巨人・菅野智之、2年目の挫折と復活。在りし日の原貢が語った「原家の血」。
Number Web 9月29日(月)16時31分配信
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菅野智之、ルーキーイヤーにあげた13勝まであと1つ。そしてそれは、ハーラートップを走るメッセンジャーに並ぶ勝利でもある。 photograph by Naoya Sanuki |
4月29日。巨人・原辰徳監督の父で、東海大系列校野球部総監督だった原貢さんと食事をする機会があった。
場所は東京ドームの近くの中華料理店。その日は、原監督の甥で貢さんにとっては孫にあたる菅野智之投手がヤクルト戦に先発する日だった。
菅野が東京で投げるときには貢さんは欠かさず観戦していて、この日もそのために東京ドームに駆けつけてきた。そうして試合前の食事をしているところにお邪魔をさせてもらったというわけだ。
「あの子はね、見た目と違ってガーッといきたがるところがあるんですよ。そういう気持ちの激しさがあるのが、いいところであり、悪いところでもあるんだ。もう少し冷静に自分を制していかないといけないこともあるんですよ」
話は自然と菅野のことになった。
子供の頃からずっと菅野を見てきた。
原家と菅野家で旅行に行くと、子供たちは朝の食事のあとには勉強とトレーニングの時間があったという。
「ハワイに行っても、少しでも時間があれば腹筋しとけ、砂浜をランニングして来い、みたいなものですよ。でも、そうやって子供の頃から鍛えているから、ケガには強い身体になっているはずなんだ」
貢さんは嬉しそうにこう話した。
菅野の投手としての才能を最初に見抜いたのも、実は野球人・貢さんの目だった。
「あの子は子供の頃はバッティングが好きで、内野ばかりをやっていた。でも、ひざの関節と股関節が固かったから、内野手には向かなかったんですよ。その代わり手足が長くて体型はピッチャー向き。だから『お前さんは投手しかできないよ。一生懸命、ピッチャーの練習をしなさい』って言って、投手に専念させたんです」
東海大系列校の野球部の総帥として、菅野が歩んだ東海大相模高校、東海大という野球人としての道のすべてを、貢さんは見てきたわけである。
その貢さんが気にしていたのは、4月の登板での投球数の多さだった。
初めての開幕投手を任された3月28日の阪神戦は7回98球で大役を果たした。2試合目となった4月4日の中日戦では8回で130球を投げ2勝目を挙げている。その後も10日の広島戦では108球を投げ2失点だった。16日のヤクルト戦は97球で7回降板したが、22日のDeNA戦では完投して142球を投げて4勝目をマークした。
「『いくか』と聞かれれば、あの子は絶対に『いきます! 』と言う。そういう性格なんですよ」
ぎょろっとした大きな目を見開いて貢さんは続けた。
「自分が投げているときはとにかく完投したい。自分がムリをしてでも、リリーフの負担を軽くしたい。そういうことを考えるんです。ただアマチュアならいいけど、プロの世界は違う。しかもまだ開幕したばかり。これから長いシーズンを考えたら、ホントは今はムリをしてはいけないんだけどね」
こう菅野のシーズンを心配していた。
貢さんと話をした日のヤクルト戦でも、菅野は120球を投げて完投勝利を挙げた。8回が終わった時点で投手コーチに「いけるか?」と聞かれ、右腕の答えは「いけます」だったという。
そして試合前に話をしたわずか5日後の5月4日、貢さんは心筋梗塞と大動脈解離で倒れ、20日余の闘病の末、29日に帰らぬ人となってしまった。
最終更新:9月29日(月)16時31分
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