赤ちゃんのことではありません。
何度か書いたけれど、自分は承認欲求が人より少ないらしい。それよりも「他人に見つかる恐怖」というものがあることに最近気が付いた。
見てくれなきゃ見てくれないで、勝手にもそもそやっている。でも、面識のない誰かに見つかってしまっても「しまったー」って思いながらも嫌な気分ではない。じゃあ何が嫌なのかっていうと、自分が「この人すごい」と思った人に絡まれたときだ。
憧れている人はたくさんいるし、「信者か」っていうくらい大好きな人もいる。でも、「好き」っていうことをあまり公言しないのは何かのはずみでその人に見つかる恐れがあるからだ。「好きって気持ちを伝えるなら別に悪いことではないんじゃないの」って思うかもしれないけど、何故か自分はこれが非常に申し訳なく思ってしまう。「憧れのあの人が自分なんかについて言及してしまっている」と思うだけで恥ずかしくて申し訳ない。自己評価が低いからもっと自信を持ちなさいと言われたことがあるけれど、多分それが根本的な原因なのかもしれない。
だから「憧れの人」にこっちから絡むなんて申し訳なくて申し訳なくてとんでもないことだと思っている。画面の向こうで活躍している姿を見るくらいでちょうどいい。こちらから「憧れの人」にメッセージを送ると言うことは、「憧れの人」の中に少しでも自分を構築することだと思っている。そんな「憧れの人」なんて、何かが違うと思う。「憧れの人」を「憧れの人」のままにしたいから絶対「憧れの人」には自分から触らない。だからはてなのお気に入りとか少ない。「すごいなぁ」と思う人もいるけれど、勝手にお気に入りに入れるのもなんだし、かといってSNS感覚で相互お気に入りとかも何かが違うと思って、できないでいる人もいる。だからその辺の距離がとりやすいTwitterで適当にもごもごしていたりする。
最近「そんなんじゃダメだなぁ」と思い始めてるけど、根本的にこの話しかけられた時の「見つかった!」っていう「ひゅんっ」って感覚は抜けないと思う。だから「この人に憧れています!」なんて絶対書けないし書かない。創作面でも生活面でも憧れる人ってもちろんいるわけですが、多分自分の「憧れ」は簡単に表現できない。「あんなすごい人にこっちから声をかけるなんて滅相もない!」という小さい肝っ玉だからよくないんだけどね。小心者なんです。シャイ、とも少し違う気がする。うーん、難しい。
前何かに書いたような気がするんだけど、「憧れる」の元々の言葉の「あくがる」は「身体から魂が抜けるほど気持ちが離れている」状態を指している。それほどまでに全身全霊をかけて「憧れている」人を自分程度の言葉で表現できるほど自分は大それた人間ではない。しかもその熱量の「好き」という気持ちを表現できる言葉を持っていない。軽々しく「好き」って言ってはいけないくらい好きっていう気持ちが強い。「好き」って表現した瞬間に、その気持ちまで嘘になってしまう気がする。
つまり随分と距離が取れるブコメ以外で気軽に話しかけないのはそういうわけです。あと、こっちから声をかけられる人は結構気を許している人です。「憧れていない」わけでも「大して好きではない」わけでもありません。お友達とは仲良く話します。それだけです。
以上、今週のお題「憧れの人」についての雑感でした。