常勤巫女の仕事には基本、休日も昼休みもない。
私が巫女をしてることを知らない織牙は、気を遣って日曜を指定してくれたんだろうけど、結局織牙の家へ行けるのは夜になってしまうことに。
しかも! 私のせいで参拝客の数が桁違いになってしまった上に、必然的にその人たちは私目当てだから、この日曜を迎える頃にはもう、私に向かって行列ができることもしばしば。
たこ焼き屋さんの屋台みたいだったお渡し所も、もう立派な祠に代わっていて、神社本体よりも注目される結果になっている。
今朝、そのことを織牙に連絡すると、
〔わかったわ。忙しいのね。──自首して、もし罪を償えたら、わたしも神社、行っていいかしら?〕
そんなふうに優しく理解してくれた。
*
いつもの変装を施して玄関に向かうと、れんかがエプロンで手を拭きながら心配そうに駆けてきた。
「橙花、立穴織牙には、気をつけなさいよ……?」
ふと、この胸の奥が甘く痛ましく疼いた。
お母さんっていうのは、ほんとは、こんな感じなのかなって。
そして、それを織牙はれんかから奪い去ったんだって……。
「れ、れんか……、ごめんね。貴女にとっては母の仇なのに。制服着て同窓会だなんて」
「もういいの。わたし思うのよ──母があんな結末を迎えたのは、娘を信じなかった罰なんだって。そして、わたしが母をあんなふうに失くしたのは、母と信頼関係を築いてこなかった罰なんだって。あれは、マヌケな母娘の哀れな顛末なの」
遠い目で胸中を語ったれんか。
彼女はそういうふうに考えることで、自分の心を守ってるんだと思う。
それでも私は納得できなかった。
「でも、織牙があんなことしなければ、貴女たちは母と娘の絆を築いていけたかもしれない……」
「そうよ。だからわたしはあの女を許さない。でも、憎しみに囚われていたら、橙花を愛せなくなってしまう……。憎しみを燃やせば燃やすほど、心の奥底にある愛の泉は干上がってしまうの。だから、あの女のことは考えないようにしてるのよ」
れんかがこんなに良識的になれたのは、──自分で思うのも可笑しいけど──私がいるから。
織牙はきっと、私に裏切られたことで、愛したい対象を見失ってしまったんだと思う。だから思い残すことなく、憎しみを燃やすことに人生を捧げてしまった……。
かといって、私に織牙を救うことはできないし……どうすればいいの?
「れんか、私だって織牙のしたことは、たぶん一生許せない。でも、そのせいで彼女と過ごした六年が消えちゃうわけじゃないっていうか……」
「それはわかるわ。……ケリをつけに、行くのでしょう?」
「うん……」
「わたしが言いたいのは──気をつけて。それだけよ」
「わかった……じゃあ」
*
玄関以外の明かりが消えた立穴家は、どこか不気味な威圧感を放って佇んでたけど、
「いらっしゃい」
すでに制服に着替えて、ミニのプリーツスカートからのぞく綺麗な太ももを輝かせる彼女は、中学時代の織牙そのもので……私を出迎えてくれる笑顔も、憎しみに囚われてしまう前の彼女の風情を感じさせてくれた。
「織牙、私、こういうふうに変装しなきゃ旧市街を歩けないから……、中で着替えるね」
「ええ……」
「家の人は?」
「この家を橙花と私の貸切にして、大事な話がしたいからって言ったら、喜んで夕食へ出かけてくれたわ」
「そっか」
「じゃあ、わたし自分の部屋で待ってるから、洗面所で着替えて、部屋に来て」
「わかった」
*
広い広い洗面所──
中学の制服は、卒業式の飾りを胸元につけたまま、あの頃の時間をこの今へと運んできた。
ブラウスのボタンを一つ、また一つ、はめるたびに、指先から中学時代の残像が伝わってきて……
一番上のボタンを閉めると、織牙との出会いが胸に甦る。私も織牙も、ほとんどの生徒が外していた一番上のボタンをしっかり閉めていて、それのせいで親近感を覚えたのが友情の発端だったから。
襟元の赤いリボンを結んで、チェックのプリーツスカートを履いたあと、硬いブレザーを着る……三年ぶりなのに、日常のこととして当たり前にその手順を踏んでいる自分が面白かった。
けど……、五月を迎えたこの生暖かい夜に、この厚着はキビシイ。
一緒に持ってきた夏服か中間服にしようかとも思ったけど、織牙は冬服だし。
あ! 髪! 慌てて私は三つ編みを解く。
そして。ルルがいないけど、私は苦心して〈後頭部のほうの三つ編み飾り〉を編んだ。
*
広くて古風な織牙の部屋。
壁や照明が濃いめのベージュで、飴色や茶色を基調にした家具が並ぶ部屋は、昭和のお嬢さまの部屋っていう印象で、前に遊びに来たときとなんにも変わっていなかった。
それにしても……、下半身だけが異様に寒い。このスカート、下着がギリギリ隠れる程度なものだから。
上半身は重ね着して汗ばむくらいなのに、下半身はほぼなにも着てないに等しいし。バイトのウェイトレス服は上半身も寒いから違和感なかったけどね。
着る作業はハッキリ覚えていても、こういうマイナス面は意外と覚えていないもの。
もしかしたら、高校のセーラー服のスカートが長いせいで、それに慣れちゃってたっていうのもあるかもしれないけど。
「織牙っ……後ろの三つ編み飾りのせいで時間かかっちゃって、ごめん」

すかすかする下半身を、織牙とはいえ、人に見られてしまう恥ずかしさから、私は胸の前でぐっと右手を握りしめるの。
そんな私を微笑ましく見つめてくれる織牙の顔が、ふっと、緊張と羞恥心を解いてくれた。
「橙花、……なにも変わらないわね、あの頃と」
部屋の真ん中に置かれた、感じのいい木のテーブルと椅子。そこに腰かけた織牙が、優しく目を細めて語りかけてくれる。
「織牙だって……」
織牙の対面に座ると、心に戻ってくるのは、自分がこんな苦労人になることなんて想像もつかなかった、あの中学の日々。
彼女が自首してしまったら、もうこんな機会は当分ないわけで……
織牙と私が同じ制服を着て一緒にいる瞬間を、なんらかの形で残したいって、そんなことを思う私。
そんなこっちの心を覗くみたいに、織牙が穏やかな笑顔で提案してきた。
「ねえ橙花、今日のこと、残しておきたいの。自首したら……もう次にいつこんなことできるかわからないし、いつか機会ができたとしたって、制服が似合わない年になっちゃってるかもしれないから」
「ウソ……私もおんなじこと、考えてた」
織牙に軽く微笑みかけると、彼女もニッコリと笑い返してくれる。
それは、あの頃となんにも変わらない、私と織牙、二人だけが醸し出せる空気感。
「ふふふ。もうさっそく撮っちゃってたり。ほら、あそこと、あそことあそこと、あれもそう」
良喜君や私とのツーショット写真が並ぶ、低い棚の上のゾーン。そこに、小さなカメラがこっちを向いて乗っていた。
他にも、天井とか本棚に、いくつか仕掛けてある。
「段取りがいいね。……でもちょっとやりすぎじゃない?」
苦笑いする私を、織牙は胸を張った気高い笑顔で見つめ返してきた。
「わたしを誰だと思ってるのよ。徹底主義者の織牙女王様よ。録画の失敗なんてよくあるし、部屋のどこにいても映りがいいように、ね。──さて、と、そろそろケーキが焼ける頃だわ。取ってくるわね」
明るい笑顔で手を振りながら、部屋を出て行く織牙。
それにしても……、こうやって座ってると、お尻がじかに冷たい木の椅子に触れて、なんだか変な感じ。
中学の頃も、最初のうちはこんな感じを味わってたわけだけど、毎日のことだから無意識のうちに慣れちゃってたのね。
上半身が暑くて、下半身が寒い。
ちぐはぐな感覚に体をむずむず動かしてた、そのときだった──
ぎぃぃと開くドア。
織牙かと思って微笑みかけたけど──、ドアの向こうにいた人物を見たとき、私の笑みは一瞬で消え失せてしまう。
それは、ウェイトレスのバイトをしていたとき、私を変な目で見てきた山田っていうおじさんだった。
「どうして……どうしてここにいるの!?」
そう。この人は、まさにこの立穴家に脅迫されて、それで姿を消したはずなのに。どうしてここに……!?
おじさんは部屋に入ってきながら、厭らしくにやけて気持ちを吐露しだした。
「橙花ちゃん、会いたかったよ……! 織牙ちゃんから聞かされたよ──キミ、俺のことが好きで好きで仕方なかったんだね。でも、妹を抱えて貧しい身だから、俺の気持ちを受け入れる勇気がなかった。でも妹を別の人に引き取ってもらえた今なら、やっと俺と付き合えるって喜んでるって」
────!?
織牙が、この人に嘘を言って聞かせていたの!?
事情を把握できないで戸惑っている間にも、おじさんは一歩、また一歩と近寄ってくる。
「やめて来ないで!」
席を立って壁まで逃げると、おじさんは私の太ももを見てギラッと目を光らせた。
あの日、この人に太ももを触られて店を飛び出したときの記憶が、はっきりと甦ってくる。
「うははははは、男に慣れてないんだね。でもそれにしちゃあ、色っぽい表情してるじゃないか? びっしょり汗かいちゃって。さっきだって、物ほしそうに体をムズムズ動かしてたじゃないか」
とうとう壁まで私を追いつめると、おじさんはまた私の太ももを撫でてきた。
それも今度は指じゃなくって手のひらで!
「いや……いやっ! やめて!」
あまりの下劣な嫌悪感に、必死でここから逃げ出そうとするけれど、簡単に足払いをかけられて絨毯に押し倒されてしまう。
「はぁ……はぁ……嬉しいんだろう? 俺と恋人同士になれることになって、幸せで仕方ないんだよな? でも初めてこんなに男と接近したから戸惑っちゃってるんだよね? それもまた可愛いよ」
私に覆いかぶさって、相変わらず太ももを愛撫してくるおじさん。
「違うッ! 違う違う違う離してぇーっ!」
私がとうとう泣き叫ぶと、おじさんはこの頬を何度も引っぱたいてきた。
ああ! れんかの繊細で華奢なビンタが恋しいっ……!
「うるさーーーーい! お前は俺のもんなんだぁぁぁー! わぁぁぁー!」
「いやぁぁぁーっ! 織牙! 織牙助けてぇーっ!」
私はあまりにも唐突な惨事に、ただ無駄な抵抗を続けながら泣き叫ぶしかなかった。
この心に蘇ってくるのは、木々の息吹のなかでれんかが犯してくれた、あのときのこと。
れんか……、この男より先に、私を穢してくれて、ありがとう。
「俺のものになれ橙花ぁー!」
支配するように、私に覆いかぶさってくるおじさん。
犯される。
そう直感した次の瞬間、
「やめてぇーっ!」
織牙の叫び声が聞こえたかと思うと……
──突然、ずぶ、ずぶ、ずぶと、
なんらかの濡れた塊を刺すような鈍い音。
その音が聞こえるたびに、ゴボッ、ゲボッ、ブハッ、と、彼の吐く血が私の制服に降ってくるの。
やがて、色欲に血走っていたおじさんの瞳から、生気が消え失せた。
「な、なに……?」
得体のしれない恐怖と、制服にこびりつく泡の混じった鮮血への嫌悪。
頭のなかが真っ白になる私の上に、おじさんがどっさり倒れてきた。
──死んでる。
そう直感する私。
体の上で白目を剥いて硬直する彼の体は、父や聡子さんのときと同じに、完全に時間が止まっているように見えたから。
なにが起きたの!?
とにかく、ただこの恐ろしくも厭らしい温もりから脱したい一心で、
「あぁーっ!」
叫びながらおじさんの体を払い除けると……
そこには、両手で包丁を握り締めて立ち尽くす、制服を血に染めた織牙の姿が。
織牙、私を助けてくれたの……?
「織牙……!」
すがるように織牙を見上げる私。
突然真顔に戻った織牙はナイフを投げ捨てると、すっと胸ポケットから取り出したリモコンを押す。
「はい。録画終了。ここまでのことを記録として残せばいいわね。ここから先はオフレコよ、橙花」
そのやけに滔々とした口調に、
「な、なに……っ?」
私が背筋を真っ青に凍りつかせだすと、織牙は化けの皮を剥がすようにゲラゲラと笑いだした。
「ふふふふふ……きゃはははははっ! 良喜の件だけじゃ甘っちょろいと思ってねぇ! 私はあんたを助けるために自らの手を血に染めた英雄になる! そしてあんたには、ふふふふふっ、町長の娘を殺人者にした死神として有名になってもらう! はははっ、傑作ねぇ!」
狂った昂奮と野蛮な混乱のなか、もうすべての精神力を振り絞って、私は状況を整理しだす。
「お、織牙……騙し……た、のね……!?」
織牙は何食わぬ顔でナイフを放り投げると、軽薄な口調で事実を語ってきた。
「うん、まあ、その男は橙花の太ももに執着してたから。できれば短いスカートを着て来てほしかったけど、そんなこと頼んだら怪しまれるでしょ? だからもっともらしい理由をつけて、中学の制服で来てもらったわけ。……でもあっさり騙されちゃって! ほんとカワイイんだから橙花ったら」
織牙の狂気を見て、私が思ったことはたった一つ……
自分を、守らないと!
れんかのために。
ルルのために。
手探りでハリボテの理性を寄せ集めて、私は途切れ途切れに反論する。
「そ、その男が私に襲いかかっ……てきたのはび、ビデオにもっ、残ってるっもの……。わ、私だって被害者だって……証拠……あるんだから……」
織牙は手に付いた血をベタベタと制服で拭いながら、吐き捨てるような軽い口調で返してきた。
「ああ、
そういう心配はいらないから安心してよ。あんたがその男のことを誘惑してたって、そういうことになってるから。彼自身にも色んな場所でそう証言させたし」
全身が麻痺するくらいの絶望!
「ちょっ、ちょっと!」
「ネット社会ってね、レイプ事件が起こると、犯人を叩くっていうより、被害者のほうにも責任があるんじゃないかっていう論議に流れがちなの。あんたの味方をしてくれる層は出てこないでしょうね。残念でした」
「…………」
ネット界のそういう流れを知らないでもないから、なにも言い返せなかった。
織牙はといえば、自分が殺した男の人生に思いを馳せるように、彼のそばにしゃがんで静かに見下ろす。
「彼、町一番の働き者ってことで、旧市街の人気者なのよ。仕事のノウハウを書いたブログも大うけしてるし。この町にしても、ネットにしても、橙花がこの人を誘惑してたっていう
偽の事実を疑う人は出てこないでしょうね」
「なっ、なんて、ことっ」
陸に出された魚みたいに口をパクパクさせるしかない私へ向かって、立ち上がった織牙は威圧するように人差し指を向けてくる。
「要するに橙花、あんたは、ははははははっ、良心的なお客を誘惑して、勝手に心を惹いておいて、襲われたら襲われたで親友に助けを求めてその親友を殺人者にした最悪のバカ女ってことよ! あんたが彼をここへ呼び出したって証拠も捏造してあるわ」
「ウソつき……織牙のウソつきぃぃーっ! 信じてたのに……あの手紙もらったとき、ほんとに嬉しかったのに!」
血に染まった織牙の襟に喰ってかかるけど、彼女はそれでも乾ききった態度を崩さない。
「あら、あの手紙には一つだけ事実を書いたわよ? ──自首するってことよ! わたしは、ははははっ、あんたがレイプされそうになったのを助けようとした正義の味方として、すぐ釈放されるわ!」
体を離して、私は織牙を戒めの瞳で見つめる。
「織牙……あ、貴女っ、もう元には戻れないよ? 貴女は間接的にじゃなく、直接っ、人を刺し殺した。それもっ、ただ私やれんかへの怨みのために、無関係な人を! ──もう一生、十字架を背負ったままよ! もう二度と、二度と、この世界で幸せにはなれない!」
友達
だった人間として訴えたつもりだったけど、織牙は結局、眉毛ひとつ動かさなかった。
「なに言ってるの? 社会で得られる幸せなんてたかがしれてるじゃない?」
「え……?」
そして織牙は、とてもこの世のものだなんて思えないような空恐ろしい薄笑いとともに、不気味な低い声で絶望の宣告をしてきた。
「わたしに最高の幸せをくれるのは、佐山橙花と水月れんかの不幸! それだけよ。ふふ、これからたっぷり、楽しませてちょうだいね──」