才能についての雑感
『走ることについて語るときに僕の語ること』の中で、作家:村上春樹さんは、
「小説家にとってもっとも重要な資質とは何ですか?」
という質問に取り組んでいる。興味深い質問だ。
答えは三つ出てきた。
一つは、才能。
これがもっとも重要な資質であると春樹さんは指摘する。
文学的才能がまったくなければ、どれだけ熱心に努力しても小説家にはなれないだろう。
それはまあ、そうだろう。
次に挙げたのが、集中力。「自分の持っている限られた量の才能を、必要な一点に集約して注ぎ込める能力」。集中して仕事ができなければ、才能も存分には発揮されない。これも大切だろう。
最後の一つは、持続力。もちろん、長編小説を執筆する作家には必須の力だ。100枚を超える原稿用紙のマス目を埋めるのは、えいや!という気合いだけでは足りない。集中の継続が肝要である。
呼吸法にたとえてみよう。集中することがただじっと深く息を詰める作業であるとすれば、持続することは息を詰めながら、それと同時に、静かにゆっくりと呼吸していくコツを覚える作業である。
深く静かに集中し、それを長期にわたって続けていけること。それが才能を下支えするわけだ。
ここまでの話はわかる。でも、とある部分が私には引っかかった。
車を思い浮かべてみよう。車種はなんだっていい。別に軽自動車でも構わない。いろいろなパーツで構成された車を思い浮かべたら、ちょっとこう考えてみよう。
「人間における才能は、自動車におけるどのパーツになるだろうか?」、と。
車体だろうか。タイヤだろうか。ホイールだろうか。ステアリングだろうか。あるいは、ウィンカー?ワイパー?シートベルト?
それとも、エンジンだろうか。
私はエンジンな気がした。なんといっても車の性能を決めるのはそれだ。才能というのは、なんとなくそんな存在な気がする。
春樹さんは才能について以下のように書いている。
これは必要な資質というよりはむしろ前提条件だ。燃料がまったくなければ、どんな立派な自動車も走り出さない。
なんと燃料である。才能とはガソリンなのだ。
自分がイメージしたものとズレていたので違和感を覚えたのだが、よくよく考えてみると思い当たる節はある。
たとえば私も小説を書くのだが、基本的な動機は「書きたいから書く」である。いや、むしろ「書かざるを得ないから書く」が近いかもしれない。何かに突き動かされているような、そんな感覚がある。
ある種のイメージ、ある種の構想、ある種のインスピレーション。それが宿ったとき、外に出ようとする何かが生まれる。その何かが持つベクトルが行動の動機付けとなり、私は手を動かしてパタパタとキーを叩く。
燃えているとき、燃料はエンジンの一部となっている。だから切り分けは難しい。しかし、インスピレーションが宇宙線のように降り注いでくる(そしてそれを霧箱でつかまえる)感覚を考えると、あたかも外から私の内側に注ぎ込まれてしまったもののようにも思えてくる。つまり、自動車における燃料である。
非常に残念な話ではあるが、外に出したいこと・外に出さないといてもたってもいられないことが無いのならば、いくら技術を磨いたところで、これはもうどうしようもない。
しかし、技術を磨いておけば、ガソリンが注ぎ込まれたときに、スムーズに走り出せることはあるのかもしれない。そういう戦略もありだろう。
あと、外に出さないといてもたってもいられないことがあるのならば、「私には才能がないから……」なんて考えている暇などない。というか、それが才能なのだ。そもそも、それがまったく宿らない人だっているのだから。