊田のり子 掲載:2007年6月24日―


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