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【政治】

「9条守る」最後まで 市民派、現場主義に徹し

1989年7月、参院選で与野党が逆転、当確者の名前に印を付ける土井たか子委員長=東京・永田町の社会党本部で

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 女性政治家として圧倒的存在感を示した土井たか子さんが逝った。おたかさんは純粋さと明快さを持つ市民派であり、平和憲法に最後まで、こだわった人だった。

 初めて取材したのは一九八八年一月二十六日の夜。首相の所信表明に対する衆院代表質問のやり方が変わる−という情報をキャッチし、社会党委員長だったおたかさんを宿舎に訪ね、直接、確認したかったからだ。

 「私は、知りませんよ」。おたかさんは、こう言っただけだったが、表情は、いかにも苦しそうで「あーこの人はうそをつけない、真っ正直な人なんだ」と思ったものだ。

 それまでの社会党委員長のような党務の経験もほとんどなく、唯一の頼りは「市民」。それでも何事にも積極的に挑戦し、どんな状況でも逃げず「やるっきゃない」と潔かった。また、現場主義に徹し、呼ばれればどこにでも「走った」。

 消費税導入、リクルート事件が問われた八九年の参院選で、空前の「おたかさんブーム」が起きたのは、「市民」の不満を肌で感じ、「駄目なものは駄目」と歯切れのいい言葉で発信したからだろう。

 ただ、市民派ゆえに、九三年の非自民連立政権での衆院議長就任は随分悩んだ。最終局面でも尊敬していた元同志社大学学長の田畑忍氏から「やめるというわけにはいかんのですか」と再考を求められている。

 衆院の選挙制度が中選挙区から小選挙区に変わったのが、この土井議長の時。おたかさんは、中選挙区堅持だったが、議長ゆえに口を一切はさめなかった。親しかった田村元・元衆院議長は「土井議長じゃなかったら小選挙区は実現しなかっただろう」と振り返る。

 独身を通し、「平和憲法と結婚した」と言われるように、「護憲のシンボル」でもあった。政界引退後も毎年、年賀状が届いたが、最後の筆を振るった二〇〇九年の年賀状には戦争放棄を明記した九条の「九」の大きな文字が力強く書いてあった。

 この護憲、九条への思い入れは最後まで続き、安倍政権での武器輸出三原則の撤廃、集団的自衛権行使を認める憲法解釈の変更には「どういうことなの」と疑問を投げかけ、体が動かず、何もできない自分にいら立っていたという。 (元政治部・築地政彦)

 

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