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土井たか子元党首が死去しました。
 
社民党元党首 土井たか子氏死去

女性として初めて衆議院議長を務めた、社民党の元党首の土井たか子氏が死去しました。
85歳でした。

土井氏は昭和3年、神戸市に生まれ、大学で憲法学の講師を務めたあと、昭和44年の衆議院選挙に旧兵庫2区で旧社会党から立候補して初当選し、連続12回当選しました。
この間、土井氏は昭和61年に旧社会党の委員長に就任し、平成元年の参議院選挙では「ダメなものはダメ」ということばで「反消費税」を掲げ「マドンナ旋風」「おたかさんブーム」を巻き起こし、自民党を過半数割れに追い込みました。
このときの与野党逆転について、土井氏は「山が動いた」という名文句を残しました。

日本の女性政治家を語る上で重要な人物であり、社会党の看板であった大功労者でした。 
社会党はおたかさんブームによって、大きく議席を伸ばして、自民党を窮地に追い込みました。

しかし、御存知の通り現在の社会党は、社民党へ党名を変えて、その勢力は見る影もありません。
一時は自民党に対抗できる左派政党であった社会党がなぜここまで勢力を落としたのでしょうか。

それを土井たか子党首の生涯とともに振り返ってみたいと思います。 

護憲派の一分 角川oneテーマ21 / 土井たか子 【新書】

誕生から大学卒業まで

 父親は広島県出身の開業医、母親は京都府の出身。1941年、兵庫県立第三神戸高等女学校に入学。1945年に卒業。同年3月17日の神戸大空襲に見舞われ、焼け出される。1945年に旧制京都女子専門学校(1949年より新制京都女子大学)支那語科入学。1949年に卒業。
同志社大学での講演「平和主義と憲法九条」に感動し、京都大学法学部に合格したが、1949年に同志社大学法学部3年に編入学。憲法学者・田畑忍の指導を受ける。同志社大学卒業を経て、1956年に同志社大学大学院法学研究科を卒業。1958年 - 1970年に同志社大学、1963年 - 1969年に関西学院大学、1967年 - 1969年に聖和女子大学(現・聖和大学)にて講師を務める[3]。専攻は憲法学。

大学時代の平和憲法との出会いが土井たか子党首の政治への関心が始まったのでしょう。


衆議院初当選、そして日本社会党副委員長へ

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1969年の第32回衆議院議員総選挙に旧兵庫2区に日本社会党から出馬し、初当選。

1980年には国会で性差別法に的を絞り、政府を追及。「男女雇用差別」、「女性のみ必修の家庭科」、「父系しか認めない国籍法」などの質問を行う。

自身と69年社会党新人代議士同期横路孝弘が北海道知事就任直後の1983年9月に、田中寿美子の後任として日本社会党副委員長に就任。

ちなみに土井たか子さんが初当選した第32回衆議院議員総選挙は、社会党が大敗を喫し、自民党が勝利した選挙戦(時の自民党選挙最高責任者は、田中角栄幹事長)であり、土井さん自身も逆風の中の勝利でした。

社会党・共産党は日米安保条約の自動更新阻止を掲げ、70年安保を争点にしようとした。安保闘争では全共闘や新左翼などの学生運動が展開され、機動隊と衝突した。

しかし選挙結果は、自民党の大勝と、社会党の一人負けであった。自民党は追加公認を含めると、300議席の大台に乗せた(前回比+20)。一方、社会党は90議席(前回比-51)で再統一以降では初めて100議席を割り込み、特に首都圏など都市部で壊滅的な惨敗を喫した。前回国会に初進出した公明党は議席を倍増(前回比+22)、共産党も第24回総選挙以来、20年ぶりに議席を2桁に乗せた。佐藤榮作政権は続投を決め、1970年の安保条約自動更新も平穏に行われた。

自民党の得票数は横ばいだったが、社会党の得票数減がそのまま自民党を押し上げた形になった。社会党の敗北は、学生運動やプラハの春抑圧などに嫌気が差した支持者が棄権に回ったためといわれている。一方、共産党は新左翼と敵対していたことが選挙にはプラスになったといわれている。

従来、社会党は都市部で強かったが、この選挙で受けた打撃は二度と回復できなかった。代わって、公明党・共産党が進出し、民社党も含めた、都市部での野党の多党化傾向が顕著になった。自民党では、当時幹事長だった田中角栄が後の「田中軍団」を形成する事になる子飼いの新人議員を大量に当選させ、後の政局の主導権を握る上で大きな役割を果たすことになる。
 

 社会党委員長就任、おたかさんブームによる飛躍

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 1986年、衆参同日選挙の大敗を受けて石橋政嗣委員長が辞任すると、9月、第10代社会党委員長に就任。1989年の第15回参院選では、消費税・リクルート事件の追及の際に強化された社公民路線を基礎とし、連合の会候補を3党が推薦するといった選挙協力体制を構築する。結果、社会党が改選議席の倍以上を獲得、改選分では社会党が第一党、総議席では自民党が過半数割れの比較第一党という結果となる。これは土井の個人人気に支えられた面も大きく、土井ブームと称される。

女性初の衆議院議長就任へ、そして社会党の転落

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1993年に行われた第40回総選挙で社会党は議席半減の惨敗をしたものの、自身は旧兵庫2区で再選
 
総選挙後に細川護煕を首班とする非自民・非共産連立政権の枠組みが固まると、両院で過半数を確保している連立与党は土井を衆議院議長に推すことを決定、衆参通じ女性初の議長となることが固まった。

しかし帝国議会時代より当時まで、議長は与野党問わず比較第一党から出すという伝統が続いていたため、野党に転落した自民党は議長ポストを要求し、通常は全会一致で議長が選出されるところを、異例の競合投票によって議長が選出されることとなった。

結局、数に勝る連立与党の票により土井が選出されたものの、当選後の議長挨拶の際に野党自民党から激しく野次が飛ぶ中での議長職のスタートとなった。
 
女性初の議長就任後も、比較第一党である自民党の執拗な猛攻を受けて、議会運営は厳しい物でした。そして、細川内閣、続く羽田内閣も倒れ、そして、社会党の崩壊が村山内閣成立によって、始まります。

1994年(平成6年)6月、前の羽田内閣が少数与党内閣となって総辞職した後、政権復帰を目指した自由民主党(河野洋平総裁)は、日本社会党(村山富市委員長)・新党さきがけ(武村正義代表)と連立政権を組むことに合意した(自社さ連立政権)。そこで、村山富市社会党委員長を内閣総理大臣として成立したのが、村山内閣である。
 1994年7月20日、第130回国会での所信表明演説にて「自衛隊合憲」、「日米安保堅持」と明言し、それまでの日本社会党の政策を転換し、日米安全保障条約体制を継続することを確認した。
この際、演説用原稿では「日米安全保障体制を維持」となっていたのを、所信表明演説では村山が
「日米安全保障体制を堅持」と読んだことが注目された。

これは村山の出身政党である社会党にとっては“コペルニクス的転回”であった。トップダウンで決定した背景から独断専行と批判も受けたが、党は追認している。 
この結果、社会党の求心力は大きく低下し、その後分党・解党をめぐる論議が絶えなかった。1994年12月には新進党結党により、衆議院で第2党から第3党に転落した。また消費税の税率を3%から5%にすることを閣議決定した。その後の1995年の第17回参議院選挙では16議席しか獲得できず、2年前の衆議院選挙に続く大敗北に終わった。


 社会党から社会民主党へ、そして落選

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 1994年に自由民主党と新党さきがけとの連立政権を組んだものの、翌年の第17回参院選で惨敗したことを受け、1996年に社会党は社会民主党に改称する。

同年、社民党とさきがけの議員を糾合する新党として旧・民主党が発足するが、いわゆる「排除の論理」によって土井や村山富市党首らは新党への参加を拒否される。半数以上の代議士を民主党に引き抜かれた社民党は党首を村山から土井に交替させて同年の第41回総選挙に臨むが、解散前の30議席から15議席へと半減。

しかし選挙敗北の責任は問われず、むしろ土井の党の大黒柱としての地位が強化される形となった。1998年、社民党は連立与党を離脱。

2005年の第44回総選挙では、比例近畿ブロック単独名簿順位5位で立候補したものの落選(社民党の比例代表近畿ブロック当選者は1人、復党の辻元)、国会の議席を失った。

落選後のインタビューでは引退を強く否定したため、再立候補の意向であると見られたが、参議院議員転進も取り沙汰される中2007年7月の第21回通常選挙には不出馬、更に2008年10月、第45回総選挙に立候補しない意向を示した。政治活動自体は続ける意思を示した。

 
土井たか子の死去とこれからの社民党は・・

2014年9月20日、肺炎のため兵庫県内の病院で死去。初七日の28日に社民党本部により公表された。85歳没。

社会党の崩壊のきっかけは、宿敵自民党との連立とそれまでの自衛隊合憲、日米安保維持路線に追従したことでしょう。まさに社会党のアイデンティティを失ったことが大きな原因でしょう。

自民党のライバルは、社会党から民主党へ、そして、自民党の一強多弱時代に突入しました。 


 

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