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2014-09-24
■[読書][マンガ]三輪健太郎『マンガと映画』
マンガと映画についての美学的メディア比較論であり、これまでの議論・言説を丁寧に再検討しながら、「映画的」であるとはどういうことなのかを論じ、それが「近代」を前提しにした視覚文化であることを示していく本。「映画的」っていうのが単に技法的な話ではなくて、近代の大衆文化とか時間概念とかにおける考え方のことなんだ、という話
メディアの特性とか技法とかを形式的に判断するのではなくて、それがどういう思想・システムのもとで動いているかを見て判断しないといけないよっていう話でもある。
また、サブタイトルに「コマと時間の理論」とあるように理論を書いた本であるのだが、落下のモチーフをめぐるマンガ批評(作品論)として読めなくもないところが各所に差し挟まれている本でもある。
ちなみに修士論文がもとになっているらしい。
この本は、メディア比較の方法論から説き起こして、これまでの議論の検討も含め、丁寧な解説がなされて勉強になる。また、目から鱗というか、そうかそういうふうに切り取ればよかったのかという感じで、とても面白かった。
本書の大まかな内容
序章では、日本マンガ言説史を概観しつつ、マンガを論ずる上での方法論を分類し、本書が方法論的にどのような位置にあるかを定めている。
第一部では、さらに本論の前提として、「メディウムからスタイルへ」ということが論じられる。ここも方法論として、マンガ論にとどまらない議論として読める。
マンガと映画のような比較メディア論的なことを、美学的に論ずるにあたって、グリーンバーグのようなメディウム・スペシフィシティに着目するのではなく、どのような思想やシステムのもとでどのような様式が使われているのかに着目していくべし、と。
最近、わりと見かける「ポスト・メディウム」という流れとおそらく呼応している議論なんだろうなあと思う。
第二部と第三部において、「映画的」とは何かということが本格的に論じられていく。
第二部では、大塚英志の「傷付く身体」や伊藤剛の「フレームの不確定性」といった議論が大きく読み替えられていく。「映画的」かどうかは、何らかの技法が使われているか否か、といったことで形式的に判断できるわけではない。第二部では、「仮想的なカメラ」によって読者の注意をコントロールしていくスタイルとして、映画的様式が見出されていく。
第三部では、『新宝島』の何が革新的だったのかという議論を再検討しながら、時間の表現に着目していく。第三部では、マンガと映画がどちらも同じく、近代の時間概念を前提として共有しているメディアであり、そのことを「映画的」として見出していく。
本書では、以上のように、「映画的」であること・近代の視覚表現であることとはどのようなことかということが論じられていくが、両義性(映画的と非映画的)を抱えた作品に着目した批評がところどころに差し挟まれている。
例えば、楳図かずお『目』、『トイ・ストーリー』、手塚治虫『罪と罰』、石森章太郎『サイボーグ009』である。
特に『トイ・ストーリー』と『サイボーグ009』についてのところでは、「落下」というモチーフがポイントとなっている。
序章
日本のマンガ言説について
反映論か表現論かといった対立軸が設定されることが多いか、ここではもう少し細かく分けている。
まず、反映論か否か、という区別がある。
続いて、反映論ではないものを、外在的分析と内在的分析にわける。
続いて、普遍的モデルを想定するか否かで分ける。
外在的分析は、歴史的・個別的事例を見ていくので普遍的モデルを想定していないようにも見えるが、例えば、鶴見の「限界芸術」のような普遍性の高い概念を想定することもできる(マンガは「限界芸術」の中の、ある特定の時代・文化におけるサブジャンルと見ることができる)。
一方、内在的分析は、いかにも普遍的モデルを作っているように見えるが、視線誘導のような理論においても、例外が見つけられ、システムは変化するまたは共時的に複数存在すると考えざるを得なくなる。
本書は、普遍的なモデルを想定せず、外在的分析と内在的分析が一緒になるような地点を目指す。
普遍的モデルを想定しない場合は、通時的研究と共時的研究の2つがありうる。これらは対立するものではなく、むしろ一緒にやっていくべきもの。
マンガの記号の働き方は、慣習によって生まれるものだけれど、その慣習を可能にする基礎原理があるという視点も必要。
何かと何かを比較するためには、それらがまず似ていなければならない。マンガと映画は近代の視覚を共有する
第一部 媒体(メディア)・様式(スタイル)・体系(システム)
芸術の個々のジャンルの自律については、まずレッシングが『ラオコオン』で詩と絵画が独立したジャンルであることを論じたところから始まり、グリーンバーグによる、メディウム・スペシフィシティによる議論がある。メディウムの固有の要素によって純粋になって自律するという議論
マンガは、文学でも絵画でもない領域だが、これが自律した領域と見なされるために、独自のメディウムとして「コマ」が「発見」される。例:峠あかね「コマ画のオリジナルな発見」(1968)
映画が、演劇を仮想敵としてその自律を論じてきた(映画は録画された演劇ではない)ように、マンガは映画を仮想敵として自律論が展開された(マンガは紙上の映画ではない)。
マンガと映画の差異が語られる際の紋切り型としては以下の2つがある。
(1)フレームの可変性
(2)鑑賞する速度の自由(加藤幹郎「愛の時間」)
しかし、これらは本当にマンガと映画を分ける特徴なのか。
フレームの可変性とは、映画はスクリーンの大きさが変わったりはしないけれど、マンガは紙の上に画像を併置するというメディウムの特性によって、コマというフレームが変わるということ
鑑賞する速度については、映画は上映時間が決まっていて鑑賞者が変えたりできないけれど、マンガはゆっくり読むか速く読むかは鑑賞者に委ねられていて、そこに読者の自主性・能動性が生まれるということ
どちらも、メディウムの特徴について述べている。また、これらの概念自体に必ずしも価値判断はついていないけれど、「自主性・能動性が生まれるから、映画より優れている」というような価値判断と結びつきやすい。しかし、そうだとすると、マンガであるなら直ちに映画より優れている、ということになるけど本当にそうか。
鑑賞者に能動性があることを持ち上げる言説は、実は映画の方にもある。だから能動性は、読む時間だけから生まれるわけではない。
また、マンガでは視線誘導という、それこそメディウムの特徴を生かした技術によって、作者がある程度まで読者をコントローすることもでき、読む時間から能動性が生まれるとも限らない。
メディウムの特性と、美的評価や達成については別に考えなければならない。
メディウムの特性は、作品のあり方を方向付けるけど決定するわけではない。どういうスタイル*2を用いられるかによって、芸術的な達成がえられる。
また、フレームの可変性について、フレームが変化するかどうかという形式的な基準で、映画的かマンガ的かを判断することはできないとして、フレームの変化が映画の技法を通して説明される例や、フレームの大きさが変わらないことマンガ的と見なされる例が紹介される。
では、スタイルとは一体何なのか。
ボードウェルによれば「様式とは、そのメディウムに属する技法を、体系的かつ有意義に用いること」である。
体系とはシステムのこと。
同一化技法論争を見ていくことで、何らかの「技法」が使われているかどうかという形式的な基準だけで、映画的かどうかは判断できない、ということを論じる。
宮本大人や伊藤剛は、竹内オサムがいうような同一化技法は戦前から使われていたことを示してきた。あるいは、泉信行は、同一化技法に複数の技法があることを示してきた。
しかし、技法があるかないかの形式的基準だけで見ても、「映画的」かどうかは判断できない。
技法と効果を区別した上で、作品全体の中でどのような効果があるものとして使われているか
POVショットという技法は、戦前のマンガや物語映画以前の「鍵穴映画」などにも見られる。しかしそれだけで、この技法が映画的というわけではない。「映画的様式」の中で使われることで「映画的手法」と捉えられる。
様式は、技法を体系的に使うこと。そしてその体系が、通時的に見て変化するし、共時的に複数存在することで、進歩史観を排除できる。例えば『のらくろ』の平板で固定的な構図を、現代からみて劣位なのではなく、例えば田河水泡が大正アヴァンギャルドであることに注目して、異なる思想に基づく異なる様式を採用した作品として解釈する。
楳図かずお『目』について
POVショットを視点の同一化として使う映画的様式を駆使したミスリーディングなトリックを用いた作品であるが、ラストシーンで恐怖の表情を浮かべる主人公の女性が何を見てしまったのかを描かないことで、映画的様式の臨界点を示す作品でもある。
第二部
いよいよ、「映画的様式」とは何かということを見ていくことになる。
結論から先に述べてしまうと、「仮想的なカメラ」「読者の注意のコントロール」「一義的な意味伝達」といった特徴をもつスタイルである。
マンガが、ただの「インクのしみ」であることを隠蔽して、まるで現実の空間を「仮想的なカメラ」で切り取っているかのように描くことであり、また、マンガと映画はともに大衆芸術として、物語を効率的に伝えるという方向で技術を洗練させていったのであり、その点で、具体的な手段は違えど、目的は同じであり、その目的を共有していることを「映画的様式」と呼んでいる。
写真・映画が写実的表現の極であり、マンガが記号的表現の極であるとしたら、そもそも全く別物であるはずなのに、マンガが映画的であるとするとしたらそれはどのようにしてか。
まずは、大塚英志と伊藤剛の、キャラクターのリアリズムを巡る議論が参照される。
大塚のいう「傷付く身体」や伊藤のいう「フレームの不確定性」の議論から、それらの前提として、現実的な空間を再現することが必要ではないかと論じる。
「フレームの不確定性」は、コマや紙面の問題ではなく、「インクのしみ」と「仮想的なカメラ」の対立の問題として捉え直す。
そして、「傷付く身体」には「落下する身体」(重力を再現すること)が必要になるとする。
ここの議論においては、初期のディズニー映画とピクサー作品(『トイ・ストーリー』など)との比較が重要な補助線として働いている。
『トイ・ストーリー』のバズ・ライトイヤーが「飛んでるんじゃない。落ちてるだけだ、カッコつけてな」と言うことに、「落下する身体」という記号表現と写実表現の葛藤の自覚を見る
次に、線画と写真というメディウムの特徴に注目する
(大島渚が白土三平のマンガの絵をそのまま映した実験的映画『忍者武芸帖』について触れながら)
線画について
大塚が手塚を引き合いにだす「マンガ記号説」やテプフェール「観相学試論」やグルンステンから、「一度に一つのことしか表現できない」という特徴を見る
写真について
ロラン・バルトのいうプンクトゥムとか第三の意味とかいったような、豊富な細部がもつ余剰・追加分に特徴をみる
しかし、この線画と写真の対比が、直ちにマンガと映画の対比になるわけではない
初期映画において観客は、背景で揺れる木の葉の方に驚いた。「自主性」が描かれていると思った。しかし、初期映画から物語映画が主流になるにつれて、そのような不確定な要素は隠蔽されるようになる。「編集」によって、観客の注意を特定のモチーフに集中させる。
マンガ以前の絵物語は、一枚の絵のなかに隅々まで描き込まれていて、あちこちに視線を向けて楽しむことができる。
手塚『ぼくの孫悟空』と杉浦『少年西遊記』を比較する。どちらも同じシーンについて同じように描いているのだが、杉浦版に比べて手塚版は、明らかに読者の視線が悟空へと向くように画面が構成されている。
映画やマンガが物語を効率的に伝えるための方向性に向かったのをある種のイデオロギーと捉え、非「映画的様式」の作品も思い起こそう、「第三の意味」は線画にもあるということも述べている。夏目の表現論が、描線に着目し、六〇年代までの手塚の線に「なにか」を感じ取っていたことは大事。
フレームの不確定性と視線誘導について
フレームの不確定性が抑圧されているのが映画的
フレームの不確定性が抑圧されいていなくて、少女マンガのように重層的・多層的なコマ構成になっているのが、非映画的
と言われてるけど、本当にそうなのか。
ここで、手塚治虫「魔法屋敷」や『エンゼルの丘』における見開きを見る。これらは、コマと紙面とフレームが一致していて、フレームの不確定性はない。しかし、「魔法屋敷」の見開き(「漫景」)は、視線をあちことへと向かわせるようにできている。『エンゼルの丘』は視線を一方へと向かわせるように構成されているが、実は視線をあちこちに向かわせて遊ぶこともできるようにできている。
一方、『めぞん一刻』におけるとあるページについて、フレームの不確定性があらわれた多層的なコマ構成になっているが、仮想的なカメラを想定して読み解くことができる。
フレームの不確定性があらわれているかどうか、ではなく、仮想的なカメラ(特定の時点・視点からの眺め)があるかどうかで、映画的かどうかを判断する
メディウムに着目すると
あらゆるマンガは、紙の上に並置されているという点で、非映画的
様式に着目すると
映画的なマンガと非映画的なマンガがある
メディウムの特性を利用した手法を使っているから素晴らしい作品、というのは倒錯
映画にもまた、映画的な映画と非映画的な映画がある
特に『罪と罰』は、ずっと映画的様式で描かれながら、ラストのラスコーリニコフが地面に接吻するシーンが、「漫景」として描かれる。
夏目はここに心理的落差を読み取るが、それは映画的な様式と漫景とのあいだの様式の落差から生じているのだと論じている。
第三部
第二部では、映画的様式を、仮想的なカメラの存在と物語を効率的に伝えるという考え方に見て取っていたが、第三部では、時間を捉えるあり方から見ていく。
『新宝島』の革新性について
スピード感を描いたとされるが、それはどういうことかといえば、1つの運動を複数のコマを用いて描いたことだった、と。
『新宝島』には、オリジナル版だけでなく、加筆された全集版がある。竹内一郎や野口文雄は、全集版はより映画的だと評するが、大塚はこの2つは異質だという。
何が異質なのか。
オリジナル版でのコマは映画でいうところの「ショット」なのに対して、全集版ではコマが増えて、映画のフィルムのコマに近付いていっている。
どちらがより映画的かはここでは問わない。ここで注目すべきは、2つの『新宝島』は2つの映画的手法であり、マンガのコアは、映画における「ショット」にも「コマ」にもなってしまうということ。
では「コマ」とは何なのか、と問うために、「時間」について考える
ドゥルーズとベルグソンが論じていた、古代における「特権的瞬間」と近代における「任意の瞬間」という区別
マンガの運動の表現にそれぞれ見て取れるように思えるし、先ほどあげた2つの映画的手法に対応しているように思えるかもしれないが、そうではない。
オリジナル版は、上映されている映画を見てるような体験であり、任意の瞬間に分かれたフィルムを上映することで運動の錯覚を与える
全集版は、フィルムを直接見ているような体験であり、連続写真のようなものであり、運動を任意の瞬間に静止させる
どちらにしろ、特権的瞬間の永遠性を放棄する、近代的な・映画的な様式である。
四方田は、マンガとは、運動が分節されるようになった時代において特権的瞬間を描くというが、マンガは、連帯した複数の図像で運動を表現している(運動は分節されている)ので、厳密には「特権的瞬間」ではないのではないか。
コマの中に台詞があることから、コマというのは厳密には「瞬間」ではなく「幅」のあるものだが、これも「幅」があるということは、量的な広がりから切り取られてきたということで、やはり近代的な認識(特権的瞬間は無時間的)
映画的様式とは、「運動を分節して捉えるという近代的認識のあり方に基づき、それによって、図像に込められた「時間」のあり方をも、古代的な永遠性、無時間性への志向から遠ざけ、具体的な幅を持ったものとして表象するスタイル」なのである。
このような認識の変化がどこで起きたのか、日本と西洋についてそれぞれ
まず、日本。宮本大人が、漫画以前の表現(明治11年に描かれた図)と漫画(明治32年に描かれた図)とを比較している。ここでは、文字の量の劇的な減少に注目されている。絵によって描かれた情景の時間と文字によってもたらされる時間とが一致することで、瞬間の積み重ねとして時間が捉えられている。
次に西洋。佐々木果が、ホガースとテプフェールとを比較している。描き込まれている情報量が減少することで、一コマ一コマをじっくり見ることがなくなる。
宮本と佐々木はどちらも「鑑賞時間」について言及しているが、一方で、作品の「内在的時間」については、宮本だけが言及している。
宮本と、宮本が依拠する千野香織は、「瞬間」と「単一固定視点」が結びついていることを論じている。
『新宝島』と『トーマの心臓』について、前者は「映画的」、後者は「非映画的」と見なされるが、「時間」把握の点ではそれほど大きな差異はない
むしろ、「漫景」との方が差異は大きい
「漫景」は「コマ」ではない、という。
映画的様式の前提となる時間把握をそもそも共有していないからだ。
最後に、近代には両義性があるとして、両義的な表現が見られる作品として『サイボーグ009』を見る。ここには、「特権的瞬間」のような表現がある。
加藤が「愛の時間」において取り上げた、島村ジョーの乗るジェット機が墜落するシーン。
加藤は、「読みの時間」を強調するが、しかし他ならぬこのページのこの図像が選ばれたのは何故なのか。それはこの図像における「内在的時間」が、他の図像と違うからである。
このページの前後のページは、まさしく「映画的様式」によって描かれている。そして、実はこのページは加筆されたもので、このページがなくても繋がるようになっている。逆に言えば、このページの図像は、他の図像との連関によって運動の分節を行っているわけではない。
また、運動を表す線も効果音も入っていないので、時間の幅をもたないのである。
これは、マンガにおいて無時間的・特権的瞬間が描かれた図像なのではないか。そうだとすれば、何を表象しているのか。ジェット機の墜落=「落下」なのか。しかし、「落下」という運動は他のページの図像によって既に描かれている。「落下」よりもむしろ「時間」そのものの表象となっているのではないか、として締められている。
感想
序章と第一部は、方法論についてとにかく勉強になった感じ。
丁寧で分かりやすく、日本のマンガ言説やポスト・メディウム論を解説してくれている感じ。無論、この本に必要な部分だけを取捨選択していて、包括的な概説にはなってないんだろうけど、でも読みやすかった。
グリーンバーグとかロザリンド・クラウスとかだけじゃなくて、ノエル・キャロルとかスタンリー・カヴェルとかいった(分析)哲学系の映画研究者への言及も多い。
第二部は、大塚英志と伊藤剛という、個人的にはわりと読み慣れている論者の議論について、見え方を大きく変えさせてくれて、「おお、こんな手があったか」と思った。キャラクターの話から始めて、うまくキャラクターの話から離れていくのがよかった。
第二部における『トイ・ストーリー』の「落下する身体」の話と、第三部における『サイボーグ009』の「特権的瞬間」の話とが、批評として楽しく読めて、それがこの本をより魅力的にしている。
Aというのがあります、それに対立するBというのがあります。ところがこの作品には、その両方が見られます、すごいねっていうのは、わりと常套手段というか、一種のテンプレートみたいなものではあるのだけど、この本ではそのA(「映画的」)というのが何であるのかを徹底的に追いかけた上でやってるから、力がある。
しかも、この「映画的」というの、たどり着くのは大変だったろうけど、結論だけ見ればとても分かりやすい。で、これを「映画的」だと言ってしまうのって、結構勇気もいるんじゃないかという気もするし。
こういう本で、「面白いな」と思う場合って、自分も似たようなこと考えてた、とか、自分のこの考えと繋がるのではないか、とか、自分もこういうのを書きたい、とかがるけど、この本は全然違って、「全然思いも寄らなかった」という「やられた」感がある。まあなんといっても、大塚・伊藤のあたりとかだけど。それでいて、アイデア自体は明快で、この本全体をちゃんと貫いてるから、分かりやすくて読みやすい。
で、筆者と自分とで年がほとんど変わらない。そういう場合、「俺と年近いのかあ……ぐぬ」とかなるけど、もうこの本の場合、完全に「面白い面白い」って読んでてテンションあがった。
という感じで、絶賛です。
- 作者: 三輪健太朗
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