よもちかブログ

「私の世界」の話をしよう。

「ほどよい無関心」という技能

最近、正直に申し上げまして、ブログに書くネタがございません。

 

でも、それもいいことなのかなと前向きに考えました。毎日、ご飯を作って、何を作るか悩んで、お金の管理の仕方を見直してみたり、掃除に精を出してみたり、図書館に出向いて本を読んでみたり、言ってみればリアルが充実しているのだと思うのです。なので目の前のことで手一杯で、観念的なことをあんまり色々考える必要がないのでしょうね。ほどよい周囲への、そして自分自身への無関心。

 

実際に私がそういうタイプなのですが、悩みすぎて自滅する人って色々なことに関心を向けすぎだと思うのです。関心を向けるのはおおむね良いことですが、悩みすぎて苦しい思いをしているのに引き続き関心を向けたままにしておくのは、あきらかにやりすぎです。そこは別に無関心になってもいいと思う。別に、世界は私から関心を向けられなくても回っていくもんだし、気になるあの人も私からの関心がなくてもどうにかやっていく。そして自分自身に対しても、悩みや思うところや感じることに、逐一関心を持たずとも案外大丈夫なもんなので、「ほどよく無関心になる」という行動の選択肢を持っておくのも、生きていくためには必要な技なんじゃないかって思うのです。

 

要は、自分の許容量に合った関心の向け方をしたらいいよねってことです。すべてに無関心になれっていう話ではないです。色んなことに注意を向けすぎて苦しくなっているのなら、注意を向けるのをやめたら楽になるよねって話です。

 

でも、あれです、暇だと、これってすごく難しいです。暇だと手持ち無沙汰なので、色々考えちゃうし、色々なことに関心を持ってしまう。だから何かしらやっておいたほうが、比較的簡単に悩みから注意関心をそらすことができるかと思います。そう、それは例えば、家事です。家事って次から次へと仕事が湧いてくるし、特に私の場合、毎日の献立を考えるのに必死で、難しいことを考えている隙間がありません。これでいいのかな?と不安になる気持ちもありますが、いいのです!と思う気持ちもあります。自分にはどうにもできない社会問題や政治の問題についてあれこれ悩んで苦しい気持ちになるより、毎日の献立に悩みつつ料理を作り上げていくほうが、ずっと建設的ですし、健康的だと思いました。それになによりまず一番重要なのは、自分自身の心身の健康です。すべてはここが要だと思うのです。悩みすぎて心身の健康が蝕まれていくなら、その悩みがどんなに重要そうに見えても、悩むのをやめたほうがいいのです。なぜなら心身の健康が蝕まれた状態で考え出したアイデアは、高確率でろくなもんじゃないからです。

 

そういうわけで、私は、最近はあんまり悩んでいません。だいだいどうにかなるし、どうにかするために、今の自分に出来ることをコツコツやろうと考えています。生きる意味とか、存在する理由とか、そういうことは考えなくなりました。とりあえず今は、食事を作って、食べて、片付けて、掃除をして、お風呂の準備をして、楽しみのためだけの読書をして、夜は七時には布団に入って眠って、ということが楽しいなと思っています。そのうち作業所にも通うんだってことを考えるのも楽しいです。

 

現在の私は、そんな感じです。今日もリハビリがてらスーパーに買い物に出掛けてきます。毎日外出することに慣れたら、作業所に通うのもスムーズにできそうだという算段です。

 

よもちかでした。