2013年12月時点 在留外国人統計 http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/List.do?lid=000001118467
表番号 13-12-01-2 より 日本における総在留外国人数 2325608人
このうち、北米+ヨーロッパ+オーストラリア+ニュージーランド出身者が占める割合 (218270/2325608)×100 ≒ 9.39%
自殺しまくり労働環境がアレな国なんて誰も住まねえよという評価を下されることの恐ろしさをわかっていないか、自分が死んだ後はどうでもいいという人間で溢れているのだろう。
という外人が増えるだけで滅ぶ国であるということをスルーするのに慣れてしまうと韓国お兄さんのようにウリナラマンセーが出来るようになる。
http://www.yonden.co.jp/life/kids/museum/energy/japan/003.html
「TOEIC800超えで米国公認会計士持ち」を必要とされる職場には
今どきの人間はそうじゃないということを、昼間同僚と馬鹿話をする過程で熱いトークをもって説明された御託。
賢者タイムに入って追加で取ろうとしたティッシュを机から落として思わず後ろにかけておいた部屋干しの下着を引っ張ったときに
不浄の左手の復権は、マウスやキーボードなど右手による操作を求められる電子端末の普及により、もたらされる。
なるほど……?と相槌を打ちつつも、
古風な人、機械音痴を上品に卑下した人間を自称していた自分には関係ないねと、思っていたので
いつの間にか起きていた逆転劇は僕の中に驚きを持って迎えられた。
そんな細かいことは大抵の人は日記につけるまでもない些細なことなのだろうけど、
僕にははっきり覚えている理由が二つある。
美鳥の日々のおっぱいで何かに目覚めた記憶と旧劇のシンジ君の真似という黒歴史。
とりあえず、いずれにせよ十年近く前の話だ。
使用してきた媒体の変遷により、右手、左手の主従を選ばなくてはいけなかったが、
スマートフォンの登場により、左手、右手を選ばなくてよくなった。
左右の利き手を選ばなくてよい。最近使いだした自分が言うのだから
他の誰かが百万遍すでに言っているのだろうが、この事実は本当に良いことだ。
昔は、新幹線で親戚の家に一人帰るとき、黒い背表紙のアダルトな小説を
駅のキオスクで心臓をばくばくさせながら素知らぬ顔で購入していた。
「小説家になろう」のノクターン部門を、携帯でスワイプしながら読むようになった今となっては
紙媒体の、あの読みたい見開きで止めることに四苦八苦していた苦労は何だったのかと思う。
ページを片手で捲る技術は左手のみでしか行えなかったことを思うと(親指でページを少しずつ繰り出すこと)、
左右を選ばなくていい状態で本能がままにことを為すのはいつだって利き手だ。
スマートフォンに馴染むこれからの世代では、多数の人たちがまた右手が恋人という
かつてを取り戻すのだろうな、と思う。
■日本では低学歴ほどiPhoneを使ってる気がする(周りの観測結果)
そこまで言うなら知ってると思うけどセカンドライフはそもそも定年退職後の人生って意味で、セミリタイア志向の活発な欧米やインド等で存在した概念なんだ。
日本人は理解しにくいけど、セカンドライフというと単に第二の生活なだけでなくそこに素晴らしく悠々自適なというニュアンスが加わる。
そのセカンドライフをネットワーク上のバーチャル空間に名付けたところがセカンドライフ社の面白い着弾点なんだよ。
日本で言えば厨二的ネーミングだけどあまりに秀逸なのでみんなが自然に受け入れた。でもサービス自体はまったく流行らなかった。つまり名前と実体は別物だってこと。
それがマイクラについても言える。あとは分かるな?
能力で評価するジョブ型社会じゃなくて属人的な要素で評価するメンバーシップ型社会だからな。
フロイトの弟子が患者の話すべてを男根のモチーフとして結びつけるかのように、他人の文章読んですべて承認欲求ひいては無意識に帰結させたコメントするゴミクズ共は死ねばいいのにとは思うね。
年齢と在籍期間だけで昇給するシステムがあると、新しく転職してくる人間は、その職場における同年令の人間と同じ給料をもらうだけの理由がある人間だけに限られてしまう。
抑圧とは感情を意識外に追い出して押し込めることで誰でもやってるごく自然な行為であり「自我を守るため」という文言で正当化されうるものだが、
その延長なのかどうなのか知らないけど無意識の存在すら抑圧する風潮があるよね。これは百害あって一利なしだから正直やめてほしいんだ。
なるほど無意識の話は何とでも言えるからオカルトや怪しい商法と結びつきやすい。だから無意識の話を持ち出した途端に地獄の業火のごとく怒り狂うのも分からないでもない。
人間簡単にレッテルを貼ってしまうからね。ところで業火と劫火と号火の違い分かる?だけど無意識はれっきとして存在するものであって、君達も意識しなくても自転車に乗れたり心臓が動いたりする。
心臓や自転車のような物理的なものでもそうなんだから、「無意識の思考・感情・イメージ・認識」といった心理的なものだって当然存在するのは分かるよね。
いや当たり前のことだと思うんだけどここから確認しないと存在を認めたくないがあまりに理解すら出来ない人がいるらしいんだ。
例えば、意識的論理的な思考に凝り固まっている人を一蹴するのには「人の顔を見ればその人だと分かるのは何故?」と問うことだ。
昔「人の思考は全て論理的である、一見非論理的に見えても深い理由があってその人なりの論理で考えてるだけなんだ」と主張する人がいた。
そこで僕はこうつけ加えた。「なるほど機械論だね。論理的と言っても意識的論理だけじゃなく無意識的論理も認める立場なわけだ」と。
しかし意識的論理の立場では人の顔の識別が一瞬で行えることをどう説明するんだろう?甚だ困難に思える。
かつての同僚はこう言った。「パターン覚えてるだけっしょ。顔データから検索するだけだから一瞬」と。しかし残念ながら人の顔は角度や表情や体調や老化や化粧で結構変わる。
そんな表記のゆれに即応するにはパターン覚えると言っても単純に顔画像を蓄えてそれと一致しているか否かを見るだけでは不十分である。
顔認知メカニズムの研究はそんな知らないけど聞いた話では人間が写真だけから誰であるか認識すると実生活を模した環境での顔認知よりも正当率がはっきり下がる。
だから精密な判定には文脈からの補完も関与してるという考えが主流になってて写真だけから画像処理で判定するのはある程度以上の正答率になると厳しいのではという意見も出ているらしい。
そういう話を聞いてるとやはり意識だけでそんな複雑な処理が行われてるとは到底思えないよね。カフェにいたから誰々だと思ったなんてほんとにいちいち「意識」してるのか?
ところでこの手の意識の話でよく人々が陥るのが意識と無意識は明確に区別できるとすぐ考えてしまうことだ。よくよく考えてみるとそうではなく「言われてみれば意識してた」ものや「うっすら意識してた」ものや「意識してた気がする」ものがあるだろう。
意識してたかどうかを他者はもちろん本人も明確に知る術は無い。だから「Xに対する意識の意識がないからってXに対する意識がないとは断定できない!」「俺は意識の意識が得意だから実はすべて意識してるんだ!」なんて強弁するのは容易く
それを他者がキッチリ否定するのは極めて困難なんだよね。極端な話「心臓すら自覚がないだけで実は本人が意識して動かしてるんだ。ヨガの達人が心臓を意識して止められる話はあれはもともと心臓も意識で動かすものだからだ」なんて言えるわけ。
こうなってくると意識という言葉がゲシュタルト崩壊してくる。実は意識しててもそれを意識してなければ意識してないと盲信する余地が至るところに存在するし、反対に実は意識してなくてもそれを意識してると主張すれば意識してると強弁する余地が大いにある。
こういうのを数学ではill-definedと言う。定義になってない、定義として不適切ということだ。だから生理学的レベルで厳密な(well-defined)定義ができるようになる時代が待ち遠しいのである。出来たとすればの話だが。
しかしこうも言える。Xに対する意識の意識があればXに対する意識があるのだと。錯覚かもしれないし本人にしか分からないが多分あるのだろうと主観的には明らかになる。
だからたとえ生理学的定義が無理でも人々が意識の意識をより正確にできるようになれば無駄に無意識をブッ叩くことも激減することであろう。悪意でねじまげて主張する人は別としてな。
我々としてはメタ意識の支援ツールやメタ意識を促すカウンセリング的会話術を開発していけば随分と世の中の混乱が解消されるのではないかと思うのである。
死に対死に帯氏に鯛師に隊紙に退ひにちあひさしあしにたいしにちい
うんだから平日仕事じゃない人は近くに住むなよ住んでから平日じゃなかったーうるせー!とかバカ丸出しだろ土日も同じこと開園日くらい調べとけよ借りるのが前提だという話の時に買う人もいる!じゃねーんだよバカかよ
・職場で深夜まで残り、1人になった時に、その人のゴミ箱の噛んだあとのガムを拾ってかむ。ごっくん。
・椅子にかけてあるパーカーとクッションをおもいっきりクンカクンカ。
バレればよかったのに。。。
だからこそあちこちでトラブル起きて裁判までやってるのに、そこを否定しちゃう人がブコメでもちらほらいて驚く。
東京都が規制対象から保育所を外すことを検討してるのも、計測したらアウトだからこそ外そうって動きになってるのよ。
うるさくないならそんなことする必要ないの。
http://b.hatena.ne.jp/entry.touch/www.gizmodo.jp/2014/09/iphone_6_plus_6.html
「こんな実験では信用できない、俺はiPhoneが曲がった写真をネットでたくさん見た、曲がるはずだ、というかAppleが気に食わないので曲がって欲しい、実際なんてどうでもいいから曲がれ」という意図しか感じないブコメ群。
同好の士と巡り会えるってよく言われてたけど
掲示板に濃いやつが集まってた古い個人サイトみたいのはどんどんなくなっていってるし
実際コミュニティ探してみてもどこにもなかったり
日本人でマイナーな趣味についてある程度以上のディープな話し合いができる機会は
捜索範囲を海外まで広げてみるとそれでもまだ同好の士と呼べる人々はたくさんいるんだけど
言語の壁もあるし実際何らかの活動を一緒にするとなると時差や距離の壁が立ちふさがってなかなか簡単にやるというわけにはいかない
最近ネットで繋がったある趣味に関する日本で最後のコミュニティの消滅を看取ったので
こんなことを書いてみた
無能が居座るよりマシだと思われてんだろ