道端に釦(ボタン)がひとつ落ちていた。花のかたちをしていて、中央に真珠のようなビーズが嵌っていた。七歳のわたしは「真珠のような」ではなく真珠だと思ったし、だから宝物を見つけたように興奮しながら拾って、走って家に帰って母に渡した。
母は一度ありがとうと受け取ってから「きれいだと思うならあなたが持ってなさい」と返してきた。
お母さんは全然こんなの欲しくなかったんだな、とがっかりした。こどものわたしには宝石に見えたとしても大人にとってはただのごみらしかった。

小説というのをはじめて書いたのは三十五歳の時だった。ひとつ書いたらその後から書きたいことが次々湧いてきて、夢中になって書き続けた。ようやくかたちになったものを公募の賞に出して、それが最終候補に選ばれたという電話をもらった時に最初に頭に浮かんだのは母の顔だった。
子どもの頃から何をやってもだめで、ほめられたことが一度もなかったから、もしかしたらこれではじめて母を喜ばせることができるかもしれない、と思ったのだった。案の定、母はすごいすごいと繰り返し言ってはしゃいだ。嬉しかった。

だから「落選した」と報告するのは辛かった。
ああまた母をがっかりさせてしまう、と怖かった。受話器を持ちあげては置く、を何度も繰り返して、ようやく覚悟を決めて電話をかけた。

母は残念だったね、と答えはしたけれども、それよりいつ頃から書いていたのかとか、書くのは楽しいのかというようなことばかり聞きたがった。楽しいよ、やりたいことをやれるのは楽しいよ、と答えると本当に嬉しそうな声でそうなの良かったね良かったねとまた繰り返し言う。
どうやら母にとっては賞がとれなかったことより、そのことで娘が落ち込んでいることのほうが悲しいらしかった。
賞を取る取らないよりも、娘が生きがいのようなものを見つけた、そのことのほうが重要らしかった。

子から手のひらの上の贈りものを差し出されることよりも、その手のひらが希望を掴みとることを願うのが親というものなのかもしれない。今ならあなたの気持ちがわかるような気がすると、そんなことを言うのは生意気だろうか。たった三年、親をやったぐらいで。