12/11読売の文化欄に、19世紀初めロシアの来襲に備え、会津藩兵が樺太に
出向いた時、アイヌの人々の助けを借りながら北の守りを固めていたことが具体的
にわかった、という記事があった。
黒船来航の半世紀ほど前の1804年、ロシアの使節レザノフが日本を訪れ、通商
を要求。幕府が拒絶すると、ロシア船が06~07年に樺太や択捉島の集落を攻撃し
た。幕府は防備のため東北地方の各藩に出兵を命じた。会津藩は08年1月~8月
まで、樺太や宗谷岬で警備についた。
会津藩兵を描いた「文化五年会津藩唐太(からふと)出陣絵巻」や個人の所蔵する
模写「蝦夷実景」、従軍した会津人が記した複数の日記などと照合して、北海道開拓
記念館の東さんが当時のことを推測した。
アイヌ流儀式「オムシャ」を開いた場面は、アイヌ支配を誇示したものと考えられてい
た。それは、18世紀末、和人の商人による搾取に抵抗してアイヌの蜂起が起きるなど、
和人によるアイヌ支配というイメージで語られることが多い、という背景があるからだ。
これらの絵には、アイヌは警備に訪れた藩兵を歓迎し、前年ロシア人によって焼き打
ちされた本営舎の造営などに協力した様子が描かれている。東さんは「オムシャはアイ
ヌの労苦に対するお礼の宴のようだ」と見ている。撤収の際に船に乗り込む藩兵をアイ
ヌが数十人で見送る場面もある。そして別れを悲しみ、涙を流す姿で描かれている。わ
ずか数ヶ月だが、お互いに懇意な付き合いをしていた様子がうかがえる。
出向いた時、アイヌの人々の助けを借りながら北の守りを固めていたことが具体的
にわかった、という記事があった。
黒船来航の半世紀ほど前の1804年、ロシアの使節レザノフが日本を訪れ、通商
を要求。幕府が拒絶すると、ロシア船が06~07年に樺太や択捉島の集落を攻撃し
た。幕府は防備のため東北地方の各藩に出兵を命じた。会津藩は08年1月~8月
まで、樺太や宗谷岬で警備についた。
会津藩兵を描いた「文化五年会津藩唐太(からふと)出陣絵巻」や個人の所蔵する
模写「蝦夷実景」、従軍した会津人が記した複数の日記などと照合して、北海道開拓
記念館の東さんが当時のことを推測した。
アイヌ流儀式「オムシャ」を開いた場面は、アイヌ支配を誇示したものと考えられてい
た。それは、18世紀末、和人の商人による搾取に抵抗してアイヌの蜂起が起きるなど、
和人によるアイヌ支配というイメージで語られることが多い、という背景があるからだ。
これらの絵には、アイヌは警備に訪れた藩兵を歓迎し、前年ロシア人によって焼き打
ちされた本営舎の造営などに協力した様子が描かれている。東さんは「オムシャはアイ
ヌの労苦に対するお礼の宴のようだ」と見ている。撤収の際に船に乗り込む藩兵をアイ
ヌが数十人で見送る場面もある。そして別れを悲しみ、涙を流す姿で描かれている。わ
ずか数ヶ月だが、お互いに懇意な付き合いをしていた様子がうかがえる。
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