2014年09月28日

スコットランド「独立」論、その後……

金曜日、「まだ1週間しか経っていないなんて」と英語圏の誰かがツイートしていた。「ずいぶん昔のことに思える」

投票日前の2週間でいきなり世界的な大ニュースとなり、政治の中枢がパニクり、大手メディアもパニクったあのレファレンダムが行なわれたのは、先週の木曜日。結果が出たのは先週の金曜日の、日本時間では午後早い時間帯。
http://nofrills.seesaa.net/article/405647229.html

それから、いろんなことが起こりすぎているという感覚もないのに、遠い昔のことのように感じられるというのは私も同じだ。

投票結果が出た日とその翌日(先週の金曜・土曜)は、まだ、「英国は、これからどうなるのか」という話が英国のみならず世界各地のメディアで記事になっていた。特に英国内では、「自治拡大」という方向性に進むことは間違いないということで、ウェールズ(ここまでずーっと黙ってたよねw)まで発言をし始めていたし、北アイルランドはナショナリストの側で「ボーダー・ポール」の実施についておおっぴらに取りざたされた。欧州では、スコットランドのレファレンダムの結果が出てすぐにカタルーニャの議会が住民投票についての法案を可決、その後、今日(27日)には住民投票実施の宣言が出された(スペインの中央政府は反対している)。





だが、みっともなくパニクりまくった英国の中枢からのニュースはうそのように収まって、報道機関のトップページや新聞一面はすっかり何もなかったかのようになっている。唯一大きなニュースになったのは、キャメロン首相が「結果が判明したときの女王の反応」について非常に失礼な表現を使い、その発言を後悔していると述べた、とかいったことで、ロンドンに本拠のある大手メディアはスコットランドについてまたもや「当事者不在」の態度に戻った。

が、投票結果が出てからここまで、本当に何もなかったわけではない。

まず、このレファレンダムが行なわれるに至った経緯や、突然世界的ニュースになった流れについては:
スコットランドの「独立」、Yes or No? 投票直前で盛り上がってきました!
http://matome.naver.jp/odai/2141006655528101401

作成: 2014年9月7日

投票日の新聞一面、投票の様子や結果は:
スコットランドは「独立」するのか、「連合」に残るのか? ついに運命の投票日(2014年9月18日)
http://matome.naver.jp/odai/2141103213080105301

作成: 2014年9月18日

および、ブログでは:

2014年09月11日 スコットランドの「独立」をめぐる「論争」と、「北アイルランド紛争」は、何がどう違うか。
http://nofrills.seesaa.net/article/405263917.html


2014年09月16日 「北アイルランド紛争の反省から、北アイルランド、スコットランド、ウェールズ各地方の未来は住民の意思に委ねることにした」のではないはずですが。
http://nofrills.seesaa.net/article/405529741.html


2014年09月19日 スコットランドの「独立」可否を問うレファレンダムの投票が進むなか、Twitterを見てやさぐれる。
http://nofrills.seesaa.net/article/405647229.html


2014年09月19日 スコットランド「独立」可否のレファレンダム(国民投票)、結果が出る。
http://nofrills.seesaa.net/article/405678914.html


投票直前になって、「YesがNoを僅差で上回る」という(数多くある)世論調査結果(のひとつ)が出なかったら、盛り上がることもなく、2010年の総選挙で約束され2011年5月に行なわれた選挙制度改革についてのレファレンダムまでは低調でなくとも、「あー、そういえばそういうのやってたね」程度で終わっていたかもしれない。

個人的に今回びっくりしたのは、日本人の間には「独立」を何か「とんでもなく悪いこと、恐ろしいこと」のようにとらえている人が少なくないらしいということで(国際情勢慣れしてれば「独立」は珍しくも何ともないはずなんですが……コソヴォとか)、そういう人たちの、何と言うか「アレルギー反応」としか呼びようのないものには唖然とするしかなかったのだが、そもそも今回の「スコットランド独立可否のレファレンダム」などという話は、そういう人たちに届くようなニュースではなかったはずなのだ。

英国系の間では、SNPが議会第一党になったと聞けばニラニラし出すのがデフォだと思うが、そもそも「SNPってなあに」の知識量の人たちまで今回は騒いでいたしいろいろ考えもしたようで、スコットランドぱねぇ、と改めて感嘆している。

さて、ここからが本題。

結果が出たあと、都市としては「Yes(独立賛成)」の結論を出したグラスゴーで、ひと悶着あった。全体の投票で勝利した「No」陣営の側のフリンジ、「ロイヤリスト」と呼ばれる過激派が、北アイルランドでやるのと同じように、「勝ち誇り」の集会を開いて、「負けた側」をあざ笑った。グラスゴーでは、北アイルランドのセクタリアンな「カトリック対プロテスタント」という対立の構図がそのまま、「セルティック対レンジャーズ」というサッカーのフーリガニズムになっている(むろん、両クラブのサポーターの、本当にごくごく一部でのことだが)。サッカーで荒れるのはよくあることだというし、何より、警察がパニクらず、keep calm and carry on して事態をコントロールしていた。

それについて、現地からの報告を中心にまとめたのが下記だ。

スコットランド、「独立」可否の投票結果が出てから、勝った側がかなり暴れた。(グラスゴー)
http://matome.naver.jp/odai/2141119884460930601


投票前は、「Yes」陣営のアナーキストがことさらに怖がられたりもしていたようだが、本当に暴れだしたらやばいのは「No」陣営にいる。結果が出た後のグラスゴーのジョージ・スクエアで暴れた連中は、「アルスター・ヴァンガード」にあこがれちゃってるような過激派で、北アイルランドではかなりがっつり武装している(UVFであるが、UVFは停戦状態にあるとは認められていない)。また、上記の「NAVERまとめ」のページにも入れてあるが、投票前の最後の土曜日には北アイルランドのオレンジ・オーダーが、エディンバラでパレードを行なっている(これが、前代未聞、どこにこんなにオレンジ・オーダーがいるんだよという人数を集めた……1万5千人だって)。

一方で、今回の投票実施までスコットランドのナショナリズムを引っ張ってきたSNPのカリスマ党首、アレックス・サモンドは、次の党大会(11月)で党首を引退する(立候補しない)ことをアナウンスし、投票前にウエストミンスターが約束したスコットランドの自治の拡大(Devolution Max, 略してDevo Max)は、案の定、うやむやにされそうな雲行き(英国にはよくある「○枚舌」ですね)。

他方、結果が出た直後に、Twitterのアバターをキャンペーン期間中の「Yes」から、Yes票を投じた人々の割合である「45」(45パーセント)に付け替えたような人々の間では、「SNPに入党する」ことがなかばブーム。





Peter Murrell, Chief Exec of the SNP is tweeting their membership figure every few hours. It's still rising fast, but as I write, it's 62,870, making them easily the third biggest party in the UK. To put that figure in context, that's 1.5% of the Scottish electorate – a higher density than every political party in England combined. It's 1,065 members per Westminster constituency, on average.

https://www.opendemocracy.net/ourkingdom/adam-ramsay/quick-note-on-party-memberships-in-uk#.VCVxRfzccIM.twitter


o_O







おまけ。GAAのオール・アイルランド選手権決勝(サプライズで勝ち上がったドニゴール対……どこだっけ)での一幕。エンダ・ケニー首相(アイルランド共和国)とマーティン・マクギネス。



(;▽;)
posted by nofrills at 01:00 | TrackBack(0) | todays news from uk
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記事を読んでくださってありがとうございます。
個別のご挨拶は控えさせていただいておりますが、
おひとりおひとりに感謝申し上げます。


【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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EXPOSING WAR CRIMES IS NOT A CRIME!


詳細はてなダイアリでも少し。