どうして京都に移ったんですか?
2年前に東京から横浜に引っ越したのだが、「どうして横浜に移ったんですか?」とよく訊かれるので、その都度、思い付いた理由を答えている。東京から近いけど遠いからとか、横浜の演劇環境が面白いと感じるからとか……。別に嘘ではないのだが、正直決め手となったのは、単に気になる友人が近くに住んでいたのと、大抵の場所に自転車でひょいっと行けて終電も気にせず呑める、くらいの些細なことなのだと思う。
そうやって「住む町のサイズ」を意識するようになったのは、10年近く前の、とあるお別れの挨拶に遡る。当時アルバイトをしていた古本屋に、演劇の制作者をしていたタジマさんという友人が「劇団が京都に拠点を移すことになったので、私もついていくことにしました」と言いに来た。そこには人生を賭けて新天地に向かう覚悟があるように感じて、少し眩しかった。当時、Uターンや撤退を除けば、東京から別の場所へと拠点を移すケースは若手劇団では珍しかったはずだ。きっとそこには崇高な志と戦略があるのだろう……。ところが「どうして京都に?」と尋ねてみたところ、意外な言葉が返ってきたのだった。
「京都は自転車でどこにでも行けるから」
え、まさかそんな理由で……と驚いたが、その答えは嘘ではなかった。というのもその数年後、まさに彼女を京都に連れ去った当の劇団主宰が書いた著作に、次のような記述があったのだ。
「どうして京都に移ったんですか?」と、未だによく聞かれる。京都は自転車でまわれるまちだからと答えることを、私は躊躇する。いくら言っても信じてもらえないからだ。本当の理由なのに。だから少し嘘をつく。「東京はね……」みんな納得する。(三浦基『おもしろければOKか?』)
本当の理由はわからない。水面下でどんな想いがあったのかは知る由もない。だが、少なくともハッキリしていることはある。この「地点」という不思議な名前を持つ劇団は、やがて京都の演劇シーンを代表する存在となり、今ではその舞台を観るために京都に押しかける人も後を絶たないということ。
この東京から京都への移動が、(主宰にフランス留学の経験があったことを除けば)劇団・地点の最初の大きな旅となった。
劇団・地点の3つの特徴
そんな経緯もあり、当初わたしには人さらい同然に思えていた地点の主宰・三浦基は、極めてユニークな人物である。料理が上手い。パイプのコレクションを多数持っている。……などのパーソナリティはさておき、先の引用にもその片鱗が表れているように、言葉に対して独特の距離感を持っている。それは昨今の小劇場演劇において主流である「作・演出」を兼ねるタイプではなく、「演出家」に徹していることと無縁ではないだろう。つまり自分では戯曲を書かず、誰かが書いた様々なテクストを「料理」する。あるいはその書き手である劇作家や小説家に潜むある種の病理を診断する者として、みずからを「医者」になぞらえることもある。いずれにしても、料理人であれ、医者であれ、その対象となるものを突き放すという態度は徹底している。
その地点の特徴を3つほど駆け足で挙げておきたい。まずなんといっても第1に目を惹くのは、「地点語」とも呼ばれるその奇異な発話法である。近年の演劇で舞台上にあげられるセリフは、日常の言語感覚に近い「リアル」な現代口語で語られることが多いが、地点の舞台では、言葉はまず徹底的に「異物」である。例えば「6日前のことでした」は地点語では「ムイ!カマエノコトデシタ」になるし、「モスクワ」は「モスク・ヴァ」になり、「明るい素晴らしい」は「アカ……ルイ、スバラ……シイ」になる。
つまり音の分節点を変えることで、言葉が日常とは異なるリズムやメロディを奏でるようになり、観客は、そのセリフを通常とは異なる集中力によって感受することになる。この発話法は発明と呼んでも差し支えないだろう。ロックン・ロールを日本語に移植することに成功したと言われるはっぴいえんどや、その激しい衝動や奔放さを日本語の歌詞で体現したサザン・オールスターズと比べてみても面白いかもしれない。地点の舞台では、(チェーホフやシェイクスピアなど)別の時代の別の言語で書かれた戯曲が、まるで聴いたこともないような実にユニークな形で日本の観客の耳に届くのだ。
第2の特徴はカットアップとコラージュである。起承転結のある物語に慣れた観客は驚いて、「こんなのはチェーホフじゃない!」と怒り出す人も時にはいるそうだが、切り刻まれて再構成された言葉たちは、一般的な(正直、退屈なことが多い)上演に比べると刺激的であり、上演された時の観客のコンディション次第で、第2・第3・第4……の解釈の可能性が呼び覚まされる(もちろんただ切り刻めばよいというのではなく、演出家には相当な手腕が必要だ)。またこの手法によって、いわゆる戯曲、つまり演劇作品として上演されることを想定して書かれたもののみならず、小説やその他のテクストを演出対象として扱えるようにもなる。
太宰治『トカトントンと』『駈込ミ訴へ』、ドストエフスキー『悪霊』などの小説のほか、アントナン・アルトーを下敷きにした『——ところでアルトーさん、』や、太田省吾の膨大な著作をコラージュした『あたしちゃん、行く先を言って』。あるいは大日本帝国憲法や玉音放送を引用した『CHITENの近現代語』、そして小松左京のSF小説と共になんと本番当日の朝刊から言葉を拾う『CHITENの近未来語』など……地点が扱うテクストは、実に多様で幅広いのである。
第3に、これまで書いたような特徴は、彼らの演劇を音楽に接近させた。その発話が音楽的というだけでなく、実際、近年は音楽家とコラボレーションする機会も生まれている。新進気鋭のバンド・空間現代とのコンビでつくった『ファッツァー』(原作:ブレヒト)は、彼らの有力なレパートリー作品として何度も上演されており、青山真治監督のディレクションでBSプレミアム「現代演劇の点と線」 でも放映された。空間現代が演奏する音を弾丸に見立て、それに撃たれると俳優が倒れてその先のセリフが喋れなくなる……という斬新なゲーム感覚のルールを採用したこの作品をわたしはすでに4度観ているが、未だに飽きることがない。
また2012年にフェスティバル/トーキョーで上演され、この10月にKAAT(神奈川芸術劇場)で再演される『光のない。』は、音楽家の三輪眞弘と組み、これはぜひ舞台を観ていただきたいが、電気ショックなどを用いたかなり奇異な「演劇×音楽」のコラボになっている。戯曲は、ノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネクが東日本大震災を受けて直後に書き上げたものであり、「わたしたち」を主語とする極めて詩的かつ知的な強度を持ったテクストである。『光のない。』について2年前の初演を終えた三浦は「場外ホームラン」とみずから述べたが、実際そう呼ぶにふさわしい会心の一撃だとわたしも感じた。
救いのなさから始まる演劇
ところで、まさにその『光のない。』で強く感じたことだが、近年の地点は「神が死んだ」後のニヒリズム(虚無主義)を相手にすることで、安易な絶望や希望を超克するトライを続けているようにわたしには見える。
例えば、人里離れて精神的に追い込まれていくゲオルク・ビューヒナー『レンツ』、虚しい音が聞こえてくる太宰治『トカトントンと』、ユダの裏切りを扱った『駈込ミ訴へ』、革命思想に取り憑かれた人々の頽廃を描くドストエフスキー『悪霊』、あるいは英雄が群衆に翻弄されるシェイクスピア『コリオレイナス』や、団結が失敗するブレヒト『ファッツァー』に至るまで、結局は「失敗」に陥ってしまうという「救いのない」物語が地点の舞台では数多く扱われてきた。
また彼らはチェーホフの四大戯曲を全て上演しているが、それはある側面から見れば、神への信仰心を前提としたチェーホフの「人生いろいろあるけど、生きていきましょうよ。神様が救ってくださるから」(やや強引な意訳)という楽観主義と対決し続けることでもある。例えば『ワーニャ伯父さん』のラストシーンでソーニャが語る「ね、ワーニャ伯父さん、生きていきましょうよ。長い、はてしないその日その日を……」というセリフにしても、地点の舞台では(というか現代日本では一般的に)一神教の神様がいないので、虚しく響くほかない。
しかしながら地点の演劇は、現代の空虚さを皮肉っぽく訴えて終わるわけではない。ここでソーニャを演じる安部聡子が、あるショッキングな行動をとる。突然、だらしなく寝転がっているワーニャ伯父さんを蹴り始めるのだ。三浦の著書によればこのシーンは稽古場での即興から生まれたらしい。舞台でその蹴りを観た時にわたしが感じたのは、「蹴らずにはいられない」という必然性だった。そしてこの蹴りこそが、虚無を突破しうる演劇の底力ではないか……と予感した。
「人はどういふことがしないではゐられないか」という問いは、「人はなにをなすべきか」という問いとはちがう。むしろ、「人はなにをなすべきか」という問いを超えるための問い方だと言っていいかもしれない。(太田省吾『なにもかもなくしてみる』)
唐突に故・太田省吾の言葉を引用したが、太田はかつて京都造形大学の教授であり、実験性を是とし、商業主義に媚びない京都の演劇文化の土壌づくりに大きく寄与した人物である。彼の遺した言葉は今なお若い作家たちに影響を与えている。地点もかつて『あたしちゃん、行く先を言って』という作品でその全著作をコラージュをする形でオマージュを捧げている。わたしは残念ながら、かの有名な沈黙劇である『水の駅』をはじめ太田が演出した舞台を観ることは叶わなかったが、その著作を読むかぎり、彼は思想の人なのだと思う。演劇は彼にとって、生きることの実践なのだ、と感じる。
そうした太田省吾の思想や実践は、地点にも何らかの形で受け継がれているのではないだろうか。劇団・地点のこれまでの歩みをわたしは全て知っているわけではない。特に京都に拠点を移した最初の数年間のことはほとんど知らない。ただ、彼らの現在の演劇には、これまで彼らが生きてきた時間の痕跡が確かに刻まれている。彼らなりの必然性に突き動かされて、その長い旅を続けてきたのだろう。
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