果てしない幻の葬列に連なっているかのような弱々しい足どりで、片岡千恵蔵が演じる主人公は東海道を西へ去ってゆく。

 青年武士につかえ、江戸へ向かう道中、槍(やり)持ちをつとめる忠義者の家来だった。しかし、主君はもはや、無残にも骨つぼにおさまって首からぶら下がり、槍の穂先は血を浴びた臭気をまがまがしく放っていた。

 内田吐夢(とむ)監督(1898~1970)の時代劇映画「血槍富士」のラストシーンは、亡き主君への鎮魂に捧げられている。

 悲劇の発端は、大井川(静岡県)が増水して渡れなくなり、宿場に足止めされたことだ。うさばらしに入った酒場のいさかいで、主君が武士の一団になぶり殺しにされたのである。狂乱した家来は槍で仇討(かたきう)ちをとげたが、心は晴れやかにならない。

 うちひしがれた家来を見送る宿場の人びと。そのやるせなく沈静した映像の背景から葬送曲のような厳粛な調べが聞こえてくる。すると、鎮魂に二重の意図が仕組まれていることを、唐突に思い知らされるのである。

 その音楽は戦中の儀式歌「海行かば」だった。敗色が濃くなるにつれ玉砕報道の前奏曲となった、落日の帝国の悲歌である。

 「血槍富士」は、内田吐夢の戦後第1作だが、敗戦からすでに10年もたっていた。

 戦時下で映画が撮れなくなった吐夢は45年春、満州国へ渡った。歌うスター、李香蘭(りこうらん)(山口淑子)を擁し、「王道楽土」や「五族協和」のプロパガンダをになった国策映画会社「満州映画協会」(略称・満映)にもぐりこみ、活路を開こうとしたのだ。

 だが、たった数カ月で敗戦の日を迎えた。満映に入社していた吐夢は、満映残党の人びとと新生中国映画の技術指導に力を貸すことになり、53年秋まで帰国しなかったのである。

 「身内にも満映や戦後の中国での体験を語りたがらなかったそうだから、失意のうちに帰国したんだと思うのよ。自決した満映の甘粕理事長の葬儀でも、『海行かば』を演奏したと伝えられているから、あのラストシーンは、彼なりに満映と決別しようとしたんでしょうね」

 吐夢の次男、有作さん(2011年没、享年77)の妻の内田千鶴子さんはそう語る。

 甘粕正彦(1891~1945)は満映の理事長をつとめながら、日本の関東軍があやつる傀儡(かいらい)国家、満州国の暗黒面を謀略で統治する闇の王のような男だった。陸軍憲兵大尉だった23年にはアナーキストの大杉栄を虐殺した首謀者として刑に服し、陰惨な汚名をまとっていた。

 越えられない川が映画の物語を暗転させた。満州を支配する計略も、橋のない大河を渡ろうとするようなものだった。

 敗戦5日後の45年8月20日早朝、満州国の首都、新京(現・長春)にあった満映本社の理事長室で、甘粕が青酸カリをあおったのにいち早く気づいたのは吐夢だった。倒れた甘粕に馬乗りになり、胃を押し上げて吐かせようとしたが息を吹き返さなかった。「人間が自分の股ぐらの中で死んでいくのは決していい気持ちのものではなかった」と吐夢は自伝で述懐している。

 虚妄の権力に命をかけた男の野望も、映画監督の股ぐらの中で滅びたのだった。

文・保科龍朗 写真・早坂元興