お久しぶりの記事。私は一旦、はてなから離れていた。
それは、ブログが楽しくない場所になってしまったからだった。ライターでもなく、文系でもない、本も読まない一人の人間が、文章力もなく、伝える事の難しい文章が、こうして、ブログという場所で書く事、拡散される事への重さを痛感していたから。
そこで、はてなを離れてから、私はずっと考えてみた。よそのブログに逃げようかと消した記事も何個かある。すべての記事を移して、はじめからそこでやり直そうかとも思い、時期を見て、そ〜っといなくなり、そこで再出発しようと考えていた。
事情はいろいろあったけれど、要約すると、
仲が良いと思ってた人から三行半、もめ事に巻込まれ(自分から見てたので自業自得)、増田でそう叩きに合う人を見て、食レポの記事に、罵倒を浴びせられ(タイトルが悪かった事はおおいに反省している。批判記事なので、批判はあってしかるべきだが。)、増田にもバカじゃないかとか、クレーマーとか書かれていて、いつも見張られているような、そんな自意識過剰になってしまい、なんだかはてなという特殊なものが怖くなっていた。
ではなぜ、今ここで書き連ねているのか。
私は、はてなについて、考え、ここのところずっと何もせず、暇になったらはてな界隈をロムっていた。購読中のブログも☆をつけず、増田を覗いたり、ブックマークを覗いたりしていた。
そしたら、自然と、『私はここで書くのが好きだったのは、私と違う意見の人がいたら、自分の意見を言ったり、私と同じように思ってる人や、こんな考えがあるのか、と気づかせてくれる事もあったり、楽しいブログを見て、楽しくなったり、普段出会えない人との繫がりを感じられたからだった。』と思い出した。
本当はブログで、お友達ができたら嬉しいな〜なんて、
すごく幼稚なかんがえで、始めたのだけど、いつのまにか、私の自己顕示欲を満たしてくれるツールのひとつであったのだ。
リアルでの話になってしまうが、
自己顕示欲って言葉を聞くと、私の性格上、なんだか悪い事のようで、自己顕示欲を出す事は悪いのだと思っていた。(いじめの記事、病気の記事参照)
でも、
カウンセリングで、先生とお話していた時に、自己顕示欲が強すぎる人が・・という話になった時、『人間には少しの自己顕示欲も必要なんですよ。人生に欲は必要なんです。』
そう言われた時に、そうか、私は自己顕示欲=悪いと思っていたから、自分の考えをだしたり、自分の欲を出さずに生きてきて、言われるがまま、流されるままに自分の欲を押し殺しながら生きてきたのだ。という事に気がついた。
気がついたら、すごく楽になった。それまでわがままを周りに言わなかった私は、ずいぶんとわがままになれたし、物を言うようになった。嫌いな人は嫌いと言い、嫌な事は嫌と言えるようになり、思えるようになった。あくまで、私なりに。
なので、今、病気を患いながら生活をしているが、人にわがままを言ったり、素直に甘えられるようになって本当に楽になった。なので、だいぶ病気もよくなったし、遊びにだっていけるようになって、生きる事への糧にもなった。(当然精神的にも、体調的にも波はあるけれど。)
そして、ネット、ブログ、はてなの話に戻る。
始めたきっかけがお友達が出来たらいいな〜なんて思いは、完全に場違いな所に飛び込んできてしまったようだったけれど、上辺だけのお付き合いなんてない、ここがちょうど良かったのかもしれない。
どんな反応であれ、読んでくれる人がいるのは嬉しい事だ。それがさらに役に立っているのだろうと思うと、私も嬉しくなる。確かにアクセス数が多いと嬉しいのは決まっているが、私はこんな事例のほうが、嬉しいと思う事がある。
例えば、
いじめの記事は検索流入でも上位にある。いじめの本をアフィリエイトで買ってくれた時は、お金が入った事よりも、なんだかこんな私の記事(体験記)でも役にたったんだな〜と感慨深いものがある。
落ち込んだ時に聞く曲の記事は一番検索されている。みんな落ち込んでいる事が多いのか、そうだね、そんな時は音楽って癒しだよね。と、勝手に想像しては、検索してくれてる人に、共感を覚える。
他のブログを読んでいて、スゴく共感したり、力をもらったり、笑ったり、自分だけじゃないんだって思ったり、ネットという見えない世界でも、繋がっていることを感じたり、そんな事もあって、私は嬉しい事があったはずだった。
しかし、いつの頃からか、だんだん、書いた下書きの記事を読み直しながら、これを公開したら人に何を言われるんだろう、思ったことを書こうと思い、真っ先に頭に浮かぶのは、これを書いたら、どんな感じに思われてしまうのかな、炎上しやしないか、と、まるで、リアルでも散々悩んできたことを、ネット上で繰り返していたのだ。
そして、いつのまにか人の意見に流されている自分がいた。
私はこうなの。という。
好きな相手が私はこう思うけど。
と言われると、すぐに流されてしまう。そうだよね、こうだよね。と。
実際、はてなを離れようと思って、相談に乗ってくれた人の意見に流された部分もあった。でも、結局は、自分で決める事なのだ。
なので私は考えた。そしたら、だんだん、こう思うようになった。
罵声を浴びせられたり、信頼してたと思った人からちょっと言われたぐらいで、何もなかったことになるのか・・と思うと、悔しいという思いや、だから辞めた方が良いって言ったじゃない?なんて思われてると思うと、なにくそ!という思いが出てきて、逆に私が書きたいという衝動にかられる力になっているという、今この瞬間。
はてなから離れるべきとだけ、言われた事もある。(確実に心身に影響が出てる時は休む事は必要だとは思う。)だけど、辞める辞めないは自分で決めるものなのだ。と、自分の中で素直にそう思えた。
わたしはすぐに、人に流される。そんな自分を変えたくて、自分の気持ちをコントロールしようと練習を重ね、きちんとコントロール出来るようになってきて、病気と向き合ってやっと変わった私は一体どこにいったのだろう。何故ネット上では気をつかいながら、ひっそりと、言いたい事も言えずにいたのだろう。
それが不思議に思った。
きっとネットで、嫌われたくなかったのかもしれない。罵声を聞きたくなかったからかもしれない。
罵声を浴びせられるごとに、怒りの感情や、なんで分かってもらえないんだろう。という感情にかられていた。記事が燃えているのを抑えようと、反応に必死に反応して、疲れたのかもしれない。
そして、冒頭でお話したように、他人(はてな)のせいにして、自分と合わないからと、拒絶していたのだ。
それは『ネットの中で、自分というもの』がなかったからかもしれない。嫌われたくない。耐えられない。という、自分の意思ではなく、他人のせいにしていたから。はてな(ネット)の世界に、幻想を、期待を抱きすぎていたのかもしれない。
そう思ったら、はてな(ネット)という世界が怖くはなくなった。
だから、これからは、完全な自然体な わたし という個を大事にしようと思う。
雑踏が多い、このネット上で、私は自己主張をしたい時はして、批判があって、自分の悪い所があれば反省し、嬉しい時は嬉しいと言い、楽しい時は思いっきり楽しみ、悲しい時は悲しみ、共感した時はおおいに共感し、そんな自然なわたしでありたい。
ブログは、わたしにとって、自分の頭の中で考えた事を、こねくり回して、考えを出し、時には答えを見つけ、一番は、自分に向けて発する言葉だと思うから。
だから、私はまた書いてみようかと思う。どんな雑踏の中でもわたしはわたしと大声で言えるようになるまで。
しかし、それがはてなかどうかはまた別のお話。
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