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詐話師「吉田清治」長男の述懐 「朝日に翻弄された私と父の人生」――続・おごる「朝日」は久しからず(3)
 朝日は、吉田清治なる“詐話師”のホラ話に丸乗りし、慰安婦「大誤報」を垂れ流してきた。しかも、32年にわたって撤回しなかったために、1億国民を報道被害者にしたのと同時に、吉田氏の家族をまた、世間の冷たい目に晒し続けることになったのだ。吉田氏の長男(64)が述懐する、朝日に翻弄された父と自らの人生とは――。

「済州島で朝鮮人女性を狩り出した」などという父の虚言のせいで、国民に多大なる迷惑をおかけしたことには、息子としてただただ頭を下げるほかありません。

 しかし、世間から“詐話師”などと呼ばれてはいても、私にとっては昔気質で無口な父でした。

 父が生まれたのは、大正2年(1913年)の10月15日のことです。実は、本名は雄兎(ゆうと)といいます。父の父、つまり私からすると祖父は、福岡県遠賀郡の貯炭場で現場監督を務めていて、かなり羽振りが良かった。ところが、スペイン風邪で若くして他界し、それから吉田家は没落していったそうです。

 日中戦争の起こった1937年、父は満州国地籍整理局で働いていました。その年、李貞郁という20歳の朝鮮人男性を養子に迎えた。後々、父の出自が疑われる原因にもなりましたが、父は、「朝鮮人や中国人は、日本人の10分の1しか給料が貰えなかった。差別はよくないし、日本人と同じになるように養子にしたんだ」と話していた。結局、私はその朝鮮人男性に会ったことはありません。

 父はその後、中華航空の南京支社に転職している。

 生前、「南京の夏は暑くて、屋根が焼けるようだった」「情報機関の軍人を、優先的に飛行機に搭乗させたから部長にまで出世した」などと話しているのを聞いたことがありました。

 終戦前には、すでに中国から引き揚げてきたようです。残っている写真などを見ると、42年には『労務報国会下関支部』に職を得ていました。父は、のちにそこの元動員部長の肩書きで、従軍慰安婦の本を書いたのです。

 44年に母と結婚し、5年後に私、さらにその2年後に弟が生まれました。

 戦後、父は『下関肥料』という会社を立ち上げたりもしましたが、仕事は長続きしなかった。というのも、私は物心ついてから、父がまともに働いている姿を見たことがありません。その代わりに、母が裁縫の内職などで家計を支えていましたが、家賃が払えずに追い出されては下関市内を転々としていました。

 高校生活を終えた後、私は自らの希望もあって、ソ連のモスクワ大学に留学しました。1年遅れで、弟も続いた。父はというと、当時、門司にある『小野田セメント』の子会社で、母と一緒に住み込みの管理人をしていました。ある時、賃上げ交渉に臨んだ労組が、「こっちには、息子をモスクワ大学に留学させたバリバリの共産主義者がいるんだぞ!」と経営者側を突き上げ、そのせいで両親はクビになってしまった。やむなく、両親の面倒を見るために、モスクワから2年で戻ってきました。24歳くらいの時、弟と一緒に上京し、精密機器工場で働いたり、得意なロシア語を活かそうと翻訳サービスの会社で仕事をするようになった。上京後すぐに、生活が安定する間もなく両親を下関から呼び寄せました。

■清田記者の電話

 父の4つ年下である母が亡くなったのは、私が30歳の頃です。肝臓がんを患い、60歳を超えたばかりだったのにあっけない最期でした。父が原稿用紙に向かうようになったのは、母の死期が近づいたことが一つのきっかけでした。

 ただ、私としては“自分史”でも残そうとしている程度にしか考えていなかった。ところが、ある日、父が1作目となる『朝鮮人慰安婦と日本人』(77年刊行)を持ってきたのです。立派な本だったのでびっくりしたのですが、「そんなタイトルじゃ、恥ずかしくて誰も買わないよ」と言うと、父はムッとして、「タイトルも目次も出版社に決められたんだ。内容も、何度も何度も編集者に書き直しさせられた」と言い返してきた。

 父は最初、本名で出版しようとしたのですが、出版社との打ち合わせで、“清治”というペンネームを使うことになったのです。さらには、養子の朝鮮人男性は83年に死亡しているのですが、その本では38年に戦死したことにしている。父は、ドラマチックなストーリーにするためだと話していた。つまり、身近にいた私から見ると、父はあくまでも私小説の類のフィクションを書いたつもりだったのです。

 とはいっても、その本をきっかけに、市民団体などから講演依頼が舞い込むようになり、朝日にその模様が大々的に取り上げられました(82年9月2日付・大阪本社版)。仕事らしい仕事をしたこともなく、人付き合いもほとんどなかった父がすっかり舞い上がってしまったのも無理はないかもしれません。

 挙げ句、2作目の『私の戦争犯罪』(83年刊行)では、従軍慰安婦の強制連行という話にまでエスカレートしてしまったのです。

 その頃住んでいた都内のマンションには頻繁に記者が訪ねてくるようになりました。帰宅すると、精神を患って仕事を辞めていた弟から、「今日も、マスコミが来ていたよ」と教えられました。私自身、朝日の清田という記者からの電話を父に取り次いだ記憶があります。ただ、マスコミに煽られ、父の証言が政治問題になっても、たいして本は売れず、父が手にした印税はせいぜい数十万円程度でした。しかも、それは韓国・天安市に建てた“謝罪の碑”に使ってしまった。

 他には、講演料収入というものもありました。「民団と朝鮮総連の両方から依頼が来るのは俺だけだ」なんて、父が自慢していたこともありましたけど、講演料は最高でも5万円、大抵は数千円でした。ですから、父の生活の面倒は相変わらず、私が見るほかになかった。私は結婚することも叶いませんでした。

 “詐話師”のレッテルが貼られるようになってから、次第に記者が父を訪ねてくることもなくなった。晩年は直腸がんを患い、ほとんど寝たきり状態でした。2000年7月30日、86歳で息を引き取りました。

 朝日は記事を撤回するなら、せめて父の生きているうちにして欲しかった。もちろん、第一に父が悪いのはわかっていますが、父にだってなにかしらの言い分があったかもしれない。

 これでは、朝日の都合で祭り上げられ、そして朝日の都合で切り捨てられたようなものです。もし、朝日に関わらなければ、父も私も違う人生があったはずなのです。

「特集 続・おごる『朝日』は久しからず」より
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