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大学で「ジャーナリズム論」を講義する「吉田証言」執筆記者――続・おごる「朝日」は久しからず(4)
 吉田氏と家族を翻弄し、日本の名誉を貶めた朝日新聞の「吉田証言」大虚報。その罪深さは計り知れないけれど、執筆記者の“今”を辿れば、何と大学の「教授ドノ」となっていたのだ。しかも、専門分野は「ジャーナリズム論」――。

 吉田清治氏が慰安婦問題について朝日の紙面に初めて登場したのは、1982年9月である。

 その後、朝日は少なくとも16回に亘って吉田証言を“真実”として紹介してきたが、これら執筆のメインプレーヤーとなったのが、清田治史氏(66)だ。

「第一報の後、清田さんは翌年11月に、吉田氏を『ひと』欄に登場させました」

 とは、朝日OB。

「ここで写真入りで吉田氏を世間に周知させた彼は、続けてその1カ月後には、吉田氏が韓国に『謝罪の碑』を建てた件を社会面トップで記事にしています。吉田氏が土下座をする写真が真ん中に入り、そのインパクトは大きかった」

〈強制連行 謝罪の碑 悲しい除幕〉と題されたその記事は、確かにすさまじい。

〈式が終わるのを待ちかねたように、家族会の人たちの間から「アイゴーッ」の叫びがあがった。「何だ。今さら…。こんなことしか出来ないのか。ウェノム(倭奴=日本人を意味する非難を込めた呼び名)」。五十代の男性がこぶしを空に向け、振りながら号泣した。(中略)吉田さんは思わずひざをつき、額を地面にすりつけた〉

〈張本人として耐えられぬ自費建立者 大地に低頭〉

〈勇気は感謝だが日本政府は 韓国人遺族ら やり場ない怒り〉

 中身から見出しまで、大時代的に煽りに煽って日本の責任を追及したのだ。

 秦郁彦氏の調査などで吉田氏の嘘がわかったのは、その9年後のこと。ならば、彼の話を無批判に垂れ流してきた記者の信用も失われるのが当然なのだが――。

■「厳重注意」処分

「その後、清田さんは出世の階段を上ったんです」

 と呆れるのは先のOB氏。

「昔から周囲に“オレは偉くなりますよ”などと平気で言う上昇志向の塊のような人でしたからね。93年にソウル支局長となり、また慰安婦の記事を書いている。ただ、吉田証言の評価は気にしていたようで、同僚に“あなたは秦さんの方の人なの?”なんて確認していたくらいです。日本に戻ると、外報部長から東京編集局の次長になりました。次長時代は、取材経費の不適切な処理で、編集局長から厳重注意の処分を受けるという問題を起こすのですが、上層部の覚えがめでたかったためか、出世には響かず、西部本社の代表を経て08年には、本社の取締役にまで昇進したのです」

 過ちを犯した人間が偉くなる。天下の朝日は、信賞必罰についても“独自のルール”をお持ちのようだ。

 清田氏は、10年に退任し、朝日記者の“天下り先”とされる帝塚山学院大学の人間科学部教授に就任。今は「市民とジャーナリズム」「報道の倫理と行動規範」などの講義を行う身となった。言わば、慰安婦問題を踏み台にして、不足ない毎日を送っているワケだ。

 さて、その清田氏に今の心境を直接伺ってみると、開口一番、「新聞社時代の話なので、新聞社に聞いてください」とのたもうた。

――報道の当事者であることには違いない。改めて真意を聞きたい。

「新聞社にお問い合わせいただくことだと思います」

――会社から離れているのですから、話す自由はあると思います。

「記者時代のことなので新聞社が判断することです」

――過去のことだから話さないということですか?

「いや、この件に関しては新聞社が判断していますから、私があれこれ話すべきではないと思います」

 新聞社、新聞社、新聞社……。都合の悪いことになると途端に組織の蓑に隠れるのだ。では、清田氏は学生から同じことを聞かれても「新聞社に聞け」と言うのだろうか? それで「ジャーナリズム」を講じるのなら臍で茶を沸かすのである。

 元朝日新聞記者で、清田氏とは同期だった前川惠司氏も言う。

「記者時代のことと言って回答を拒否するのなら、無責任もはなはだしい。しかも、彼はしかるべきポジションに就いた人物です。吉田氏の話のおかしさに気付かなかったことも含めて、ジャーナリズムを語るべき人ではありません」

 この会社にしてこの記者あり。これでは、朝日が壊れてしまったのも必然のことだったと言えよう。

「特集 続・おごる『朝日』は久しからず」より
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