宅録ミュージシャン雑記 月に見下ろされて ~宅録ミュージシャン trifling beetleのブログ~

宅録ミュージシャン・trifling beetleの雑記帳&忘備録。
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自宅に帰ってからは2-mixを作りまくることに腐心している。


面白い!!楽しい!!!

コンプとEQの使い方一つで、こんなに音が劇的化学変化するとは。

いや、はまっている。


時間は流水のごとく過ぎてゆき、食事も睡眠も、入浴もままならない(笑)。

アホである。



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来月から、十数年ぶりに本格的に波乗りをすることにした。

理由らしい理由は、


「いまいち波に乗り切れない自分に対して、歯がゆい思いを感じた」


というガキのような理屈だ。



要するに「波に乗って、波に乗り切れない自分を制御してやろう」ということである。

幼稚この上ない(笑)。


以前していたものは波乗りは波乗りでも、ウインドサーフィンである。

琵琶湖を主として、優雅に湖面を漂流していた程度のこと。

本格的に一枚板の上に乗り、そして海に出るのは、ほぼ初めてである。

しかもカナヅチに近い身である。

不安極まりない。


しかしそれでも、とにかく少し河岸を変えて、視野を180度転換してみたく思ったのだ。



自分自身の立ち位置は、いつまでたっても不安定この上ない。

ま、それに対しての不満等は一切ないのだが、その愛すべき不安定さの中にいてても、なんとなく居心地がよろしくないのである。

不安定さに没頭できないのだ。

心というか精神というか気分というか、そういう問題なのだが。


何となくそれらが孕むこの居心地の悪さを、スパッと一度断ち切れないものだろうか最近殊にそう感じていたわけである。


知り合いに相談するとなら来月にでもおいでよということで速攻予定が決定。




来月末に四国の西南端に行き、マンツーで指導を受ける運びと相成った。


何かが新たに見えてきたり、今までの余剰なものが洗い流されといいな。

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カメルーンという国では、とても憂慮する自然災害の可能性が高まっているそうだ。

「湖水爆発」というこの現象は、1986年にニオス湖で起こり、ものすごい被災者を出したことで有名である。



かいつまんで説明すると、つまりはこういうことだ。



カメルーンにある湖は、火山の噴火口が塞がれた地形に水が溜まって形成された火山湖というものであり、またその下にある火山は活火山である。

よって火山から湖内へと常時、二酸化炭素が噴出している。

こうして噴出した二酸化炭素はやがて湖水内で飽和状態に陥る。

そこに小さな噴火が起こったり、蓋に穴が開いたりして、火口より麓へと、その二酸化炭素で飽和した湖水やマグマが、まるでシャンパンの栓を抜いたように勢いよく噴出、流出されてしまうことが湖水爆発である。

これにより周辺地域に、二酸化炭素中毒や酸欠の膨大な被害をもたらすという。


常にガス抜きをしてはいるそうだが、それでも濃度の濃縮に歯止めが効かないらしく、湖の二酸化炭素濃度が、かなり危険な状態にまで高まっているとか。




他の火山国での、こうした自然被害の話を聞くと、やはり日本も他岸の火事ではないなと思うのが普通だろう。

地下の状態、深海の状態、所詮ヒトごときが完全に掌握できる代物ではないと思う。

どれだけ「知恵の実」を食べてもだ。



もはや何が起こってもおかしくはないというのが、出来損ないなヒトのひとりとしての、率直な感想だ。




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リマスタリング作業の続き。



WAVデーターを大量に作り置きすることは、つまりはPCのハードディスクの容量を狭めることとなる。

WAVはmp3の約10倍の大きさである。

そして悲しいことに、mp3はWAVよりはるかに音質が落ちている。


このあたりのジレンマが解決できないものかと長らく思案して来た。


外付けハードディスクをつけるにしても限界はある。

他の方策はイマイチ信用できない。

PCのバージョンアップの資金はない。


さてどうしたものだろうか??



とりあえずは1楽曲につき、最終マスタリングバージョン(CD用)をひとつと、マスタリング以前の2-mixデーター、あわせて二つのみをWAVで保存することとし、EQ処理、コンプ・リミッター処理などの過程データーは、すべて手書きメモ中心に残すことにした。

なので、2-mix作成はこれまで以上に完璧さを追及してゆく。

これ以上はないという究極なものを作り上げねばならないのだ。


もし完成品、すなわち最終マスタリングバージョンに納得がいかないときには、その2-mixのWAVをDAWにいちいち読み込み、メモの数値や作業工程を頼りに改定を加えてゆく。

そしてそうやってリメイクした最終マスタリングバージョンは、できうる限り上書き保存をかける。




考えれば簡単なことである。

欲を出さなければそれだけのこととさっき気がついた。




いずれはOSをバージョンアップした上で外付けハードディスクを併用しようとは思うが12月以降の話だ。





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物事を極めるということは、まったく持って根気との戦いである。

それ以外のなんでもない。


引き出しは増やすことができる。

テクノロジー面でも、自分次第でいくらでもアップデートすることはできる。


しかし根気やあきらめない粘り強さ、執着心、完璧主義などを貫徹させることは、そう簡単にはできないことだと思う。


性格気質の問題も多いにあろう。

それらのアップデートが遅々として進まないことで、ややストレスを感じているのかもしれない。


自分が思っているほど、自分は完璧主義ではない。

そのことが非常に歯痒い


もっとも音楽での話だが(笑)。




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桑田佳祐はいつからか「TSUNAMI」を歌わなくなった。


いつからかというのは遠い昔ではない。

東日本大震災の後である。

タイトルが不謹慎だということでかなりバッシングを受けたのは記憶に新しい。



まず、芸術作品としてのこの楽曲と、災害はなんら関連がない。

この曲は2000年の作品である。

災害の起こる10年以上前にかかれたものだ。

それは無視しても、内容等に災害を想起させる要素はほぼない。


しかし、この曲はバッシングを受けた。


ひとつにはサザンのバンドキャラクターも大いに関係しているのであろう。

こんなに大変な目に遭ったのに、大変な目に遭った人がいるのに、チャラチャラした歌を歌いやがってという。


まったくの言い掛かりである。

はっきりってそれ以外のなんでもない、おかしな話なのである。



しかしだ。

桑田佳祐はこの歌を封印すると宣言した。

なんというか、潔さの極ではなかろうか。

自分は桑田氏の英断に対して溢れ来る感激を抑え切れない。

こういう決断をしたという話を、万感の思いで聞いた次第だ。


それに対する賛否両論は多々あろう。

そのことに対する二次的なバッシングも然り。

それもまた当然だ。


しかし二次的バッシングに走る輩も、今一度立ち止まって、桑田氏の深い考えや想いというものを想像し、その意図をできうる限り汲み取ったうえで発言して欲しい。

思慮なき決断は救いのないほど浅はかであり、まったく不毛な産物以外のなんでもないのである。




さて、例えそのアーチストがそういう意図を持っていなくても、リスナーのなかに一人でも、それに触れることによって忌まわしい感情が想起されたり、不快な思いをされ方がいるのならば、歌わないのがベストだというこの判断。

これはできそうでできないことだと思う。

ましてサザン屈指の名曲である。

リクエストも多いことと想像に難くない。


しかし封印宣言をした。

素晴らしいことだと思う。


僕はアーチストたるものは、作品がどういう形で世間に伝わって、どういう影響を及ぼすのかということまでを、やはり考えるべきだと思う。

それは自分の分身としてのものを、さあ来て、見て、聴いてごらんと、世に晒すときの不文律だと思うからだ。


ネット内にネチケットがあるように、アーチストが作品を提示するときにも、最低限なエチケットが必要だと思う。

このことに対する気付きがあるのかないのかという「繊細性」「敏感性」は、アーチストの人間性を図る上での最適なバロメーターとなりうるのかもしれない。




桑田佳祐という人間は相当繊細で、そして掛値なく敏感なひとだという気がしてやまない。



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何かと忙しい。


そろそろ夏バテの時期で、やはりというか突然口唇ヘルペスが出てきたりした。

毎年の恒例行事である。

1週間もすれば跡形もなくなるのだが、それまでは口の端にソースをつけた卑しい男のようで非常に気恥ずかしいものがあったりする。


スイカにかぶりついているときに気がついた、いやにしみるなと。

困るのはひげを剃りにくくされることだ。

T字派の自分には目障りで仕方がない。


見栄えは悪いが、自分的には体のサイン、バロメーターなので、ヒゲ云々以外は、実はなんとも思ってはいない。





さて、先日からマスタリングにおけるコンプの使い方を一から考え直して、そして使い方をがらりと変えてみた。

もっと音圧を上げてみたく思ったからだ。


劇的に上がるとは思っていないが、やり方次第で少しは上げられる気がして果敢に挑戦してみた。


まずスレッショルドとレシオとアウトプットゲインとの関係を換えてみることにした。

今までの自分的な目安として、スレッショルドはー5~-10dBに収めるようにしているし、レシオは8:1主体。

ケースバイケースで変更することもあるが概ねそうだった。

インプットゲインは100、アウトプットゲインのほうは200を基本としてきた。


さて、どこから手をつけようかと思案しつくして、まずはスレッショルドをー7dBからー9dBを基軸として、場合によってはー10dB以上もありとすることにした。

ただ潰しすぎると音が割れるというのは嫌というほど経験してきた。

レシオとの絡み方を十分に考慮して下げてみることにしたのだ。

何を、どういじくれば、スレッショルドを下げても音割れがないのか、研究テーマは尽きないのだ。

必ずつるべの関係のように法則があるはずだ。




つまり、レシオはほぼ8:1に固定してみることにした。

それ以上はリミッターとして使うとき以外はほぼありえない感じ。

インは100固定。

アウトのゲインは保険を見て197.0くらい。

リリースとアタックは基本ミニマム。

まずはそうしなければ頭がとてつもなく混乱しそうなのだ。


さらにコンプをかけた後のメイクアップゲインを、+2dBを中心にして+1dB~+4dB程度の範疇にする。

そしてあまり使わないリミッターを、0dBではなくー0.3dBくらいで、最後の最後の保険としてかけておく。


しかしWAVESL3、すなわちウルトラマキシマイザーはパソコンのスペックの問題で使えない(泣)。

宝の持ち腐れ状態はなおも続く。

パソコンをグレードアップすることも視野に入れねばなぁ~。




とりあえず以上の、まずできることを改善して、何曲かを試験的にマスタリングしなおしてみた。

細かい効果の程はこれからぼちぼち研究を重ねることとして、まず音圧は、やはり気持ちよく上がった。

例えれば、ー6dBがー3dBに上がったという感じか。


まだいけそうだが、とりあえず現段階ではこれで良しとした。

今まで、なんと音圧に無頓着だったのだろうか。

小っ恥ずかしい限りである。



しかし、まだ余裕が相当あったんだな。

だからといって、いままで完成させてきた楽曲全てをリマスタリングするのは、さすがにきついなぁ~。

10や20とかじゃない。

約300曲ある。

これはさすがに現実的ではないことだ。



しばらくはコンプやリミッターとの格闘が持続しそうで、何となくワクワクしている。

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吉野家のカルビ丼が非常に旨いのだ。

旨くて旨くて心が騒ぐ。

食べ過ぎてもいけないので、何週間に一度のように、一応は決めてはいるのだが、その計画は反故にされまくりなのである。

野菜も食わねばいけないのぉ。




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ART TUBE mp StudioV3という真空管式のマルチプリアンプを購入してみた。

何となく真空管という響きに惹かれたのもある。


知り合いのギタリストがマーシャルのアンプを我が子のように大事にしているが、やはり真空管の持つ温かみなんかはクセになる。

暖かく歪んだりしたときには射精しそうにもなる。

いや、本当にいいものである。


どれくらいの実力があるかは未知数だが、レビューを見ると概ね好意的。

ただ真空管が中国製なので、これを取り替えたという人が多い。

自分も機会があればぜひ試して見たい。





さてさて、このプリアンプはボーカルだけではなくさまざまな楽器に対応できるらしい。

VOICINGというプリセットが豊富でスイッチを回すだけでいともたやすくチェンジできる。


が、こういう簡単なものほど疑ってかかるクセがあり、にわかには信じられない。

とりあえずいくつかを試してみた。


まずボーカルは微妙だ。

おいおい!!!


しかしながら、それよりか「VALVE」というモードとボーカルの愛称のよさが特に気に入った。

これは使える!!

これにコンデンサマイクNT-1Aをつなぐとどんな感じになるのかは後日じっくりと確認してみたい。

今日は、なぜか外が騒がしく、目障りな雑音が多すぎるのだ。


BASSとかはごくフツウにいい感じ。

EGもまあ赦せる感じかな。


真空管なので、当然暖まるまでしばらく時間がかかる。

これが数十秒で暖まるときがあれば、5分くらいかかるときもあるようだ。

アバウトである。


あとびっくりしたのがパワーON/OFFスイッチがないこと!!

アザブダーを繋げばON、抜けばOFF()

初めてだ、こういう造りは。


アザブダーもAC/DCではなく、AC/AC!!!はじめてである、これも。




まあせっかく我が家に来てくれた機材である。

これから大いに活用して、いいものをたくさん作っていこうと思う。


毎日の余暇時間は楽しみで満ち満ちている。

よって、時間がいくらあっても足りないのだ。

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最近は「鳴り物」パーカッションにはまっている。



どちらかというとベル、チャイム系が多いのだが、先日、何気にカタログを見ていて「アイスベル」「ベルツリー」を発見。


アイスベルは、何となくアジアの匂いがする音。

イメージとして「北欧系」って勝手に思っていただけに、これはかなり以外!!


一方のベルツリーは、ツリーチャイムのベル版という感じ。

値段はかなりはる。


アイスベルのほうは約10000円、一方のベルツリーは50000と16000の二択。

幅ありすぎ!!

なので、少し躊躇~。

これは手製のものを作れそうな気もするのだが。


あと「クリケット」というカチカチと鳴るパーカス、「クラスターチャイム」、「パーカッソ」というタンバリンとウッドブロックの合体版の楽器などにも興味を惹かれ、こちら三点は購入することに。


ベルツリーはサンプリング音源があるのですが、どうも色気がないしなぁ~。


まあ、じっくりと考えることにしようか。



これらのパーカスを扱っているメーカーはLPというところで、ラテンパーカスで有名なところのようだ。

他にもイロイロwwwと楽しそうなものがたくさん。

見ているだけで楽しい。


こういう鳴りモノを、コンデンサーでなくダイナミックで録音して、リバーブを極端に切る音がすごく好き。


「パレード」という曲の間奏ではこのテクを使って、「カシシ」というシェーカーを録音。

意外といい感じでドライブ感が出た気が。


ちなみに、そのカシシの裏に重ねた「レインスティック」は、かなり深いリバーブとエキサイターコーラスを掛けて対照的にしあげた。


ベル、チャイム系もあえてリバーブを控えめにするとリアリティがあってすごくいい。

そこにFBを多くさせたデジタルディレイのみ、もしくはそれとコーラスとを併せて掛ける、という手は良く使う。



以前、「メモワール」という曲の中で「ベンリン」という中国製のハンドベルを使ったが、こちらは控えめFBでのベンリン。

逆に「星空に見とれていました」という曲のintroはFB多めのベンリン。

どちらも何となくだが、荘厳な感じが表現できたかなと。



ベンリンのほかに一風変わった音の「トライアングル」もよく使う。



自作のバラードナンバーのアレンジメンに置いて、これらベル、チャイム系は欠かせないし、アップテンポでは「マラカス」、「タンバリン」、「カシシ」、「スレイベル」などシェ-カー系が必須。

パーカッソも活躍してくれることだろう。



サンプリングの「ボンゴ」や「コンガ」、「アゴゴ」、「ジャンベ」、「ティンパニー」なんかは殆どの曲で使っているし、パーカスはある意味、自分の作品において「アレンジ面での第二エース(!?)」といえそうだ。


自分なりの音作りには決して欠かせない楽器群である。


本日の作業。

「あ・い・ま・い」、「夏のMAGIC」、「確かに、僕らはそこにいた」、「Windy Walk」、「today(back to the egg)」の歌入れを。

8月のfmGIG用候補曲群である。

そう考えたら時間はあまりないな。

ところで、「あ・い・ま・い」に、どのようにギターを重ねるかでかなり煮詰まっている。

ギターレスアレンジにするか。

手前味噌だが、とにかくベースのグルーヴが素晴らしいのだ。

リード楽器のようにグイグイ引っ張ってゆく感じ。

自分もいつのまにやら、ものすごいベーシストになったもんだな(爆)。

ギターを無駄に重ねると、その良さが半減する気がして怖いなぁ。

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コルグは、同社ソフトウェア音源「KORG Legacy Collection」シリーズの64bitおよびMountain Lionに対応した最新バージョンを配布している。

本シリーズは、コルグの名機「MS-20」、「Polysix」、「Mono/Poly」、「M1」、「WAVESTATION」を完全再現したソフトウェア音源群。

最新アップデータでは、最新の64ビットDAW環境 (Audio Units/VST)がネイティブサポートされたほか、Mac OS X 10.8 Mountain LionおよびWindows 8などの最新OSにも対応した。

また、本バージョンから、Mac OS X 10.5以前およびPower PC搭載Macのサポートは終了となるとのこと。なお、すでに購入済みのユーザーは無償で、今回の最新バージョンにアップデートすることが可能となっている。




ソフトウェアのシンセにはまっている。

いやぁ、なかなか素晴らしいのである、再現度が。

DAWには必須と言っても過言ではないのだろうなぁ。


その他にもエフェクターソフトなんかも色々とプラグインしているが、スペックの事情で次々というわけにも行かないのが難点。

まあ、もうそろそろOS変えようぜ!!って感じなのだがねぇ~。

一応、Mac OS X 10.5以前(笑)。


ところで、ソフトシンセのニュースはかなりの頻度で流れているような気がする。

以前はこういう記事も。


ローランド製シンセサイザ「SH-101」をイメージして開発されたソフト音源「LuSH-101」発売。

Waves、同社初のソフトウェア・シンセサイザー「Element」を発売。


SH-101は当時ショルキータイプとして人気あったよなぁ。

河合奈保子がテレビで肩から下げているのを見た記憶がある。


あとまぁこちらはハードものだが、


コルグの名機「MS-20」をミニサイズで復刻したシンセ「MS-20 mini」発売。


ソフトシンセがあれば、DAWソフト内でいろいろと遊べる。

これがまた何というか、楽しいのだ。

アナログな音をデジタルで加工して自作曲のアレンジに使うなんて、考えたら贅沢の極みかと。

昔はとてもとても手を出すことなんて出来もしなかった名器の音(に限りなく近いもの)を、今や自在に扱えるのだからね。


便利な世の中になったものだ。


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僕らは歩く、たた・それた・け

2009年作。

SPANK PAGEと言うロックバンドの「 ame-rain song-」と言う曲がモチーフということらしいです。

監督は
「軽蔑」「雷桜」の廣木隆一、主演は「愛のむきだし」の安藤サクラ。
その他、柄本佑、菜葉菜、櫻井りかこ、高良健吾。
73分の短めなオリジナルビデオ作品。

もう
それだけで心がザワザワとして、思わず衝動的にレンタルしました。

ストーリーは端折って書くと、
大都会東京での生活に疲れているカメラマン志望の安藤サクラと、そのカレシである柄本佑が、マンネリ同棲生活からの脱却を図るところから、まずストーリーが始まって行きます。
そんな中、
傷心の安藤サクラは小撮影旅行を決行し、自らが生まれ育った故郷をカメラを手訪ね、写真を撮りながら様々な人々と触れ合い、自分を癒し、心情の変化を感じ、やがて再生へと歩み始めていく..。

一見、陳腐な設定ですw。
しかし陳腐なだけではなく、見るものの感性や魂を捉えて話さない「何か」が、この作品には確実にあります。

悲劇的なことに遭遇したときに、殆どの人は「切ない時間を生きているのは自分だけ」と思いがちでしょう。
しかし「実はそうではない、自分だけではない」。
これも言い尽くされてきた言葉ではあります。
だけど、この映画を見ていると、それがな・ぜ・か・真新しく感じてしまうのです。

誰しも心が癒される場所は必要不可欠だと思うのですが、時にはその場所に思いっきり甘えてしまうこと、もしくは甘えられることも大切。
そんな場所=故郷と言うことは、やはり幸せなことだと僕は思います。

また、自分の内面に存在する不幸、哀しさ、切なさばかりに目が行きがちな人が成長するためには、月並みだけど、他人の内面にあるそれらに気付くことが必要不可欠で、この映画では、その過程がすごく丁寧に描かれています。

なんてことはない、ごく当たり前のことだけど、しかしながら再認識することは、決して損じゃない。
浪費でもない。
むしろ特筆に価すると思うのです。

とてもとても地味な作品。
されど観賞に値する作品です。

再生、やり直しをあきらめている人、忘れた人に是非観て欲しいと思うなぁ。

『僕らは歩く、たたそれたけ」予告 - YouTube

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旅の重さについてpm2.5や黄砂、花粉…いろいろなものが空気中を浮遊しているようで、くしゃみが止まらないです。

ついでの鼻水も然り。

辛い時期だなぁ。


青々とした水田の中に、まるで白鷺のような下着姿の女が映えている..。

四国のどこまでも続く水田を見ていた時、遥か昔の夏休みに、友達の家でなにげに見た映画の冒頭シーンを思い出した。

高橋洋子主演の映画「旅の重さ」。

この映画の舞台が、実はまんま四国南西部であるということは、さっき知ったところである。

子供の頃に見たときには「なんやわけわからん感」満載で、後味超悪かった。

ただ初めに流れた吉田拓郎の「今日まで、そして明日から」のメロディーはなんか心地よく残った。


今こうやって改めて観てみると、この映画のテーマは、重く、そして暗く、しかしながら希望という光輝くもので満ち満ちている気がする。

いや、とにかく暗い。暗すぎて嫌になる。

暗すぎるから、ほんの小さなロウソクの明かりでさえも、限りなく光り輝くオーロラのように見えてしまう。

そういう映画だ。


拓郎の歌が使われているということも、実に示唆的である反面、皮肉に満ちているとも言える。

全てにおいて、捻りに捻ってあるのだ。

なので反対に、全く何の捻りもないように思える。

これもこの映画の仕掛けの一つだと思う。


要するに、一見、これといったドラマ性を全く排除させた「モノクロチックな心理劇」が淡々と進行してゆくだけのように見えて、実はいろいろな雑多なものが詰め込まれ、それらで満ち溢れている「仕掛けと捻りだらけな作品」なのだ。

また、高橋洋子(当時新人)の演技が自然すぎて、逆にリアリティの全てを削ぎ落としているように見える。

こうやって非日常的な蓑をまとった「ごく日常的レベルの展開」が、特に急展開を見せることもなく、だらだらとだらしなく、ひたすらシークエンスとして穏やかに展開するだけ。

ラストも、救われたような、救われないような..そんな奥歯にものが挟まったような曖昧なものである。


70年代のの映画は、どうしてこんなに巧妙かつ狡猾なんだろうか。

特にATG勢はホンマにすごい。

「青春の蹉跌」、「サード」にしても、「龍馬暗殺」にしてもそうだ。

「祭りの準備」もしかり。

舌を巻く以外に感情を表す術がない。


いや、マイッタ。

感情や情操、魂までをも、あたかも犯罪者が脅かすように、恐ろしい程に執拗に揺り動かす映画が、今どれくらいあるのだろうか。

それは少なくとも、シネコンにはないと思う。


ところで主人公は最後には、曖昧で不確定なものであるのだが、自分なりの居場所というものをなんとなく見つける。

確実じゃない、決して安定していない、安全とも言い切れない、そんな場所を、「自分のいるべき場所(そうかもしれないし、そうでないかもしれない場所)」として、なんとなく定めて、そしてとりあえず「そこにいる」ことにする。

なんとなくではあるが、今の時代を生きている人々の、慌ただしくも、どこか諦観した人生観と重なるのではなかろうか。

ここではないどこかは「あるのかもしれないし、ないのかもしれない」。

しかしとりあえず、「なんとなく、ここにいることにする」。



家の中には家財道具らしいものなど少しもありません。

戸棚ひとつなく、ラジオもないの。

この家にあるものといえば、履き古した下駄とか古びたゴム靴とか破れた番傘とか七輪とかです。

でもね、この生活からいわゆる貧乏というものが顔をだしていないのが不思議なの。

なんだかこの家の昼間でも薄暗い部屋の中には、一種の庵の雰囲気があります。

最初この部屋の中で意識をたしかにした時から、それを感じていました。

夕飯を食べながら、壁にべったり張りついたくもの糸の七色に光る美しさや、頭上に垂れ下がった電気の笠の古典的な三角形の美しさや、猫の目の豪華さや、かつおのさしみのまだらな鈍い朱さや、じぶんの箸を握った手の細長い棒切れのような影の美しさなどを次々と眺めているうちにそれを感じたのです。

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イーグルスの「デスペラード」。この曲、すごい好きです。原曲もよく聞きました。

今までいろんな人が唄うのを聞いてきましたが、一番心に残っているものは、高知在住の浜田裕介というミュージシャンが、四万十市の山奥の「カヌー館」で弾き語って聞かせてくれたライブバージョン。しんみりと、かつソウルフルに聞かせてくれたものです。カバーとしては秀逸だと思いました。



さて、イーグルスといえばよく取り上げられるのは「ホテル・カリフォルニア」。これが密かに「産業化したロック」を揶揄している歌というのはよく知られている事実でしょう。

「1969年以降、スピリッツはダメになった」という歌詞が衝撃的ですよね。これはベトナム戦争以降のアメリカにも重なるといわれます。いろいろなものを含めて、社会全体を痛烈に皮肉っているのですね。日本語訳を引用してみましょうか。


暗く寂しいハイウェイ涼しげな風に髪が揺れる

コリタス草の甘い香りがほのかに漂い

はるか前方にはかすかな灯りが見える

頭は重く 視界かすむ

どうやら今夜は休息が必要だ

礼拝の鐘が鳴り戸口に女が現れた

僕はひそかに問いかける

ここは天国? それとも地獄?

すると 女はローソクに灯を灯し

僕を部屋へと案内した

廊下の向こうからこう囁く声が聞こえる

ようこそホテル・カリフォルニアへ

ここはステキなところ

お客様もいい人たちばかり

ホテル・カリフォルニアは数多くのお部屋をご用意して

あなたのお越しをいつでもお待ちしています


ティファニーの宝石のように繊細で

高級車のように優雅なその曲線美

美しいボーイたちはみな彼女たちに心を奪われている

中庭では香しい汗を流してダンスを踊っている人々

思い出を心に刻もうとする者

すべてを忘れるために踊る者

そこで僕は支配人に告げた

「ワインを持ってきてくれないか」

すると彼は

「そのようなスピリットは1969年以降一切ございません」

それでも人々が深い眠りについた真夜中でさえ

どこからともなく 声が聞こえてくる

ようこそホテル・カリフォルニアへ

ここはステキなところ

お客様もいい人たちばかり

どなたもホテルでの人生をしんでいらっしゃいます

口実の許すかぎりせいぜいお楽しみください

鏡を張りめぐらせた天井

グラスにはピンクのシャンペン

誰もが自分の意思で囚われの身となった者ばかり

やがて 大広間では祝宴の準備がととのった

人々は鋭いナイフを突き立てるが

誰ひとり内なる獣を殺せない

気がつくと僕は出口を求めて走りまわっていた

もとの場所に戻る通路をなんとかして見つけなければ・・

すると 夜警がいった

「落ち着いて自分の運命を受け入れるのです

チェック・アウトは自由ですが

ここを立ち去ることは永久にできません」



曲のバックグラウンドに関してのとても適切な解釈を見つけましたので、これも引用します。


1960年代の終わり、アメリカ社会は反戦、ヒッピー、ドラッグ、ウッドストックに象徴されるような若者文化が溢れており、サンフランシスコなどカリフォルニア州の町がその中心地でした。

カリフォルニアには、世界中から多くの若者が集まり、社会的なムーブメントが沸き起こっていました。

しかし、1969年のウッドストックコンサートを峠として、ジミ・ヘンやジャニス・ジョプリンの死やベトナム戦争の泥沼化などにより、次第にムーブメントも冷めていきます。

「ホテル・カリフォルニア」というのは、そうした時代のカリフォルニアのことで、新しい時代が幕を開けても1960年代の呪縛から逃げられない人々に対して、当時多くの若者の感じた「喪失感」、「無力感」を歌っています。

この曲がヒットしたのは、単に曲と演奏がすばらしいだけでなく、そうした時代背景があるのです。


・・・だそうです。

アルバム「ホテル・カリフォルニア」は、ダリル・ホールをモチーフにしている「ニュー・キッド・イン・タウン」、あと「駆け足の人生」「ラスト・リゾート」など、ウェストコースト・ロック界の凋落、ひいては商業主義化したロック界への皮肉、あるいは現代社会・都市社会の歪みへのアンチテーゼなどをたっぷりと詰め込んであるものすごいアルバムです。


ところで、僕的には、イーグルスといえば「Take It Easy 」であり、「TAKE IT TO THE LIMIT 」。
もちろん「ホテル・カリフォルニア」も「デスペラード」も大好きです。

とくに「ホテル・カリフォルニア」でのドン・フェルダー&ジョー・ウォルッシュの演奏したギターソロは、やはりロック史上最高だと思うし、13本のギターアルペジオを重ねたアレンジも然り。「デスペラード」も間違いなく名曲だと思います。

ところで「デスペラード」には、イーグルス自身のバージョンの他にも、リンダ・ロンシュタットのカバーもあります。イーグルス自体がリンダのバックバンドを、そのキャリアのスタートとしているということもあるのでしょう。

この曲は、ドラマ「華麗なる一族」の挿入歌として使われてリバイバルヒットしたそうですね。主演のキムタクこと木村拓哉の推薦だったそうです。


なんにしてもドラマ効果はすごい。経済効果という点においては、オリンピック招致よりも日常性、半恒久性という観点から、はるかに実用的なのかもしれませんね。

最近では[遅咲きのヒマワリ]の舞台である四万十市が有名になったりもあったし。

舞台のひとつになった、実在する「瀕死の市民病院」が再生に向けて本当に動き出し始めたとか、商店街再生に向けての機運が高まりつつあるとか、波及効果には目を見張るものがあるとか。

決して仮想現実ではなく、ドラマの根幹のエピソードであったこれらの話は、実はごくリアルな話でして、町自体が本当に大変状態にありました。つまりは、このドラマは、現実に街が抱え込んでいるとんでもない病巣、問題をモチーフにしていたという、画期的なドラマでした。そして、この市民病院存続問題に、真正面から立ち向かっていた一人が、前出の「ミュージシャンであり、市会議員でもある」浜田裕介その人でした。四万十市を離れて久しいのですが、その後の市民病院の動きには、やはりなにかと注目してしまいます。

こういう地方都市における経済の状況下では、市民的レベルでの経済への影響は、非常に重要なファクターのように思ってやみません。

上からだけじゃなく、主に下から経済を揺り動かしてやるのです。




さて、本日は、溜まっていた楽曲の歌入れを。

まあ、これが最終型ではない。

試行錯誤しながら何度もやり直していくための第一歩。


その曲にベストなボーカルがとれるまで、何ヶ月もかかることはざらだ。

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