山口淑子さん評伝 二つの祖国のはざまで
2014年09月15日 10時15分
山口淑子さんには二つの愛する国があった。祖国日本と、生まれ育った中国。その間で、悲しい戦争が起きた。旧満州のスター李香蘭として、平和を希求する政治家として、激動の人生を歩んだ山口さん。その心の中にはいつも、戦争への憎しみがあった。
南満州鉄道(満鉄)職員に中国語を教えていた父のそばで言葉を覚えた。音楽が好きな普通の少女だったが、満州事変で状況は一変。抗日機運が高まる中、日本人であることを隠して北京の女学校に通った。抗日集会で「日本軍が迫ってきたらどうする」と問われ、とっさに「北京の城壁に立つ」と答えた。
2004年のインタビューで、山口さんは当時を振り返ってこう語っている。「どちらかの銃弾に当たって死ぬしかないと思った。日本と中国、いずれかにつくとは言えませんから」。約70年の月日を経てなお、苦渋の表情を浮かべた。
女優になるつもりもなかった。健康のため歌を習っていたが「日満親善に」と請われて歌手に。映画の吹き替えに呼ばれて行くと、主役に抜てきされた。「北京語も日本語もできて、歌も歌えた。満州という複雑な国にとって、私は便利な人間だったのでしょう」
長谷川一夫さんと共演した「白蘭の歌」など、映画は次々大ヒット。山口さんは晩年、当時の出演作を見て涙を流した。懐かしさからではない。悔し涙だった。「従順な中国娘が強い日本人に恋をする。中国人から見れば屈辱的な内容です。なぜそんな映画に出続けたのか。自分はなんて無知だったのか。恥ずかしくて見ていられなかった」
帰国後はテレビの司会者や参院議員としても活躍。パレスチナ問題や従軍慰安婦問題などに積極的にかかわった。自宅には梅原龍三郎が描いた李香蘭の肖像画や、喜劇王チャプリン、サッチャー元英国首相らとの記念写真が並び、幅広い交友関係を物語っていた。
国際的な活動は「いつも戦争や弱者のことが気になっていたから」。思い立ったらまず飛行機に飛び乗り、機中で勉強した。「私には国境がない。大陸人なのね」と話す時のおおらかな笑顔は、李香蘭のそれとは少し違って見えた。
まさに波瀾(はらん)万丈の人生。長いインタビューの最後にそう漏らすと、山口さんは笑って否定した。「波の中にいる人はそんなこと考えないわよ。ただ懸命に生きてきただけ」 (共同通信文化部記者・加藤義久)
■佐賀に強い恩義も-北方町に本籍、死刑免れる
山口淑子さんの父は、武雄市北方町出身。山口さんが終戦直後、中国で軍事裁判にかけられた際、父の戸籍謄本によって日本人であることが証明され、死刑を免れたという。佐賀市の映画評論家西村雄一郎さんは「命を救われ、佐賀県に強い恩義を感じていた」と話す。
2000年6月末には、劇団四季の「李香蘭」佐賀公演を観劇するために来県。劇の冒頭と最後に使われる「李香蘭は九州の佐賀県に本籍があり」というせりふについて、山口さんは「思い入れの強い場面です。あの戸籍がなかったら、命はなかった」と振り返っていた。
10年ほど前、東京で開かれた映画関係の式典で初めて同席した西村さんは「映画で見るより小柄な人だな」と感じたのを覚えている。佐賀との接点について「中国と日本のはざまで生きた激動の人生で、佐賀県が交差した瞬間は、彼女の命を救った瞬間でもある」と語り、映画評論家としては「当時の満映(満州映画協会)に興味があるので、一度インタビューしたかった」と惜しんだ。