1.祖父からの聞き取り調査(参考資料と共に)
2.1910年「韓国併合」
3.1920年文化政治への転換
4.祖父の手記「思えば遠き平壌遥かなる国」吉田清治
5.これからの日朝関係
はじめに
私には1921年(大正10年)生まれ、今年(2004年)で83歳になる祖父がいる。(大分県津久見市在住)離れて生活しているので、なかなかゆっくり話すことがなかったが、先頃、祖父が上阪した折に、久しぶりに膝を付き合わせ、長時間はなす機会が持てた。
「君らは、戦争のない幸福な時代に生まれて、本当に良かったなあ」としみじみといった祖父の一言から、83年にわたる人生に話しが及んだ。
私と祖父は、ちょうど「60」という年の開きがあり、大正・昭和・平成と生きてきて、特に昭和の第2次世界大戦という最も激動の時代を通ってきている。私が書物で読み、学習してきた以上に、生の体験談は想像を絶するばかりの出来事で、驚きの連続であった。その中で、私が特に関心を持ったのは、1927年から終戦の翌年1946年までの約20年間を現在の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)で生活していた頃の話だった。今なお日朝間では拉致問題をはじめとした多くの難題をかかえている。2002年9月17日に小泉首相が訪朝し、金正日と会談し、拉致の関与を認め、安全保障についても日・米・韓が要求している方向で改善の意志を表明したので日朝関係は大きく前進するかに見えたが、好転しなかった。北朝鮮が日本に対し、いまだに根強く持っているものは何か。なぜ、両国の関係が正常に行われないのかということは、戦前の植民地時代の経緯と状況を把握してそこで、祖父の話しを軸にし、戦前・戦中の北朝鮮の状況を調べていく事にした。特に日本の支配下にあった時代に焦点をおき、祖父の人生の背景にあるものを見ていきたいと同時に、朝鮮の悲惨さを伝えられたらと思う。
日本の支配下にあった朝鮮で、1927年から1946年まで過ごし、第2次世界大戦をはさみ、戦前・戦中、そして敗戦を向かえ日本に引き揚げてくるまでの話しを聞いた。
(2004年10月21日現在)
Q、なぜ北朝鮮に渡ったのか。
生地の長崎で両親が雑貨屋を営んでいたが、経営状態が芳しくなかった。ちょうどその時期、父の弟が朝鮮で会社を起こし、誘いを受けたのがきっかけであった。私が7歳。1927年に渡朝した。
Q、どんな会社だったのか。
株式会社「樋口商店」といい、本社を本浦(もっぽ)におき、群山(くんさん)・平壌・麗水に支店があった。卸売(綿布・石油・石けん・洋品・雑貨・調味料・肥料など)の商事会社。
Q、会社はどのくらいの規模で、朝鮮人の雇用もあったのか。
本店の社員は60〜70名、支店は20〜30名で3店舗。社長の叔父が滋賀県出身だったので、滋賀県民が多かった。朝鮮人は、社員全体の2割程度雇用していた。
Q、当時の経済状況、賃金は。
好景気といえると思う。私は商業学校を卒業後、樋口商店に経理担当として入社したが、初任給は30円、ボーナスは100円。現代のように福利厚生・保険・年金はなかった。賃金に関しては、日本人も朝鮮人もあまり変わりはなかった。当時の朝鮮は日本人経営が多かった。
Q、住宅事情は。
父が支店長をしていたので、転勤であちこちと移り住んだが、結構広々とした住宅に住み住宅事情は良かった。
今となって、懐かしく思い出すのは、朝鮮特有の温突(オンドル)。朝鮮の冬は極寒だったが、オンドルのおかげで快適に過ごせた。温突床は土をならした上に厚手の障子紙のような温突紙を貼り、ニスで仕上げる。とても硬くてあめ色に光り、つるつるした独特な匂いがある。温突の焚口から部屋の床下に煙道を通すことで床暖房となる仕組みになっている。
Q、学校教育について。教育制度は。
日本人は義務教育として日本尋常高等小学校6年。高等科2年。(これは自由選択)それから商業学校(5年)・女学校(4年)・師範学校(4年)・中学校(4年)の選択肢があった。朝鮮人は普通学校に通っていた。授業は日本語で、朝鮮人も日本語で教育を受けていた。(表1参照)
朝鮮の学校制度 (表1)
|
内地人用の学校 |
朝鮮人用の学校 |
初等教育機関 |
尋常小学校 高等小学校 |
普通学校 普通学校高等科 |
中等教育機関(男子) |
中学校(旧制) |
高等普通学校 |
中等教育機関(女子) |
高等女学校 |
女子高等普通学校 |
教員養成機関 |
師範学校一部 |
師範学校二部 |
Q、小学校で学んだことは。
読み方(国語)。算術(算数)、唱歌(音楽)、歴史、地理、体操(体育)
小学校では、日本人と朝鮮人とは別々であった。
Q、小学校卒業後は。
親の進めもあり、商業学校に進学した。1学年が50人(朝鮮人25名、日本人25名)で5学年。小学校で学んだ事に加え、支那語(中国語)、朝鮮語、英語の語学に簿記珠算。そして軍事教練があった。これは戦争のシュミレーションのようなものだ。
Q、成績の評価は。
成績表は甲、乙、丙、丁。赤点は丁。
Q、日本語での授業だったのか。
朝鮮人は、植民地だったので日本語を話さなければならなかった。反対に日本人は朝鮮語をあまり覚えなかった。
Q、日本人と朝鮮人の対立はなかったのか。
私は、特別な意識はなかったが、やはり日本人は朝鮮人を馬鹿にしたような言い方をしていた。クラスメートの朝鮮人は優秀だった。日本人は威張ってばかりいて、消して頭は良くなかった。
Q、学生時代の思い出は。
商業学校5年生の時に、日本で行われた全国珠算大会に、朝鮮代表として私と朝鮮人の同級生が2人出場した。平壌から汽車で釜山へいき、釜山から下関を結ぶ関釜連絡線に乗り(8時間)、下関からは汽車で東京に行った。
修学旅行は、東京・京都・山陰など東海道・山陽道を通り、約2週間かけての旅行だった。
Q、入隊したのは。軍隊の仕組みは。
21歳のときに徴兵検査があり、その時に龍山歩兵23部隊初年兵に入隊した。3ヶ月鍛えられ、その後幹部候補生となる。幹部候補生になるには試験があり、通過すれば昇進していく。たとえ病気になっても兵役の義務があった。
Q、敗戦後、どのような生活をしていたのか。
戦後1年間は清掃組合の中でゴミ拾いをしていた。北朝鮮の冬の平均気温は零下40度なので、ゴミは凍っていた。糞・尿処理も凍って臭いが消えていたのでこれだけは助かった。子の時期、苦楽をともにした友人とは、今でも交流がある。
Q、住居は。
7〜8回家を追われ、転々とした。敗戦とは惨めなもので、いろいろな仕打ちを受けた。ソ連の兵隊達はとても粗暴で悪かったが、将校クラスの人たちは優しかった。北朝鮮での最後の住居となったのは倉庫だった。倉庫の中で机を並べて寝起きした。その2階には、ソ連軍の将校が住んでいて、カラス麦のパンをもらったり(とても酸味がきつかったのを覚えている)、酒(ウォッカ)など一緒に飲ませてくれたり(アルコール度数の高い酒で酔いつぶれてしまったが)親切にしてもらった。
Q、引き上げ時は。
1946年(昭和21年)8月下旬、帰国するために平壌駅から無蓋列車に乗り込み新幕駅まで行った。その無蓋列車には人が溢れるほど乗り込み食事はとうもろこし。消化不良でほぼ全員下痢状態が続いたが、トイレはなく、劣悪な車内と化した。
新幕駅から38度線まで約50里(1里=約4km)、1日10里を目標として、ひたすら歩き続けた。夜、歩いている途中に朝鮮・ソ連兵が襲ってきてなけなしの物を奪い取っていった。女を見つけては悪さをした。彼らもさすがに昼間は悪さができなったので、私達は昼に休息をとり寝ていた。まるで乞食同然の生活のまま、5日間歩き続けた。やっとたどり着いた38度線は山の頂上だった。そこには警備はなかった。平壌を出たときには2,300位いた人達も、厳しい行程で途中亡くなった人もいた。近くにいる朝鮮人になけなしの金をみんなで出し合い、埋葬を必死で頼みこんだ。しかし、最後まで見送る時間と余裕がなかったので、その朝鮮人がきちんと葬ってくれたかはわからない。牛車を借り、子供・老人・病人を乗せた。
38度線を越え開城で2〜3日収容され、チブス・コレラ・種痘の予防接種を受けさせられた。(資料参照)
開城から釜山まで再び貨物列車に乗り、釜山港へつき収容。そこでアメリカ軍から貰った牛肉の缶詰の味は一生忘れられないほど、美味しかった。米も食べさせてもらえた。
日本人のみを乗せ釜山港から博多に向かった。日本には9月2日着。
Q、帰国後の生活は。
博多の引き揚げ援護局で1人1000円貰った。(資料参照)作業服なども支給され汽車に乗り、長崎に帰った。生家はもちろん、市内は焼け野原状態。叔母の家の6畳間を間借りし、両親・妹・私の4人で住んだ。米の配給はなく、イワシの配給だけだった。
朝5時に労働安定所に行き、仕事の順番待ちをした。母が芋をこね、練り上げたものを弁当箱に入れてくれたが、芋は消化がよく、すぐ空腹になり、闇市で売っている蒸し芋を食べたりもした。農家の人の弁当は米だったのがとてもうらやましかった。とにかく、その時期は人のことよりただただ自分のことで精一杯だった。父がヘビースモーカーだったので、仕事のない日は、タバコの吸殻を缶に集めて、山にヨモギをとりに行き、自家製のタバコを作っていたりもした。とにかく、食べ物を筆頭に何もかも物がない時代だった。
人、1人の人生の背後には必ず歴史がある。それは、史実に基づいたものと、自分自身の生きてきた道という2つの歴史だと思う。祖父の歩いてきた人生・歴史を振り返る事で、祖父の「生きてきた証」が分かり、そして現在、私自身がこの世に「生」を受け「生きている」という意味も自ら分かってくるのではないだろうか。
武断政治「韓国併合」
1)断政治とは、韓国併合条約(1910.8.22)
植民地化に反対する民族運動を弾圧するために政治活動を一切禁止。徹底した軍事支のもとで各方面での植民地統治の基礎を作る。
1910年8月29日、韓国併合に関する条約が公布され、日本は朝鮮を完全に植民地とした。国号は朝鮮を改められ、統治機関として朝鮮総督府が設置されて、統監の寺内正毅が初代の総督に任命された。総督は天皇に直属する親任官であり、陸海軍の大将の中から選ばれ(総督武官制)、法律にかわる命令である「制令」を発布する権利や、陸海軍統率権、政務統括権、所属官庁への指揮監督権などの広汎な権限を付与された。総督府には、政務総監、直属部局の総督官房、五部(総務、内務、度支、農商工、司法)、所属官庁の中枢院、警務総監部、鉄道局、通信局、税関、裁判所、監獄、各道などがおかれた。韓国皇帝・皇族はは王族・公族とされ、日本皇族の礼を持って待遇された。王族・皇族の近親や名門出身の旧高官、親日派政治家など74名には爵位が与えられ、朝鮮貴族とされた。
総督府中央の要職は日本人が独占し、朝鮮人は権力を分与されなかった。中枢院は朝鮮貴族などによって構成されたが、政務総監を議長とする単なる諮問機関にすぎなかった。
2)言論・集会・結社の自由剥奪
集会取締令(1910.8.25)
政治結社すべて解散(1910.9.13)
朝鮮語の民間新聞・雑誌は発行禁止
御用新聞「京城日報」「毎日申報」The Seoul Press発行
言論・結社の自由について、教養ある不平不満分子が秘密結社を組むことを最も怖れた。この事に強く留意し、警戒するよう求めると共に、内地の例を引き、明治14、5年の自由党もかかる不平不満の徒であったとし、日本の場合は基礎が堅固であったため、良い方向にいったが、朝鮮では基礎が固まってないので、このような主義の政党が力を持った場合について大きく危惧している。この考えより、日韓併合に大きな貢献をした一進会を含め、あらゆる政治結社に解散を命じたのである。また新聞雑誌出版物の取締りを厳しくし、新聞社を京城日報一社に絞ると共に、治安に影響ある記事につき、発売禁止、押収などの処置をとった。因みに明治43年中発売禁止処分を受けた件数は、アメリカよりのもの98、ウラジオよりのもの34、朝鮮内のもの26、内地よりのもの97、合計255件に及んだ。また宗教関係についても、信仰の自由は認めつつ、政治への関与を強く禁じた。特に当時朝鮮ではキリスト教が急激に信者を増やしていたが、中でもアメリカ系の宣教師には韓国併合に反対するものが多く、それまで彼らが治外法権の特権を有していたため、問題を起こした人間が彼らの庇護の下に逃げ込むと言った弊害があったのである。
3)憲兵警察制度
警察権委任覚書(1910.6.24):朝鮮警察事務をすべて日本に委任
↓
総監府警察官署官制(1910.6.29。勅令)=憲兵警察成立
朝鮮総監府警察官署官制(1910.10.1)に継承
憲兵(軍事警察)が警察官(普通警察)を兼ねる:格段に威圧
憲兵隊司令部(司令官)=陸軍将官=警務総監部(総督)
↓ ↓
↓ ↓
(各道)憲兵隊本部(隊長)=陸軍左官=(各道)警務部(部長)
↓ ↓
↓ ↓
憲兵分隊 警察署
職権:スパイ、義兵鎮圧、各種警備・取締、
司法業務:犯罪即決、民事訴訟調停
一般行政事務:日本語普及、農事改良、徴税、山林・衛星監督
↓
法的手続きを経ずに朝鮮人を逮捕・処罰(日常生活で関与しない部分なし)
4)土地調査事業(1910.3〜1918.11)
目的:土地所有権の確立と地税賦課の整備→土地所有権、地形・地目、土地価格調査
申告主義による所有権確立
宣伝の不徹底、手続きの不備、課税を怖れ不申告→国有化に編入、所有権失う
国有地の強権的拡大→東拓ら日本人地主に払い下げ
農民の耕作権排除、申告主義
民有地では旧来の所有関係尊重:日本人中心に不法に土地兼併した新興地主に有利
↓
植民地地主制の基礎形成(日本人地主を頂点に日本の支配政策の基盤となった地主制)
農民の没落:地主・小作関係の私的契約化。小作保護策なくなり(従来は小作が直接国家に納税→国家の小作保護)、完全に経済の論理で運営(弱者に不利)
5)会社令(制令13号。1910.12.29)
会社設立は総督の許可
目的:日本資本の急速な朝鮮流入を警戒
国内の工業化が急務。ブローカー暗躍による反日感情高揚警戒・会社乱立を防ぐ
実際には日本人の申請は93.5%許可、朝鮮人は8.2%
↓
結果:日本人資本が支配的地位、民族資本圧迫
会社による民間企業の抑制について触れている教科書は少ないが、教育出版の中学教科書では「民族企業の成長の抑制」と非難している。
会社令は1910年(明治43年)から1920年(大正9年)4月まで10年間施行されたものである。
併合時総督府では「請願者の多くは[会社とは何か]というイメージすらなく、利権確保の手段として会社を設立する傾向がなきにしもあらずであった。したがって往々キョウカツ者の甘言に騙され、不慮の損失を招く恐れがあった。また有望な事業に多くの業者が林立し、無用な競争をし、多くの損失を招く恐れがあった」と会社令制定の理由を述べている。
朝鮮は併合に伴い、功労者への叙爵、高徳の両班、儒生に対する恩賜金、孝子・節婦の表彰、孤児・貧民などの救済資金などが支払われた。彼らが悪質な内地人に騙し取られないよう、総督府でしっかりチェックしようと言うのがこの法令の目的だったのである。
したがってこの政令は内地人、朝鮮人を問わずに適用された。この間に設立許可された会社数は、表2の通りであり、併合前の数字との比較から見て、極端に朝鮮人企業が抑圧されたとは思えないが、このような許可制の下では依コ贔屓があったと思われても仕方がない。
表2 会社令による設立会社数
|
日本企業 |
朝鮮企業 |
合計 |
併合以前 |
172 |
28 |
200 |
1910-1915 |
96 |
28 |
124 |
1916-1920 |
302 |
101 |
403 |
☆ 非難の多い武断政治
韓国高校歴史教科書はこの憲兵警察について次のように非難している。
<国権が強奪され、我が国に歩兵二個師団の日本兵と数多くの憲兵および憲兵補助員が配置され、強力な憲兵警察統治が始まった。日帝の憲兵警察統治は世界に類例のない植民統治政策であった。日本人憲兵司令官が中央の警務総長となり、各道の憲兵隊長がその道の警務部長になった。随所に憲兵警察が配置され、武力で我が人民の生存まで脅かした。
憲兵警察の主要業務は警察の業務を代行する事以外には、独立運動を探索し、処断することにあった。一般官史から学校の教員に至るまで制服を着せ、サーベルを帯刀させたことも、威圧的な憲兵警察統治の一手段であった。
このような日帝の植民地統治機構によって、言論・集会・出版・結社の自由を剥奪され、民族の指導者は逮捕・投獄・虐殺された。その結果救国運動をし、投獄された人士は数万人に達した時もあった。日帝はいわゆる105人事件(別名 寺内総督暗殺未遂事件)や、さまざまな独立運動の結社に関連した独立の志士を逮捕・拷問し、独立運動の抹殺をはかった。>
1907年ハーグの国際会議に当たり、韓国の高宗は、韓国政府にも内密に密使を派遣し、列強に日本の横暴を訴えようとした。しかし列強はどこも相手にしなかった。このことは日本だけでなく、当時の韓国政府を怒らせたのである。この結果、韓国政府は皇帝を退位させた。これに反対する韓国民衆の騒動で京城市内は騒然となった。この状況を見て伊東博文統監は至急日本軍の派遣を要請し、日本軍の到着を待って韓国軍の解散を命じた。このことが火に油を注いだことになった。職を失った軍人と、皇帝の退位に怒る儒者により、全国的な義兵運動が発生した。
緒戦の反日闘争に、それまで288人の定数を782人に増加し、配属箇所もそれに伴い急増した。更に翌年3月には2000人に増員されたがまだ不足で、6月には朝鮮人より3000人の憲兵補助員募集をすることとなった。8月にはこの補助員は4300人に増え、1909年には憲兵1人に対し、補助員3人と言う具合に憲兵隊は急激に強化されたのである。この補助員の募集に当たっては、無職の者に職を与える意味もあり、無職の者を主体として採用したため、採用者はまさに千差万別、中には解散兵、暴徒の帰順者や、素行に問題のあるものまで含まれたため、当時の憲兵は「常に を懐にするの感があった」と言われる位だった。2ヶ月の訓練のあと、暴徒の鎮圧に向かったが、その出身に問題がある者が多かっただけに、暴徒との戦いでは勇敢を淘汰して、新規採用者の身元調査を厳しくする事により、大正年間にはその面目も一新するほどになったと言われる。
この頃の韓国の警察は本来の韓国警察と、日本人居留地に設けられた領事警察と、憲兵隊の三本立てであった。韓国警察には日本人顧問入り、顧問警察とも言われていた。憲兵と一般警察はなかなかしっくりいかず、問題であった。明石は寺内の合意を得て、この統合を行った。即ち「統監府に刑務総監を置き、憲兵司令官をこれに充て、各道警務部長には各道憲兵長官を充てる」と言うもので、これにより一般警官は全て憲兵や隊長の指揮下に入ることになったのである。
この制度は極めて合理的なようであるが、育ちもやり方も異なる二つの機関が、ぴったり息をあわせて一つの事にあたると考える者は、人間の感情を理解しないものである。特に憲兵はしばしば威圧的だった。憲兵制度は動乱時には適した組織であり、義兵運動の鎮圧に成功した。
☆ 三・一独立運動
三・一独立運動は、朝鮮近代史上最大の民族運動であり、現在でも朝鮮人のナショナリズムの原点の一つになっている。
三・一運動が勃発した最大の原因は、武断政治による矛盾の激化であった。総督府の政策は民衆の憤激を高め、1910年代から生活防衛闘争が全国で散発的に発生しており、三・一運動勃発の素地は十分に形成されていた。加えて、国際的には米国大統領ウィルソンによる民族自決主義の提唱、ロシア革命の勃発などの要因があった。これらの情勢をみた朝鮮の知識人や学生の間には、国際的に「道義の時代」が到来し、「道義」に訴えれば独立が獲得できると言う認識が広がっていった。
この頃国外では、アメリカの安昌浩や上海の新刊青年党が、パリ講和会議に朝鮮代表を送るための活動を展開しており、国内では天道教徒・キリスト教徒や教師・学生などがそれぞれ独立運動計画を立案していた。一方で民衆の間にも、1月に死去した高宗が日本に毒殺されたと言う噂が飛びかい、民族意識が高まっていた。そして2月8日には在日留学生が東京で独立宣言を発表し、運動実践のために続々と帰国しはじめた。こうしたさまざまな動きが2月末に合流し、3月3日の高宗の国葬を前にして、1日にソウルのパゴダ公園で独立書を朗読する方針が決定された。同時に日本政府と帝国議会に即時独立を求める通告書を送付し、米国大統領とパリ講和会議委員に独立支援を求める請願書を送付する事も決まった。そして、チェ南善が起草して33人の民族代表が署名した独立宣言書が、秘密裏に2万枚印刷され、全国に発送された。
しかし3月1日になると、非暴力の示威運動に固執する独立宣言書署名者は、発表の場所をパゴダ公園から市内の料理店へと移し、朗読後に自首してしまった。そこでパゴダ公園に集合した学生・市民が宣言書朗読式を決行し、一斉に「独立万歳」を高唱したあと太極旗を振りながら市外に繰り出した。これに多くの民衆が合流し、数万人のデモ行進が広がっていった。街頭には独立を訴える弁士が立ち、「独立新聞」「国民新聞」などと称する宣伝ビラが舞い、「独立万歳」の歓声が響きわたる光景が、各所で行われた。ソウルと同時に、平壌・義州・元山など北部の諸都市でも運動が始まり、やがて地方都市にも波及していった。デモはその後も繰り返され、労働者のストライキ、商人の徹市(抗議のための閉店)等の闘争もみられた。
これ以後の運動は、人々が集まる定期市の日に行われることが多く、北部・中部から南部へ、都市から農村・山村へと拡大していき、3月下旬から4月上旬に最高潮に達した。運動が全国に拡大する過程で、書堂教師ら地域在住の地域人や中小地主、帰郷した学生らが各地で指導者として運動を組織し、村々を回って運動の連携を図る「万歳クン」という活動家も登場した。運動の形態も非暴力のデモ行進から暴力闘争へと激しさを増していった。鎌・斧・鍬・こん棒を武器とした農民が、面事務所や憲兵隊派出所を襲撃し、土地台帳や課税台帳を焼き捨てた。それは、これまでの生活防衛の戦いの延長であり、武断政治に対する農民の怒りが爆発し噴出したものだった。また、村の入り口に激文を揚げ、たいまつや山上の烽火を合図に使うなど、朝鮮王朝後期の民衆運動以来の方法も使われた。さらに、面長や巡査のなかからも運動参加者・指導者が現れるとなど、地域・個人で蜂起が起こり、200万人以上が運動に参加した。
これに対して、総督府は本国政府と連携し、憲兵・警察に加え正規軍も投入して徹底した弾圧を行った。日本軍警は徒手空拳の民衆デモに対し容赦なく発砲、射殺した。水原郡堤岩里では、運動参加者約30名を教会の礼拝堂に監禁して射殺し、建物ごと焼却した。検挙者に対する虐殺・拷問も数知れなかった。「朝鮮のジャンヌ・ダルク」とよばれる天安の女子学生指導者柳寛順も、こうした拷問が原因で獄死した。在朝日本人も自衛団や消防組を通じて虐待に加担した。その結果、朴殷植「韓国独立運動之血史」によれば、朝鮮人の犠牲者は死者7509人、負傷者15961人、逮捕者46948人の多数にのぼった。
さらに中国では、間島の朝鮮人が「独立万歳」を叫ぶ武装デモを行ったほか、関内でも中韓合作社など朝鮮人と連帯する中国人の組織が各地に生まれ、五四運動を触発する契機の1つとなった。また、第一次世界大戦後初の大規模な反帝国主義運動として、世界各国の民族解放運動を大いに鼓舞した。他方日本国内では、朝鮮人の状況に同情して植民地支配の改革を求めた民本主義者の吉野作造、ヒューマニズムの立場から朝鮮人の独立要求に共感を示した柳宗悦柏木義円、リベラルな小日本主義を唱えて植民地放棄を説いた石橋湛山など、少数の人々が運動への理解を示していた。しかし、大多数の日本人は三・一運動を「騒擾事件」以外の意味で認識する事ができず、朝鮮人に対する他外主義的な敵愾心を深めていった。こうした態度は、関東大地震の時の朝鮮人虐殺事件につながっていくものだった。
運動は5月以降散発的になる、所期の目的である独立は達成できなかったが、その影響は大きかった。朝鮮総督府や日本政府は支配政策の変更を余儀なくされ、20年代の「文化政治」への転換を強いられた。また、従来の愛国啓蒙運動・義兵運動・民衆の生活防衛闘争など、多様な思潮・形態の運動が一体化し、空前の規模の民衆参加を得られたことによって、民族独立の意思が普遍的で強固なものである事が確認された。問題は、確固たる指導組織の欠如と国際情勢に対する認識の甘さだった。それゆえ、20年代には運動の中で地域の指導者として成長した人物が中心となって多様な大衆組織が形成され、一方で明確な帝国主義批判の論理を持った社会主義思想が浸透していくのである。
☆ 堤岩里教会事件の悲劇
この三・一独立運動の中で最も非難されているのが堤岩里教会事件である。先ず、韓国人学者たちによる事件記述を見てみる。
(1) 民族を挙げての闘争に当惑した侵略者は、・・・筆舌に尽くしがたい野蛮な殺戮行為を行った。彼らは非武装の民衆を手当たり次第に虐殺して。1919年4月に起こった水原虐殺事件はその一例にすぎない。
(2) 特に罪の無い住民を教会内に閉じ込めて火を放った堤岩里虐殺事件は、世界的に知られている日本軍の代表的な蛮行である。
ではこの事件の真相はどうであったか。
前出の「朝鮮独立運動之血史」には、こう書いてある。
<4月15日午後、日本軍の一中尉の指揮する一隊が、水原郡南方の堤岩里に出現。村民に対して諭示訓戒すると称して、キリスト教徒と天道教徒30余名を教会に集合させた。そして、窓やドアをきつくしめ、兵隊がいっせい射撃を開始した。堂内にいたある婦人が、その抱いていた幼児を窓の外に出し、「私は今死んでもよいが、この子の命は助けてください」といった。日本兵は、子供の頭をさして殺した>。その他、日本兵が誰彼なく殺戮した様を繰り返し書いている。
しかしながら、なぜ日本兵隊たちが同地方に出現したのか。一斉射撃の原因・理由は何か。如何なる動機があって日本兵が殺戮に及んだのか。同書は全く述べていない。
それでは、日本側の公文書を見てみる。
日本総督府の憲兵隊司令官、児島曽次郎は上司に次のように報告している。
まず当時の状況として<3月下旬同地方では官公署の破壊焼却されたものが少なくなかった。殊に花樹、抄江の両地では巡査を虐殺し、その死体を陵辱した。また朝鮮在住の内地人の被害頻々として起こり、民心の恐慌・憤怒一時其の極に達した。発安場に於いては3月31日、市の日に際し、約1000名の暴民が大極旗を押立て路上演説をし内地人家屋に投石暴行し、終に白昼小学校に放火して高唱するなどの暴行を行った。翌4月1日の晩より発安場周囲の山上80余箇所にかがり火を焚き、内地人の退去を迫った。そのため、内地人婦女子43名は幾多の危険、困難を排し3里離れた三渓里に避難した>。
このような物情騒然の中、<有田中尉は同地方騒擾の根元は堤岩里における天道教徒並にキリスト教徒であるとのことを聞き、この検挙威圧の目的で・・・中略・・・堤岩里に到着すると、巡査補に命じて天道教徒及びキリスト教徒20余名を、キリスト教の教会に集合させた。そして先回の騒擾及び将来の覚悟について、2,3質問をしている間に、1人が逃亡しようとしたので、これを妨げようとしたところ、他の1名と共に打ち掛かってきたので、直ちに之を斬棄てた。この状況を見て、朝鮮人全部が反抗の態度に出て、その一部は木片または腰掛などを持って打ち掛かってきたので、直ちに外へ逃げ出て兵卒に射撃を命じ、殆ど全部を射殺するに至った。この混乱中、西側隣家より火を発し、暴風のため教会堂に延焼し、遂に20余戸を焼失するに至った>との悲劇が発生してしまった。
この報告を基に、長谷川好道総督は原敬首相宛に次のことを報告している。
<以上、検挙班員及び軍隊の行為は、遺憾ながらいきすぎであり、かつ放火の如きは明らかに犯罪であるが、今日の場合、正当の行為と公認するのは、軍隊並びに警察の威信に関し、鎮圧上不利となるのみならず、外国人に対する思惑もあるので、放火はすべて検挙の混雑の際に生じた失火と認定し、当事者に対しては、その手段方法が問題であった罪により、その指揮官を行政処分に付す事にした>警察権を有する有田小隊による取調尋問が、取調側人数の2倍強及至3倍近くいた被害者達に対して行われた際、被害者側の1人が逃亡を図って抵抗し、他の1人が逃亡幇助の公務執行妨害を犯したことから、本事件が偶発的に発生した事実が分かる。逃亡を企てたことから、同小隊員達は当人達を犯人と決めつけたに相違ない。有田小隊の各員が、朝鮮暴徒が日本人巡査2人を虐殺した事に対し報復心に燃えていたのに加え、近隣の朝鮮人村民からも「発安場小学校を焼き暴行に及んだ犯人たちを掃滅して欲しい」との懇請を受けていた背景も考慮されるべきである。今日只今、米国内でこのように、犯人とその逃亡幇助者たちが数を頼んで、警官隊に反撃するならば、警官達は躊躇なく発砲に及ぶではなかろうか。
また「朝鮮独立運動之血史」には前述の如く、<母親とおぼしき朝鮮人女性が教会の窓から幼児を逃がそうとしたところ、日本兵がこの子を刺殺した>とのエピソードを記述している。しかし「万歳事件を知っていますか」において、著者木原悦子氏はアメリカ上院の議会議事録に収録されている、英国紙「モーニング・アドバタイザ」の京城特派員の4月24日付けレポートを引用して「殺害されたキリスト教信者10名、天道教信者25名、全員が男性」と記述している。
有田小隊が堤岩里村に到着したのは、4月15日午後4時を既にすぎていた。堂中尉の部下9名が犯人検挙のため、20余戸をすべて点呼の上、20余名の男達を教会堂に集め終える迄には、更に少なくとも半時間はかかったものと思われる。同小隊に同行していた巡査補(通常は朝鮮人)が通訳を担当していたとすれば、1人で20数戸の呼び出しに立ち会った事になり、所要時間は半時間では済む筈もなく、小1時間は優に掛かったであろう。
時は丁度、村の女達にとって夕食の支度に最も忙しい時刻である。同地方の4月半ばの陽気はいまだ寒さが残り、何処の家庭でも女達はオンドルを焚く為、家にいなくてはならない筈である。呼ばれもしないのに、幼児を連れた婦人がそんな忙しい時に、どうして教会堂にいたのか。
以上の疑問点から、「朝鮮独立運動之血史」は当該エピソードを掲載した為、皮肉にもそれ自身の信憑性を疑わせる結果を招き寄せてしまったのである。
1) 文化政治の本質
「表面暴力を持って抵抗し来たるものは、威力を持って之を制限することは容易である。しかしながら漸次・醸(うんじょう)しつつある思想の暗流は、到底威力をもって如何ともすべからざるものである。ここをもって為政者たるものは、常に民心の趨向に注視し、暗流の奔騰を未然に察して、これを浄化誘導すべき適当なる方途を講ずることが必要である。即に、民意の暢達を図り、人心の転換を策することは、蓋し思想悪化の安全弁となるであろう」(朝鮮新聞社「朝鮮統治の回顧と批判」)
「朝鮮人をして、我が帝国の統治に服せしむるがために、彼等をして安じてその生を楽しみ、我が統治の有り難味を感じせしめるということが必要である」(水野錬太郎)
「朝鮮統治の終局の目的は内地同様ならしむるに在り。唯現在の状態に於いて直ちに内地同様なる統治法を取ることを得ざるのみ」(原敬)
2) 警察機構の変化
武断政治期(憲兵警察制度)
<ソウル> 総 督
↓
|
憲兵司令部 憲兵総監部
↓ [司令官(=陸軍将官=)総監] ↓
↓ ↓
<各道> 憲兵隊本部 警察部
↓ [隊長(=陸軍左官=)部長] ↓
↓ ↓
<各府郡> 憲兵分隊 警察署
(警察署の職務も執行) ↓
|
駐在所 派出所
「文化政治」期(普通警察制度)
<ソウル> 総 督
↓
|
↓ 警務局
↓ (連絡・調整機関、海外)
<各道> 道知事
↓
第3部(のち警察部)
↓ [部長]
↓
<各府郡> 警察署
↓
|
駐在所 派出所
普通警察制度への転換は、一般行政機構から独立していた警務総監部・道刑務部の廃止、総督に直属する警務局の設置、道知事(道長官を改称)への警察権付与と各道への第3部(のち警務部)の新設、憲兵が普通警察事務を扱うことの廃止と警察機関の増設によって実施された。そして1919年8月には、憲兵・警察官を合わせて14341名であったのが、20年2月には警察官20083名に増員され、一府郡一警察署、一面一駐在所を標準とする警察力の増強と稠密な配置が実現された。また大量の銃器が配備され、軍隊式訓練がほどこされると共に、戸口調査を通じて人民を日常的に監視する体制が整備された。
3) 大正天皇の詔書
官制改革と同時に発布された大正天皇の詔書は、朝鮮の「民衆ヲ愛撫スルコト一視同仁朕ガ臣民トシテ秋毫ノ差異アルコトナク」と述べた。この「一視同仁」の標語は、同化政策推進の方針を示すものであった。これを受けて、新総督の斎藤実は総督府官吏への訓示において、新しい施政方針は「文化的制度ノ革新」によって朝鮮人を誘導し、「文化ノ発達ト民力ノ充実トニ応ジ、政治上社会ノ待遇ニオイテモ、内地人ト同一ノ取扱ヲ為スベキ究極ノ目的ヲ達センコトヲ」願うものであり、「文化的政治ノ基礎」の確立をはかるものであると説いた。このように盛んに「文化」「文明」の言葉で飾ったことから、斎藤総督の新政策は「文化政治」と称される事になったが、それは、朝鮮人が同化の実績を示したならば、また斎藤総督は「内鮮融和」を説いたが、これも朝鮮人が文化と民力とを向上させ、ますます天皇の支配に服すること、つまり日本への同化を進めることが、日本人と朝鮮人との対立をなくしていく道であるというものであった。
4) 朝鮮人の活動への譲歩
朝鮮人の活動に対してはいくつかの譲歩がなされた。言論・出版・結社の取り締まりが緩和され、朝鮮人による朝鮮語新聞・雑誌の発行、団体の結成が認められた。これによって1920年には、現在まで韓国の代表的な新聞として続いている。「東亜日報」「朝鮮日報」が創刊された。新聞・雑誌は検閲を受けなければならず、しばしば押収や発行停止・禁止などの処分を受け、集会も臨席監視する警察官に中止を命ぜられることや開催自体が許可されない事が多くあった。しかし武断政治のもとでのように朝鮮人の言論・出版・集会・結社の活動を原則的に禁止する事はなく、活動を認めつつ統制を加えるという手法に転換した事は、大きな変化であった。また朝鮮チ刑令も廃止された。
1920年には地方制度が改革され、道、府、面のすべてに諮問機関(道評議会、府協議会、面協議会)が設置された。府・指定面の協議会は公選制、普通面(指定面以外の面)の協議会は郡守(または島司)の任命制と定められた。府・指定面協議会員選挙の有権者、府・面協議会員に選出・任命されるものの資格は、25歳以上の男子で当該府・面に1年以上居住して府税または面賦課金5円以上を納入する者に制限された。どう評議会員は、その3分の2が府・郡・島ごとに府・面協議会員の選挙した候補者(定数の2倍を選挙)の中から任命され、3分の1は道知事の指名によって任命された。
協議会員、評議会員になる事のできるものは納税額による制限のため、社会上層の資産家に限られていた。府・指定面の協議会員、府部選出の道評議会員の場合には日本人のしめる比率が高く、普通面の協議会員、郡部選出道評議会員の場合には朝鮮人が大多数を占めた。1926年に開ける府・指定面の朝鮮人有権者数と一般面の朝鮮人協議会員数との合計は、約4万名であった。諮問機関の構成員ないし有権者となって、諮問機関にかかわった資産家はごく限られていたのであるが、彼らを総督府権力の側に引き寄せる政治的効果をえようとしたところに、地方制度改革の重要な狙いの1つがあったといえよう。
5) 新しい朝鮮教育令(第2次朝鮮教育令)
1922年2月、新しい朝鮮教育令(第2次朝鮮教育令)が公布された。改正教育令は「内鮮共学」を謳い、日本人教育も対象に含めて、各級学校の入学年齢、修行年限、教育内容を日本の学校とほぼ同一にし、大学・師範学校も設置することになった。しかし日本人学校と朝鮮人学校とは、日本語を常用するかしないかで実質的に区別された。普通学校では、日本語の時間が増えて、朝鮮語の時間が減り、日本の歴史・地理と職業化の教育が始められて、同化教育が一層強化され、実業教育が重視されるようになった。
三・一運動後、朝鮮人の教育熱が高まったので、総督府は公立普通学校の普及をはかり、初めは3面1校、1929年には1面1校の基準で設置する計画を進めた。この結果、公立普通学校の学校数・生徒数は19年には535校・76918名にすぎなかったが、29年には1505校・448204名、37年には2503校・857484名へと増加した。また朝鮮人の高等教育への要求の高まりに対応しつつ、これを植民地教育体制の枠内に組み入れるために、総督府は26年に京城帝国大学を創設した。
この章は私の祖父の手記です。
「1946年(昭和21年)9月、長崎市へ引き揚げてから、57年が過ぎ去った。
今、考えてみると、両親姉妹と共に渡ったのは、1928年(昭和3年)3月、7歳のときだった。その年4月朝鮮金羅南道木浦公立尋常高等小学校へ入学、1932年(昭和7年)4月朝鮮金羅南道麗水公立尋常高等小学校へ転校、1934年(昭和9年)2月同校卒業、その年4月朝鮮金羅南道木浦公立商業学校へ入学、1935年(昭和10年)4月朝鮮平安南道平壌公立商業学校へ転校、1939年(昭和14年)3月同校卒業、その年4月おじの経営している金羅南道木浦府にある、株式会社樋口商店本店に入社した。小学校、商業学校共に転校したのは、父この会社の支店長をしていて転勤したからだ。
朝鮮が日本の支配下にあったので、内地人(日本人)はずいぶんと幅を利かせていた。朝鮮人を虐待した内地人も結構いたようだ。
小学校は、内地人朝鮮人と別々にあった。商業学校は、内地人朝鮮人共学だった。1クラス50名で、1クラスに内地人と朝鮮人が半々だった。成績ベストテンの9割は朝鮮人が占め、頭の良さを示していた。学生時代私は気が弱かったので、逆に朝鮮人からいじめられた事もあった。社会人となってからも、私は朝鮮人を可愛がりこそすれ憎んだ事はなかった。同じ人間である以上当然の事だと思う。朝鮮人は祖先と両親を大切にする良い習慣を持っていた。この風潮は現在も受け継がれており、学ぶべき点が多々あったと思う。私が終戦を知り太平洋戦争に終止符が打たれた事を知ったのは、1945年(昭和20年)8月15日、朝鮮77部隊で召集を解除された後、自宅に帰った時である。青天の霹靂とは正にこのことをいうのだろう。
「急激なる情勢の変化により召集を解除する。」の一言で、私の人生は180度転換したといってもいいだろう。われわれ兵卒には、玉音放送も聞かせてはくれなかったのである。あの異国の空のもとで流した涙、さんさんと照りつける暑さも、すっと消え肌寒さえ覚えた。空はどこまでも青く、整然と美しく立ち並ぶポプラの木々さえも静かな一瞬だった。
終戦を海外で迎えた日本人は、軍人を除いて320万人を数え、その範囲はアジア全域に及んだと聞く。当時朝鮮にいた日本人は、90万人を越え、38度線以南の引き揚げは、1946年(昭和21年)5月までに完了したが、以北では日本軍はソ連に移され、満州からの避難民を含めた民間人は、38度線を突破して祖国へ帰り着いたのである。組織を持たない一般邦人にとって、引き揚げは長い苦難の道程だった。その殆どが着のみ着のままで、祖国に辿り着かねばならなかった。なかでもソ連軍管理下の満州北朝などの同胞は悲惨を極めた。何の拒む力のない日本人は、死ぬより辛い苦しみに耐えねばならなかった。
内地(日本)へ帰国できる?いや帰れない?日本も九州四国本州北海道と、それぞれの勝戦国に分割されるなどと流言蛮語で毎日が大変だった。また満州から大勢の軍属や満鉄社員の家族が平壌に南下してきて、街は急に人口がふくれ上がった。8月26日ソ連軍が進駐してきて不安と動揺の色が一層濃くなった。終戦と同時に日本人は地獄の底に突き落とされてしまった。日本が支配していた時の朝鮮人の反感が、いっせいに爆発しその波を日本人が破ってしまったという事だろう。特に北朝鮮では日本人は人間扱いされなかった。何故こんなにも虐げうれなければならないのだろう。私は朝鮮人を虐待しなかったけれど、軍隊と同じで連帯責任とはこういうことをいうのだろうかと実に情けなかった。
平壌の街に入ってきたソ連軍の暴行略奪が始まり、目玉の光った髭の濃い赤ら顔の彼らは、油の付着した汚い軍服を着て布製の長靴を履き、一見しただけでも恐ろしい人相で、ピストルや自動小銃を突きつけ金品と女を捜し、早くも身の危険を感じた女という女は皆丸坊主に借り上げ、男装してはソ連軍兵の目から逃れようとしていた。また一方ではソ連兵が朝鮮の婦人を捕らえて激しい口論をしていたが、言葉が通じずその婦人は必死になってソ連兵より逃れようとしていたが、ぐっと捕らえられた腕は離れそうもなく、どこへ連れて行かれたのか、それ以上は見るに忍びなかった。街では朝鮮人100人余りが、旗を立てドラム缶や太鼓を叩いて「朝鮮独立万歳」と口々に叫びながら、街中をデモしていたが最後は気勢を挙げ解散となった。三々五々と家路に帰る朝鮮人の口々より「30有余年、日本支配下の我々は惨めなものだった。」と日本人に対する憎悪感が溢れていた。また、日本人が最も崇拝且つ神聖にして犯すべからざる神社が焼き払われ、その周囲には多数の朝鮮人が棒や竹切れを持って「朝鮮独立万歳」と叫んで今にも日本人住宅を襲う気配さえ感じられた。もし日本人を襲って彼らの手で虐殺せれるくらいなら、あっさり自決した方が良いと考え準備をして時の来るのを待った。しかし如何程時間がすぎても襲ってくる気配はなく、夜明けを迎えた。
蓄えていた貯金も金融機関の閉鎖で払い戻しは出来ず、手元に余分な金はあるはずはなく、働き口もなく、衣類や家具類を二束三文で売り払った僅かの金と配給米の残りでこれから生活するのかと思うと心細い限りだった。
故郷を出て渡朝以来17年、青雲の志も今はただ1日も早い内地への引き上げだけを頼りとし、辛い時にも悲しいときにもただただそれのみを願う心が日増しに強くなっていった。冬の平壌は冷夏40度の酷しい寒さだった。年明け1946年(昭和20年)となった。引き揚げられる、いやこのままだ、脱出した人たちが捕らえられて殺された、港から闇船で逃げた人がいるなど勝手な憶測と不安な日が一層深くなりお互いの心は迷いに迷った。8月24日引き揚げの汽車があることを知り、とるものもとりあえず平壌駅を出発した。というよりも脱出したというのが正しいだろう。貨物列車に鮨詰めにされ、ともかくもよたよたと汽車は動き出し夜8時ごろ新幕で降ろされた。その時から徒歩が始まった。老若男女、幼児もこの団体から離れてはならない。ちょっとの休憩にも朝鮮人が大勢寄ってきて何もかもが略奪され、なけなしのお金や食料をとられる。正に強盗そのものだ。個人で休む事は許されない。歩かねばならない。誰が指導者なのか定かではなかったが、この一つの団体は一つの方向へ向かっていてひたすら歩いた。38度線の開城へ向けて―
山も峠も野原も川も歩き続けた。山の中の急流の川を渡った。父と母と妹を肩車にし胸までつかりながら川を3回も行き来した。やっとも思いで向こう岸に着く。8月の太陽は必死に生き抜こうとする我々に、いや応なしに厳しく照りつける。土の上に、万の上に、草のうえにと野宿しつつ、やっと30有余里の道程を経て、それは平壌を出発してから何日目であっただろうか?我々念願の38度線の山の上に上りついた。目の下に南朝鮮のキャンプ村の灯を目にしたとたん、今までの気の張りがガタガタと音を立てて崩れるようにしゃがみ込んでしまった。
この苦しく嬉しい気持ちは平和な今日話してもその感動を伝える事は出来ないだろうと思う。
原爆と空爆の洗礼を受けた生まれ故郷長崎市へ帰ったのは9月2日であった。
略奪、暴行、射殺、さらに38度線への脱出、また酷寒下の異国の丘での抑留生活、何れにしても引き揚げは戦争のもたらした、もう一つの悲劇だった。
毎年8月が来ると私は思い出す。
真夏の太陽がギラギラと輝く8月。若者や家族連れは競って海や山、海外旅行へ、そして熱狂の甲子園に一喜一憂。この平和をじっと見つめながら、私は終戦のために北朝鮮から着のみ着のままで引き上げ、身も心もボロボロに引き裂かれた悲惨な敗戦体験を思い出すが、その体験もともすれば58年間の平和と豊かさの中に埋没し風化していく。戦争は2度と繰り返してはいけない。」
以上が私の祖父の手記です。
1.国交なし。従って、大使館のような日本の公的機関は北朝鮮に存在しないし、また北朝鮮の公的機関も日本に存在しない。北朝鮮は190ほどの国連加盟国の中で日本が国交を樹立していない唯一の国。
2.2000年に1、616人の日本人が北朝鮮を訪問、また332人の北朝鮮人が日本を訪問した。従って、人的交流は極めて限定的であるが(韓国には年間200万人を超える日本人が訪問)なくはない。日本から北朝鮮への直行定期便はなく、たいていの場合、中国経由で北朝鮮に入る。
北朝鮮訪問は手続きが簡単ではなく、1)在日北朝鮮人の組織である朝鮮総連(正式名称は在日本朝鮮人総連合会)が企画する友好訪問団に参加するか、2)事前にビザ申請書をピョンヤンに送り、許可が出てから、北朝鮮入国前に在中国大使館のような北朝鮮の公的機関でビザを取得し入国するのが普通である。ただ、自由に観光できるのではなく、ガイドが強制的につき、行き先も大幅に制限される。
3.戦争中多くのコリアンが日本に労働者として連れてこられ、その数はピーク時には200万人に達した。終戦後大多数の人は帰国したが、日本に滞在を希望する人がいた。朝鮮半島の方は南北に分裂したため、韓国側につく人は民団(在日本大韓民国民団)、北朝鮮側につく人は朝鮮総連を結成した。
4.1954年になると北朝鮮側が帰国者を受け入れ始め、1984年までの93,000人が北朝鮮に渡った。この中に北朝鮮国籍の人と結婚した日本人妻がいる。
5.1070年、日本赤軍派の9人が名古屋上空で日本航空の旅客機(日航機)をハイジャックし,平壌に逃亡した(よど号事件)。
6. 1997年、日本人妻里帰り第一陣。日本の食糧援助の見返りとして実現。1,800人の日本人女性が北朝鮮に夫と一緒に渡ったと言われるが、里帰りしたのは第一陣の16人だけ。
7.1998年、北朝鮮、日本海に向けて弾道ミサイルを発射。弾頭部が日本上空を通過し、太平洋側の三陸沖に着弾。
8. 2001年12月、日本の巡視船、不審船に銃撃され、それを撃沈。後に北朝鮮の工作船と判明。資金稼ぎのために北朝鮮政府は偽札づくり、麻薬取引に関っていると言われ、不審船は麻薬取引のために日本の領海に侵入した可能性がある。輸出するものが北朝鮮ではほとんど生産できないので、北朝鮮は外貨稼ぎのために「国営犯罪シンジケート」を結成しているのではなかろうか。
9.近隣国である北朝鮮と国交のないことは異常なことで、日本側としては国交を樹立したいが、両国の間には解決しなければならない問題があり、その解決が難しいため関係は改善しない。問題の一つは北朝鮮による日本人拉致疑惑である。
10.日朝関係は2002年9月17日に小泉首相が北朝鮮を訪問し、金正日総書記と会談した際、金総書記は日本政府が拉致されたと認定した11人の内10人についての北朝鮮政府の関与を認め、6人が死亡、4人がまだ生存していることを明らかにした(認定されていなかったもう二人の拉致も認め、死亡していることを明らかにした)。また、安全保障についても日本、アメリカ、韓国が要求している方向で改善する意志を表明したので、日朝関係は大きく前進するかに見えた。
11.しかし、日朝関係は好転しなかった。1つの理由として、日本側は拉致問題について9月17日の北朝鮮の謝罪で全て解決されたとみなさないでさらなる調査と協力を北朝鮮に求めたが、それに対して北朝鮮政府の態度は協力的でないことがあげられる。金総書記の謝罪で問題は終わったというのが北朝鮮側の解釈であるようだ。もう1つの問題は核兵器問題である。北朝鮮は核拡散防止条約を批准して核兵器を開発したり所有したりしないという約束をしたが、10月に核兵器開発計画が発覚した。そして2003年の1月には条約からの脱退を宣言し、核兵器に必要なプルトニウム生産に動きはじめた。北朝鮮は秘密裏に核兵器を少量すでに所有しているのかもしれないが、核兵器生産を黙認することは韓国、日本の安全保障を脅かすことになる。中国も核兵器を所有しているのでなぜ北朝鮮が所有していけないのかと問われるかもしれないが、北朝鮮は独裁的な政治体制で国として不安定であるので、核兵器を近隣諸国に対して使用する可能性が高い。北朝鮮は日本を射程内に入れた弾道ミサイル(テポドン)を所有していることを1998年の実験で証明してくれているので(北朝鮮で発射したミサイルが日本本土を超えて三陸沖に着弾)、核兵器を所有していれば、それをミサイルに搭載し日本を核攻撃できる。日本側にしてみれば、核兵器生産を黙認して北朝鮮に経済協力することは核兵器生産を支援し、日本の安全保障を脅かす行為になりかねない。
6) 終わりに
「日朝間で国交ができたら、もう1度だけ平壌に行ってみたい。私らがいたときの面
など全くないと思うが、牡丹台や大同江などの自然はまだそのまま残っているだろうからなあ。」と話す祖父の言葉は、戦後58年経過しても癒えない傷よりも望郷の念が忘れ難いのだろうと察する。最も多感な青春時代を北朝鮮で過ごし、過酷な時代を生き抜いてきた。自分の意志にかかわらず世の情勢に翻弄させられ、正に生と死が隣り合わせにいる状況下での敗戦の混乱期の談は、安穏と生きている私達に何か大きな課題を与えられたような思いがした。
私は1981年に生まれ戦争を全く知らない。両親にしても1950年代生まれで完全に戦後に入っている。1950年代の日本はまだ貧しかったとはいえ、徐々に東京オリンピックを境に高度成長を遂げ、みるみる世界の列国と肩を並べて経済大国へと発展していった。しかし、戦争の悲惨さは、決して忘れてはいけない。幸いにも祖父は「今」を生きているが、多くの尊い人命が戦争により無残にも失われている。現在のものが豊かすぎる日本だけを見ていたのでは、日本人として何か欠けているような気がしてならない。歴史を知ることが私達の努めであり、それによって何をしなければいけないか、何をしてはいけないのかが分かってくる。そして歴史は1人1人の命を育み人が歴史を作ってきている。そして今、生かされている自分のルーツを知ることにもつながってくる。