宅録ミュージシャン雑記 月に見下ろされて ~宅録ミュージシャン trifling beetleのブログ~

宅録ミュージシャン・trifling beetleの雑記帳&忘備録。
音源試聴・販売
http://www.dojinongaku.com/contents/group_profile.php?grid=1780
http://okmusic.jp/#!/user/35393
http://music-baz.jp/artist.php?bid=1595
http://monstar.fm/triflingbeetle


テーマ:

「永遠の0」という映画が話題だそうだ。


「風立ちぬ」の宮崎監督がこれに対して非常に辛らつなコメントを出したという。

戦争讃歌というか、なんかそういう空気感が、現在の日本にそぐわないのではないのかということらしい。

要するにコレは右傾化を煽るのではないかという懸念があるそうだ。


自分ははっきりいってこの原作者は、間違いなく右の人で、愛国心の塊だと思う。

かといって、それをどうこうあげつらう気も、実はさらさらない。

自分は、いろいろと考えたり体験してみて、左の「止まらない幻想」にたいそう幻滅したということも多分にあるからだ。


だといって平和を汚す行為一切を赦さない。


とまあ、大上段に語ることでもないが、つまり、宮崎監督の言わんとすることも良くわかるし、映画に過剰に反応するのもどうかなと思うわけだ。


昔の人の犠牲があってこその今であるなんて全然思わないのだが、それでも戦争という悲劇がもたらしたものを、正直に直視してゆくつもりである。


自分なりに。




まぁ、なんにしても年末の慌しい時に、ふと、参拝してしまったそんなあきれた軽率な行動の是非なんか、カンカンガクガクに論じてみても仕方がないという気がする。

当然、ネガティブな意味合いでだ。


というか、もうあきれてものも言えないのだ。

モノ申す気にさえなれない。


あえて言えば「なぜ?」と「馬鹿じゃないのか」だけだ。



こういうトップを据えている、この島にいることを、どうやって愛したらいいのか?

誇りに思えるのか?

そのやり方を考えることさえも、非常に馬鹿馬鹿しい限りである。



情けないのぉ








AD
いいね!した人  |  コメント(0)

テーマ:

以前の飲み会でのことである。


同僚の50代女性の方がベースギターを弾かれるということで、凄く盛り上がったことがあった。

聞けばソウルやファンクなどの黒人音楽が大好きらしい。


で、大好きなベーシストの名前に「ジェィミー・ジェマーソン」が上がり、凄くワクワクしたのだ。


ただ、自分は疑り深い性格で、コレがファッションなのか、それともコアなのかを狡猾の探る性癖がある。


なので「彼は指一本でピッキングしていたよね」と降ってみた。

すると「そうそう、親指一本のワンフィンガーで!!」と返してこられた。


???である。


「イヤイヤ、人差し指一本ですよ」といったのだが、すると


「親指です!!ジャケットにも載っていた、間違いない!!」

の一点張り。


もうここで相当に欺瞞性が暴露されているのだが、面白くて少しおちょくってしまった。




ジェイミー・ジェマーソンは元アップライトベースマンだ。

それを親指一本で演奏するのは、どう考えても物理的に、ほぼ不可能である。

さらに、親指のワンフィンガー奏者はもうそれこそ星の数ほどいる。

別に特別なことじゃない。


ジェイミー・ジェマーソンやモータウンにかなり影響を受けていたと思しきポール・マッカートニーも、基本は親指ワンフィンガーなのである。


[ザ・フック]こと、ジェイミー・ジェマーソンが特別でありえたのは、複雑なベースラインをほぼ人差し指一本で、レイキングの技術を駆使し、開放弦を多用することにより、さらっと演奏していたからに他ならない。

というか、このエピソードは、おそらく彼の代名詞の中の代名詞ではなかろうか。

ジェイミー・ジェマーソンといえば、それすなわち人差し指という感じで。

ちなみに、彼のその代名詞である「フック」とは、英語では人差し指を指し示す。


だからジェイミー・ジェマーソンが親指一本で演奏していたなんていうと、それこそコアなソウルやファンク好きな人からの、嵐のような失笑を買うことであろう。

コレは

「ポール・マッカートニーって右利きだよね」

「ジョン・レノンって右の人だよね」

「リンゴ・スターっていいコメディアンだね、イカシテルよね、彼のギャグ」

「オールマンが使っていたドブロって、ドブロクの仲間だよね」


なんていうのと同じレベルでの「超恥ずかしい話」である。

というか、もうこれこそコメディなのだ!!

ギャグである。


ちなみにこの方は黒人音楽しか演奏しないという割には、ブルースやロックンロールなんかのベースは退屈で嫌い、やった事がないらしい。

そして、釈迦に説法までしてくるのだ(笑)。

涙が出そうである。


黒人音楽の基本を知らずして、カッコだけでファンクやソウルにいったベーシストの音

どれだけ多めにみても、そんなもん、もう、とても聴けたものではないことは、素人でも想像するに易い。

失礼だが、もう学芸会のレベルである。

そんなもん、お金をとって演奏を聴かせる代物ではないと、はっきりと断罪した。



それ以上でも、それ以下でもない。

AD
いいね!した人  |  コメント(0)

テーマ:

未来記事の機能なんかを駆使して継続させてきたブログだが、しばらく休んで、少しやるべきことに没頭する予定だ。




長らく海外とかに出たことがない。

死ぬまでにもう一度だけでいいから、機会があればどこかに行きたいな、ふと思った。


以前、社員旅行でグアムに行った時のこと。

ショッピングに明け暮れる同僚を尻目に、自分はひたすら仲の最も良かった同僚とふたりで、サーフィンに没頭したり、実弾を撃ちに行ってみたり、美容院に行ったり、映画を見に行ったりした(笑)。

言葉は分からないが、分からないなりに非日常的なものを次々とやってみたかったからである。

ブランドとかには全く興味もなかったこともある。


当時の相方にせがまれていたグッチか何かの時計とやらも、実は買う気は全くなかったし、だいたいグッチの時計が5万円で買える、はずがないのではなかろうか?

詳しいこととかは知らないけど、偽モノの可能性が非常に高かった、ついてはそんなもんを大枚はたいて買わなくてよかった、救われたのだ、俺はラッキーだ!!


と、自分は今でも信じている。


美容院に行くなんて、なんちゅう無謀な!!と呆れ返られたが、言うほど大変ではなかった。

こうして欲しいという切り抜きを持っていったし(笑)、一切会話はなかったからだ。

体験してみたいだけで、出来栄えなんかどうでもよかったのである。

結果、なんとも地味な頭にされてしまった。

写真と違うやん!...と英語でクレームをつけることも面倒、というかできないんで平静を装っていた。

アメリカ人(欧米人)の描く、日本人の典型のような髪型だといえようか。


ただ、切り方は、日本の散髪屋とも違って、相当雑だったとは思う。

度々髪の毛がハサミに引っかかって、その度にぐいっと引っ張られた。

切れ味のかなり悪いハサミだったのか、自分が枝毛だらけだったのかは判別しかねるのだが...。

耳とか切られたら英語で交渉せねばならなくなるので、非常に厄介なことになるのだが、そういうこともなく無事に終了。

ぼったくられることもなかった、と思っている。


なんにしても、そういう全てが、まさに体験という卵だったんだと今でも思っているのだが、今後海外に行く機会があったとして、二度と散髪はしないと思う(笑)。





ジュディ・マリとかグレィなんかのプロデューサーとして有名な佐久間正英さんという方が、この数年、闘病生活をされていることは随分前から知っている。

作曲家やアレンジャーとしてだけでもなく、ベーシスト、ギタリストとしても大変才能のある方で、動画やベースラインなどはくどいほど聞き込んだものである。


元はというと四人囃子というプログレのMEMBERだったそうだ。

70年代、日本で「ロックは日本語でやるのか英語でやるのか」という大真面目な議論が一般的だった、邦楽ロック黎明期の頃のことである。

ましてプログレシブロックなんてジャンルは、マニアック中のマニアックな代物だったのであろう。


さらに言えば、佐久間氏は、わが国における一人多重録音の先駆けでもあるのだ。

YMOが打ち込みサウンドをメジャーにしたが、同時期に佐久間氏も熱心に取り組んでいたとか。


その音楽性は本当に緻密で、理論的な音楽というか、四人囃子については、あのピンク・フロイドを完コピしていたらしいという話も聞いたことがある。

芸術家であり職人、マニアックであり王道とてもひとことでは語りきれない方である。


その佐久間さんは闘病生活をしながらも京都精華大の客員教授として、またアレンジャーやプロデューサーとして、時にはプレーヤーとして、縦横無尽の大活躍をされている。

その様子はFacebookの日記で事細かに窺うことができる。

と同時に、心が苦しくなるほどの痛々しさもまた感じてしまう。

氏はそれを努めて明るめで、淡々としたタッチで、すらすらと、いや、飄々と綴っておられる。

音楽に書ける情熱というか、怨念というか、いやはやもう脱帽するのみである。


すごい!凄すぎる!!


なんか、自分とは住む世界が全く違う方なのだが、その神々しいまでのバイタリティーに触れるたびに、日々、何げなく背中を押されることが本当に良くある。



自分ももう一歩だけでもいいんだから、ギブするまでは自分なりに歩こうと思う。


往生際の悪さを揶揄されても、もう今となっては痛くも痒くもないからだ(笑)。

笑い飛ばしのカウンター...で行こう。



AD
いいね!した人  |  コメント(1)

テーマ:

さっきソチ五輪のフィギュアスケートの代表が決まったと報じていた。

安藤はアカンかったようだが、よく頑張ったんじゃないかと思う。


実は、スケート云々についてはほぼ素人で、特別な興味関心はない。

だから五輪にもそんなに関心も無く、愛国心もまたない。

よって基本的には誰でもいいのだが、高橋大輔が選ばれたというニュースに関しては、本当に良かったと思っている。



某サイトを見ていると、キモイとか引退しろとか、はたまたウザいとか、人格攻撃というどうしようもないカスの餌食とされていて、他人事ながら非常に気の毒だと思っていた。

散々ないわれようだが、自分はずっとこの選手に対して、何となくであるが親しみを感じ続けていた。

身内に大ファンが約2名いることも多々ある。


そうなのだ、そういうことなのだ。

この選手のブラウン管やアリーナで見せる「競技する姿」が、身内のリハビリの後押しを、陰に日向に後押ししてくれていたのである。

直接関係ないのかもしれないが、自分は大いにあったと思う。


それは、本当に助かった。

ありがたい話なのだ。



まあ、ただそれだけの陳腐な理由だが、彼が堂々とオリンピックに出ることになったというニュースを聞いて、たった今ホット胸を撫でおろしたところだ。




いいね!した人  |  コメント(0)

テーマ:


高校野球が大好きで、もうマニアもどきであるので、長年の中にはトンデモナイシーンの記憶が、相当数埋もれていたりする。



PL学園、報徳学園、宇部商業なんかの神がかり的な逆転や、ラグビー並みのスコアのゲーム、決勝戦のノーヒットノーラン、決勝再試合など枚挙に暇がない。


例えば智弁和歌山が史上最強と謳われた豪打で夏を制した年のゲーム。

あの年の智弁のホームラン攻勢は凄かった。


智弁和歌山と帝京の試合。

8回まで、4本塁打を放った智弁和歌山が、8-4でリードしていて、この時点では、強打が売り物なチーム同士の、ありきたりな乱打戦という趣でしかなかった。

さらに付け加えれば、すでにその時点で、帝京は投手陣が粉砕されていた。

先発・高島は二回でノックアウトされ、7回からは3番手・大田がマウンドに立っていた。もうベンチにいる投手は、いないも同然だったのだ。


一方の智弁は先発・広井から抑えの竹中への必勝リレーに入っていた。

ここまでに4本のアーチをかけて、相手投手陣を粉々にし、しかも勝利の方程式的投手リレーに入っていた智弁優位は確実だと、多くの人は感じていたと思う。


ただ、帝京も、実はとんでもないドラマを演じてきた過去もあったのだ。

1991年夏の池田との激烈な打撃戦、1982年夏の宇部商業との熱戦敗者として脚光を浴びる部分が多かったかもしれないが、帝京もトンデモナイ底力を秘めている可能性は多々あったと思う。


そして、智弁和歌山4点リードで迎えた9回の表、帝京の最後の攻撃。

この回の先頭、ピッチャーの大田に代えて代打の沼田を送る。

結局、沼田はサードゴロに終わるが、これが後々大きな意味を持ってくることになり、そしてこのサードゴロを合図として、ここから、壮絶な戦いの幕が開く。



ヒット、デットボール、三振で2アウト後、タイムリーヒットが出る。

智弁和歌山 8-5 帝京。

甲子園が少しだけざわめいた。

その後、さらにヒットが3本続きあっという間に1点差だ。

なおも2死満塁、もう誰の目にも流れは完全に帝京に行っていた。

そして、半ば必然的にというべきか、杉谷の逆転タイムリーが出るのだ。


5者連続ヒット、この回7本目のヒット、しかも全て単打、見事である。

なおも2死2塁1塁のチャンスに、この回の先頭打者として代打で出てきた沼田が、この回2度目の打席に入ってきた。

そして、なんと彼は真ん中低めのストレートをスタンドへと叩き込んでみせたのだ。

ダメ押しの3ランホームランだと誰しもが思ったことであろう。

帝京 12-8 智弁和歌山、凄まじい大逆転劇である。


しかししかし、驚くべきことに、これでもまだ、話の途中でしかないのである。


その裏、帝京の最後の守り。

最初にも書いたが、大田を引っ込めた帝京には、すでにマトモな投手が残っていなかった。

そこでセンターの勝見を急遽マウンドへ送り込む。

しかしこの雰囲気の中でいきなり投げろといわれてもという感じで、全く制球が定まらない。

智弁はそんな急造投手から連続四球を選び、ボックスには4番の橋本が入る。

怪力・橋本はストライクを取りに来た高めの甘いボールを、ものの見事にスタンドへと叩き込む。

ピンポン玉のようにとはこのことで、しかもこの試合、智弁5本目のホームラン。

これで、帝京 12-11 智弁和歌山、ランナーはいなくなったとはいえノーアウト。


続くバッターにもフォアボールを与えたところで、勝見をセンターに戻し、中学生までしか投手経験がないというショートの1年生杉谷をマウンドへ。

野手がマウンドへ上がるシーンは良く見るが、このときたった8球しか投球練習はできない。

普段から野手と投手の両刀の練習をしているプレイヤーならば、8球で作れるのかもしれない。

しかし、この試合中にブルペンで投げてもいなかった、まったくの急造投手には酷過ぎると思うというか、無理である。


杉谷は、案の定というか、初球からデットボールを与えてしまう。

なんとしても全員総力戦で逃げ切りたい帝京はここで投手を岡野に代える。


正式な投手でもない岡野は、なんとか1アウトを取ったものの、代打に同点打を浴び、これで烈しく動揺し、続くバッターにはストレートの四球。


帝京 12-12 智弁和歌山、9回裏、1死満塁の絶対絶命のピンチ、もしくは絶好のチャンスだ。


幕切れはあっけなかった。

フォアボールで、智弁和歌山 13×-12帝京、つまり智弁和歌山の押し出しサヨナラ、である。 




こういう試合の記憶が、自分の中に数多く蓄積されている。

何かにつけて、そういうことをやたら思い出すようになってきた。


いいね!した人  |  コメント(0)

テーマ:



たまにテレビなんかで、なんかの新人研修会とかのドキュメントを見ていて感心することもあるし、その逆に辟易することがある。

まるで新興宗教やなと。

よくああいう代物を公共電波に乗せて垂れ流すものだ。

やっている方も、流す側も、相当狂っているとしか思えない。

この国にはまだ旧態依然とした「精神で頑張れ、根性で乗り切れ、特攻精神で玉砕覚悟で行けば何とかなる」至上主義が蔓延しているのだ。

何とか、ならないと思う。

全くの無駄。

いくら非科学的な精神論が少なくなったとは言え、ただ国民の精神の奥深くで息を潜めているだけであり、時が来ればそれが突如、恐ろしい牙を剥いて来るのである。

恐ろしい限りで心底ぞっとする。



某外食チェーン店の新人研修のドキュメントなるものの動画を、昨夜見た。

えげつなくて、滑稽としかいえない。

正気の沙汰なのか?

イヤイヤ、これは大掛かりなヤラセ、もしくはコントなのだと思って割り切ることで最後まで見ることができた。

そのチェーン店の社長が銃撃されたらしい。

社員の恨み説が確実に世論を形成してきている気がして、それに対しても恐怖を感じている。

怨恨を抱かれていたことはほぼ間違いないだろう。

いや、銃殺を実際にしたものがではなく、常日頃、そういう人間もいたと思うということだ。

被害者に無関係なところで、あるいは全く身に覚えのない知らないところで、それは形成されていた可能性もある。

被害者の人柄の良さを繰り返し報道している反面、怨恨説を上手に持ち出してきて、その人柄の良さに潜むもう一面らしきものを、巧妙に報道もしている気がする。

褒め殺しというやつか。

マスコミの態度を読み解こうと目と心をこらして行くと、たまにものすごい事実や裏側を発見できるよとある人が教えてくれてから、できるだけそういう意識を持つように心がけている。

第一、鵜呑みなんてもうしたいとも思わない。

必ず報道には裏がある、モノには必ず表裏があるのと同じように。

そういう意味で、ちょっとこの報道に興味を持ち始めてきたところなのである。


基本的に、人柄が良くても悪くても、二重人格でもそうでなくても、バイトテロの反抗でも行きずりであっても、何でも良い。

まあしかし、上に立つ人間の宿命といえばそうなのかもしれない。

だが、やはりあってはならないことであり、痛ましい限りであることにも変わりはない。

いいね!した人  |  コメント(0)

テーマ:

こどものサッカーと野球に対しての人気が逆転して久しい。


今は少年野球チームよりもはるかに多い少年サッカーチームがあると聞く。

自分がこどもの頃には考えられなかったことだ。

今も高校野球はそれなりの人気があるが、いずれ高校サッカーの圧倒的人気の前に、淋しく霞んでいくのだろうか。


サッカーは野球と違って、明確な攻守の切り替えがあるわけではない。

ルールもオフサイド絡みを除けばいたってシンプル。

反対に野球はルールも多く、複雑で、1イニングに裏と表、すなわち攻めるときと守るときが平等に必ず確保されている。

サッカーには一方的に攻めることや、一方的に守るというシチュエーションことが多々ある。

試合の最初から最後までひたすら防戦一方ということもありえるスポーツなのである。

シンプルであるからこそ、深い。

そして不平等も当たり前の世界なのだ。


サッカーの試合傾向は、ボールポゼッション、つまりボール支配率という具体的なデータからある程度読み取ることもできる。

支配率が低いからといって押されているとは限らない。

あえてボールを持たせる、わざと動かせることによってミスを誘いカウンターの機会をうかがう戦法などもあるからだ。

とかくサッカーに置いては、この戦術は非常に重要なウェートを占めている。


ポゼッションが低いから不利だったとは言い切れない側面がある。

しかしこの数字や、シュート数、反則の数、パス本数、パス成功率なんかは、複合的に読み取ることで、どちらが攻めており、どちらが防戦だったかという大まかな試合の様子をも、ある程度正確に読み取ることができると思う。


日韓大会の日本対ロシアの試合。

この試合で日本は歴史的なワールドカップ初勝利をあげた。

試合はもちろんテレビで食い入るように見ていた。

結果を先に書くと1-0で日本の勝利、稲本があげた決勝点を最後まで守り切ったのだ。

この試合のポゼッションはほぼ互角で、ややロシアに分があったと記憶している。

シュート数はロシアのほうが多かったのではないか。

あと、これはなぜかはっきりと記憶しており、自分でも非常におかしいのだが、日本のシュートは9本で、枠内に飛んだのが1本。

つまりワンチャンスを見事に活かしきったということである。

後半中盤に、バーにぶつけるヒデの、見事としか言いようがないほど美しいミドルシュートもあったが、あれも記録上は枠外扱いになることを初めて知ったりもした。

総括すると、ややロシアが押していたが、日本がワンチャンスを生かして守りきったということなのだろうか。


さて、ボールポゼッションが極端に低い試合というものは知らない。

国際試合等については、大体においてそれは6:4~5.5:4.5辺りに落ち着いている気がする。

5.5:4.5でもそれはごく優位的に相手を押していると見られる。

6:4になるともうそれは「圧倒的」という言葉がついてくる。

これが、例えば8:2とか9:1なんかの試合で、かつロースコアのゲーム...って存在するのだろうかと、ふと思った。

国際試合においてだ。


こういうのがあるのか調べてみたくなったので早速検索をしてみた。

が、なかなか思うような結果を得られない。

そこで自分の記憶の中にある国際試合の中で、圧倒的にどちらかが押しまくっていたロースコアの試合という縛りをつけて、脳内検索をかけてみた。


まず浮かんだのが有名なアトランタオリンピックでの日本対ブラジルの一戦。

この試合のポゼッションなんかを調べて見ることにした。


あの試合は福井の「原発のある海」に海水浴場に行ったときに、彼女と二人でひやひやしながら見ていたものだ。

記憶が曖昧になりがちなシチュエーションではあるのだが(笑)、なぜか割とリアルに細部までを記憶している。

観戦していて感じたことだが、もうこれはリンチ以外のなんでもないと思った。

猛攻という言葉があるが、1点を追うブラジルのそれは、猛攻さえもはるかに超越していた攻撃だったと思う。

後半終了間際は、まさに殺してまで点を取るといわんばかりの迫力だった。

おびただしい数のシュートの雨あられと言うがまさにその通りだ。


川口は短時間の間に、良くあんなに十何本も連続して枠内シュートを弾き返したものだと、ひたすら感心する。

川口はポカもあるが、集中したときに、あり得ない神業のようなことを思いがけなくしてしまうという摩訶不思議な選手なのだ。

その神業が、ある程度継続できていたならばと残念に感じる。

ムラが大き過ぎた。


さてさて、あの試合のポゼッションだが、公式記録を調べるがなかなかスカッとした明快な答えが出ない!

大まかに言うと、7:3程度だったという記述が殆どである。

先のロンドン五輪でスペイン代表を1-0で破った試合の支配率については、五輪のHPに「35%」と記録してあった。

それを考慮して自分で考えてみた。

観戦日時についてかなり大きな隔たりがあり、ついては記憶の鮮明さという点での正確性にも著しく欠けると思うし、一概に比較できないのだがそれでもともに観戦したものとしてのごく主観的印象としては、アトランタのブラジル戦のほうがはるかに支配率が低かったと思う。


ごく単純な印象としてだが、ひょっとしたら30%を切っていたのかもしれないと感じる。

ブラジルのシュート数28本、日本4本という具体的数字はかなり多く出てきたので、これが公式記録なのだろうと思う。

ダイジェスト動画を見ていただけると何となくその様子はわかると思うが、フルで生観戦していた率直な印象としては、「体に悪い」以外の何もので真ないと思う。

血圧、心臓などにウィークポイントを抱える方が見るべきものではない。


さてさてさて、先月だったか、バルセロナとスコットランドのセルテイックの一戦。

終了間際の得点でバルサがセルティックを2-1で振り切ったものの、その試合のバルサのボール支配率は90%だったという。

パス本数954本。

圧倒的に押しまくっていた以外の何ものでもない。

が、スコアはかろうじての2-1なのである。

「宇宙的チーム」はあわや、圧倒的に押しまくりながらも格下チームに対して引き分けるという大失態を演じるところだったのである。



サッカー 日本 VS ブラジル マイアミの奇跡 アトランタ五輪 (1996年) - YouTube

いいね!した人  |  コメント(0)

テーマ:

健診を受けたとして、その結果を見るときには誰しもちょっと複雑な気分になるのだはなかろうか。

ミシン目を切って拡げたときのリアルすぎるドラマ感。

自分はそれが大嫌いである、基本ヘタレだから。


清水の舞台から飛び降りる気分で広げたその健診結果表が、たとえばG(要精密検査)やH(要治療)で埋め尽くされていたりしたら、もう死にたい気分にもなろうかと思う。

実際そんなものを見たこともないからなんともいえないのだが。

誤植なんかにすがりたくもなるだろう。


あの、表を広げるときの「まだらな無力感」、広げたあとのどうしようもない絶望感、もしくは高揚感」というものは、自分の中の「癖になりたくないもの」の中で、常に上位にあるといえる。




山下達郎の作り出す音楽がとても好きだ。

本当に細かいところにまでこだわって作ってあって、何かと勉強になるからだ。

特にテンションコードの据え方とか、ヴォイシングの具体的な技法とか、イヤイヤ、何でこんなに考えて作られているんだと涙腺が緩みそうにさえなる。

ギターのカッテイングも非常に勉強になる。


ジャズ系の勉強なんて全くしていないから尚更である。

特にコーラスワークにおける音の重ね方なんて驚愕物だ。

ひとり多重コーラスは、達郎の専売特許という感じさえする。


先日、達郎のアート作品を陰に日向に支えて来た青山純氏が亡くなられた。

伊藤広規氏とのリズム隊コンビは最高だったと思う。


さて、その達郎が以前ラジオ番組で紹介していたのがこのグループだ。

「シンガーズ・アンリミテッド」。

ジャズボーカリストの集団らしいが、声がもう「磨き抜かれた楽器」化されきっている。

あと、転調とか、コードワーク、空気感(多重コーラスのミックスの手法)など、どれもこれもが心の琴線に触れてくる。

ちょうどこの時期、街角で、彼らのクリスマスソングのア・カペラが聞けるのではなかろうか。


男声3、女声1の4人組。

完全なア・カペラグループ。

基本ライブはやらない。


凄いものであること、この上ないよなぁ~。


http://www.youtube.com/watch?v=muY-KlxBSJc

いいね!した人  |  コメント(0)

テーマ:

兵庫県西宮市の北部に標高390mの甲山(かぶとやま)という山がある。

その西側に、今はもう廃園となったが、かって社会福祉法人甲山学園が経営する、知的障害児の収容施設「甲山学園」があった。

周辺には現在でも墓地・貯水池・寺・松林があり、ちょっとしたピクニックコースとなっている。


1974年にここで起きた、いわゆる「甲山事件」は、前代未聞の冤罪事件として名高い。

園児2名が行方不明になり、その日の夜遅く、2人の遺体が園内トイレ浄化槽から溺死体として発見された。


「甲山事件」はこの2人の園児死亡事件を発端として、学園の保母が、状況証拠しか無いまま、園児の一人を殺害した犯人として逮捕されたという非常に痛ましい事件だ。


被告はその後、23年間もの長期にわたって被告の座に置かれることとなり、日本の刑事裁判史上最長の経過をたどり、絶望や困難のなか、弁護団をはじめ多くの人の献身的な努力、熱意、膨大なサポートによって、最終的な無罪判決を勝ち取ったという。

1999年のことだ。


冤罪事件史上まれにみる、市民の勝利であると同時に、司法に対し、人権の未成熟な社会に対して、多くの課題を提示した事件でもあった。



さて、この事件についての詳しいあらましはリンクを張っているのでそれを参照にしてもらうとして、この事件の警察捜査は死体発見日から開始、翌日には学園内に「取調室」を設置、園児、職員からの「非人道的事情聴取」が連日行われ、アリバイと動機を中心に、個人のプライバシーを無関係な取り調べが進められたという。

例えばこんな笑い話かコメディのような話も見聞きした。

「女性は生理期間中に情緒不安定となるから、事件当日、生理が来ていた女性をピックアップせよ」などがそうだ。



容疑者として逮捕された方の取り調べは、犯行時間帯のアリバイ追及から始まったが、それは概ね「やっていないのなら、アリバイを証明しろ。言えなければおまえが犯人だ、説明できたら釈放してやる」という滅茶苦茶なものだったとある。


「本当のことを言えば必ずわかってもらえる」そう信じていた主は、必死にアリバイを思いだそうとした。

しかし捜査官は、一ヶ月も前の事件当日の夜8時前後の行動に1分1秒の説明を要求したという。

生まれてはじめての逮捕、連日の長時間の取り調べ、留置場での日々、精神的にも、肉体的にも消耗度は想像を絶するものがあったと思う。

取調官はそこに輪をかけて、「ウソ発見器で黒と出た」「連れ出したところを見た園児がいる」「きみのコートに被害者のセーターの繊維が付いていた」「これだけで判決は有罪だ」など、虚実を織り交ぜて強硬に自白を迫ったらしい。


「黒い証拠ばかり出てくるし、もう誰も私を信じていない」と絶望のどん底に突き落とされた主は、「私がやりました。あとは明日話します」と言って留置場の房に戻ると、ストッキングで自分の首を締め、自殺未遂を図った。


要するにである。

実質的には何らの直接証拠も得られないままの、見込み逮捕にしか過ぎず、逆説的に言えば、証拠がないからこそ、「自白」という証拠を得るための逮捕が必要であったとも言えるのだ。


主の最初の自白が出てから後も、供述は波のように揺れていったという。

犯行をはっきりと否認する時間と、もうどうでもいいやという投げやりな時とが、大きな波、小さな波のように繰り返されていた。

例えば「動機を聞かれますが、やってないから語れるはずはありません」と否認する記載があるかと思えば、「私は警察の人の真心のこもった捜査や取り調べに感謝する」、と述べられている。

はたまた「警察の言われた証拠は、全てわたしに不利です。ですからもういいです。私の真心は誰にもわかっていただけません。ですから、もういいです。」という悲痛な言葉もある。


自白と否認の繰り返しの無限ループこれこそが、「自白」すべき犯行体験を何ひとつ持っていなかったことを示す最大の証左だったと論じてあった。




この事件を思いがけずに思い出したが、ほんとに久しぶりのことだった。



この事件のことについては随分前にも興味を持ったことがあって、多分大学の頃か、文献を読みまくった記憶がある。

冤罪事件としての側面よりも、社会福祉としての面からこの事件に関する文献を図書館で読みまくったのだ。


社会福祉、主にその現場という世界は、はっきりいってとても奇妙な世界構造になっていると思う。

多少いびつだ。

だから一般社会の常識がすべてそこにあって、通用して、そして当然という考え方はまったくふさわしくない。

何も知らずに飛び込んだ人間は、間違いなく度肝を抜かれる。


そう、ほぼない。

そこにあるのはその施設内で形成された、独特の価値観や世界観、モラル、規則などである。

否定するわけではない。

体験と経験に裏打ちされて、そして熟してきた特有なものがそこには確実にあるというだけのことだ。


ごく常識人な人が何も考えずにこの世界に、ノリやファッション感覚、勢い任せなんかで飛び込むと、もうやがては発狂、人格崩壊、堕落、適応障害を起こして自殺するのではなかろうかということさえ危惧する。


本当はそんなにたいしたものでもなく、住めば都なのである。

しかし最初のカルチャーショックでまず脱落してゆく人も、おそらくいると思う。


ごく抽象的な言い方をするのにとどめるが、この世界は、第一に「李下に冠を、ほんの一ミリでさえも正さず」を地で行く世界だ。

志も大事、哲学も知識も然り。

しかしまずは、「ほんの少しでも灰色な部分があることを絶対にしない」覚悟が大事だ。

そう、特に昨年、虐待防止法が施行されてからの現場というものは、それこそ李下で冠どころか、そこから一歩も歩き出すことさえも出来ない状態も多いと聞く。


萎縮、怖気好き、事なかれ主義これらの毒ガスが徐々に職場を侵してゆき、ついては自由がまったくない恐怖政治下の国家みたく、表情が貧困ですごく暗い雰囲気が形成されきってしまい、もやもやとした薄黄色の雲が湧き出している噴火口の持つ、あのやたらと高い温度を孕んだ空気感のようなものがピリピリと心身を引っかき始めて、そしてそうなって始めてとんでもないことになってきている、トンデモナイ場所に自分が立っていることに気がつかされるのだ。


しかし疑わしき行為はできない。

そこから走って逃げることも、這って逃げることも難しくなる。

噴火するかどうかは時と場合にもよると思うが、噴火は最悪な事態を、間違いなく招くと思う。

そう、噴火に巻き込まれるも、回避するも、自分しだいだ。

灰色にされるのを怖がらずに走るか、否か。


本当に一歩間違えればトンデモナイ危機に晒される。

明日がどうなるかなんて、ここよりもいえない世界なんだなと、感嘆した体験がある。


ほんの一ミリの動き、例えば汗を拭う、涙を流す、手を振り回して蚊を追い払う、猛獣の突進を紙一重でかわす、毒蛇の襲撃を拳で追い払う、向こうにいる仲間に今ここに危機があることを大声で伝えるすべて李下でやってはいけないと思しき行為の、ほんの一例だ。


自分の身を守るための動きでさえも、時と場合によっては、「灰色」、「推定有罪」という、ごく頼もしく立派な烙印を押されかねないという。



今の自分が、こういう世界に、間違って身をおいてしまったとしたら、すぐに息が詰まって窒息するであろう。






甲山事件 - Wikipedia

いいね!した人  |  コメント(0)

テーマ:

コンプの簡易設定まとめ


アタックとリリースを中間くらいに、レシオは4~6あたりに設定。

スレッショルドでゲインリダクションが3~6dB振れるくらいに調整。


ここから、歌い手の特徴に合わせて微調整。


頭高(最初だけ勢いのある人)の人は、アタックを早めに設定。

普通に複式呼吸の出来てる唄いかたならアタックは残し気味(遅めに設定)。

語尾が消え気味の人は、リリースを早めに。

録音レベルを押さえたい場合はリリース長めに(ほどほどに)。


これで、ゲインリダクションが変わるので、良きところを探す。


レシオが低めなら、スレッショルドが深くても良い

逆にレシオが高めなら、スレッショルドを浅めにした方がナチュラル感は損なわない


コンプは、音圧感とレベル制御の両面を得ようとするが、とかく、平たい音になってしまいがち。

なので、トラック処理では多少暴れさせておいて、ミックスのトータルのコンプで全体に馴染ませる方が良い場合も多い。









千北界隈、主に大学の頃よくいた場所である。


千本北大路から東へ、縦の堀川通、烏丸通、河原町通、東大路通、白川通辺りまでが活動範囲だった。



今宮神社のおみくじでは、なぜか、大吉がよく出た。

向かい合う二軒のあぶりもち屋で有名なこの神社は、なかなかいい雰囲気を出していると思う。

特に占いとか、迷信とかを信じているわけではないが、この時だけはとても幸せな気分になったものである。


この辺りの路地に紛れ込むと、凄くナチュラル系のカフェ、雑貨屋、ギャラリーがいくつもあったりする。

昔ながらの散髪屋とかもある。


グレースハウス北山という花屋さんも懐かしい。

とても珍しいハーブの種や苗を扱っていた店である。

2000年頃には無くなった。

しかしここで初めてスィートウッドラフ、アンジェリカとかルバーブ、スィートシスリーの種を購入したのが本当に懐かしい。

すべて発芽結果は思わしくは無かったのだが

千本通りは佛大を過ぎた辺りから右曲がりのカーブになって、北山通りへとなって行く。

この坂道の途中にあったと記憶している。


タンポポという有名なラーメン屋もあった。

確か伊丹十三さんの映画のモデルになったのでは。



紫野玄琢・招善寺には祖父の墓がある。

何度か行ってみたが、毎回迷うのだ。

粗雑に並べられた、苔むした墓石が夥しくある。

化野念仏寺のフツウーのお墓版といった感じか。

入口から急でやたら長く、そして狭い石段を登ってゆくと受付があるが、ここの受付の人にあったことがない。

人がいる気配はあり、暖房なんかもついているのだが声をかけてもベルを鳴らしても誰も出てこない。

仕方なくいつも記帳だけして境内へと入らせてもらう。

カラスがとても多い。

祖父の墓も相当苔むしているが、少し事情があり、掃除をすることは遠慮させてもらっている。

線香を上げて手を合わせたら、しばしボーっとして、おもむろに退散する。

まさか自分の祖父の墓が自分の母校のすぐそばにあったとは知らなかった。

いわゆる、「なにかの縁」なのだろうか?


北大路のターミナルや商店街にはビブレがあり、HASEGAWAがあったので、よくたむろしたものだ。

HASEGAWAは、特に特徴もない洋食屋であるが、ところが食べると評価は変わる店だ。

本当に上手い。

弁当も販売していて、これも御用達だった。

北大路通を東へ、加茂川西横の加茂街道との交差点北西角にある店。


北大路ターミナルにはものすごい数の市バスが乗り入れていて、さらに地下鉄の駅でもある。

この駅を中心に、大徳寺や船岡山公園、大宮交通公園、金ちゃんラーメンなんかが思い出のスポットだ。


場所的に少し離れるのだが、北山通から北へと入ったところにある串焼き屋の「浪漫亭」も懐かしい。

割と高い店であるが、それをあまり感じない雰囲気がすごく好きだった。

コースもあるが単品もいい。

単品にすると割とかさむので注意が必要だ。

しかしあの雰囲気と匂いの中で、食欲を制御するのは至難の業か。

なぜかコースの最後に出てくるコーヒーゼリーが、いつも、なんとも摩訶不思議だった。

来年の春には真っ先に立ち寄ろうと考えている。



いいね!した人  |  コメント(0)

[PR]気になるキーワード