土井たか子さん死去:評伝…早すぎた女性委員長
毎日新聞 2014年09月29日 07時30分(最終更新 09月29日 11時23分)
戦後政治に新たな一ページを開いた土井たか子さんだが、時代を先取りした「早すぎた女性委員長」との印象がぬぐい切れない。
◇市民主体を模索
土井さんは55年体制下で労組依存の「万年野党」に甘んじる社会党の限界を終始、肌身に感じ、党改革を目指した。代わるべき党の主体として市民と女性を想定した。共産圏諸国との友好に力点を置いた党の外交方針を修正し、韓国との交流にも乗り出した。
土井さん自身も、大半の社会党議員が持つ独特の匂いから遠い存在だった。リベラル色の濃い家庭に育った生い立ちが影響を与えていたと思われる。フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」を熱唱し、ワインを好む日常もその流れだろう。
1989年の参院選では女性候補を大量に擁立。巻き起こした「マドンナ旋風」で与野党逆転状況を作り出した。土井さんが発した「山が動いた」「やるっきゃない」「ダメなものはダメ」は、世相を映す政治名言と今も伝えられている。
93年、社会党(当時)も加わった非自民の細川護熙(もりひろ)政権が誕生。土井さんは衆院議長に就任した。「一にも二にも平和」と原則にこだわる土井さんを「祭り上げる」思惑も舞台裏では働いたようだ。
社会党は94年に自民党、新党さきがけと連立、村山富市政権が誕生した。だがその後の党勢は振るわず、社民党と党名を変更した96年、土井さんは再び党首に選ばれた。しかし、各党の「改革競争」のなかで、社民党の影は薄くなっていった。その後、自身も選挙に敗れ、政界を引退した。政治工作にうとい土井さんは、何度か「貧乏くじ」も引かされた。
2004年4月、TBSテレビの「時事放談」で、中曽根康弘元首相と対談してほしいと無理を承知で申し込むと、応諾してくれた。憲法改正論議で「改悪には反対ですが、『改正』には賛成なんです」と柔軟姿勢を見せたことが印象的だった。
早すぎた女性政治家だった分、女性の進出を妨げる「ガラスの天井」は強力で、破るには時間が不足した。一見華やかに見えたが、時代に先んじたために四苦八苦した政治家人生だった。【特別顧問・松田喬和】