iPS細胞(人工多能性幹細胞)は、体のさまざまな組織になりえる万能の細胞である。

 難病や障害のまったく新しい治療法がもたらされるのではないかと期待されている。

 その世界初の臨床研究が神戸で始まった。理化学研究所などのチームが目の難病「加齢黄斑変性」をもつ患者を手術した。

 本人から採った皮膚細胞に遺伝子を送り込んでiPS細胞をつくり、さらに網膜の組織に変えて移植したのである。

 京都大の山中伸弥教授らが、この万能細胞をマウスで実現したと発表して、わずか8年。革命的な発見だったことを考えると、異例の速さで臨床研究まで進んだといえる。

 臨床研究は、パーキンソン病や心不全、脊髄(せきずい)損傷など多くの病気や障害で計画されている。

 医療の新たな地平を開く有望な存在だが、すべては未知の領域であり、慎重に見守りたい。安全性を確かめつつ進む着実な姿勢が、今後も求められる。

 iPS細胞などを使って体の組織や臓器を再生して治療する医療は、経済活動としても大きな役割を待望する声が強い。

 経済産業省の研究会は、再生医療の国内市場が直接の医療費だけで、12年の90億円から20年には950億円、30年には1兆円に広がるとみている。

 だが日本の再生医療は、研究は世界トップレベルなのに、製品化など応用面では欧米や韓国に大きく後れをとっている。

 基礎研究は文部科学省、臨床研究は厚生労働省、産業化は経産省という縦割りの弊害がしばしば指摘されてきた。

 最近になって再生医療推進法など関連法ができ、政府全体で後押しする態勢がととのった。官民挙げて応用力を加速させようという戦略である。

 医療の新技術に力を注ぐこと自体はけっこうだ。ただし、利益を追う産業化の視点を偏重すれば、安全性や有効性の確認がおろそかになる心配もある。研究結果をゆがめる不正への誘惑も大きくなろう。

 今回の臨床研究は、あくまで安全性の確認が主目的である。研究者の間では、「まだ動物で研究を重ねるべき段階ではないか」とみる声もあることを忘れてはならない。

 再生医療はiPS細胞に限らず、専門家の検討を経て厚労省の監督下で進められることになった。この枠組みをきちんと機能させることが重要だ。

 適切なブレーキがなければ、アクセルは踏めない。期待の万能細胞を、あせらず、じっくり大切に育てたい。