Docketはいるかね?と言う。docket? ああ、receipt、あったほうがいいですのい、と、わし。
つまりdocketがいるんだね、とまたペトロステーションのインド移民の店員が繰り返すので、笑いだすのをこらえるのに苦労してしまった。
Docketは領収書のたいへん古い言い方で、いくら古い英語がたくさん流通しているニュージーランドでも、さすがにもう使われない。
ところがインドからの移民の人には、この単語を使いたがる人が多くて、観察していると、ペダンティックな人が多い。
どうもreceiptよりもdocketのほうが高級な言い方だと思っているようで、へえ、そんなものか、と思う。
インドの人は日本の人と同じように「知識誇り」をするところがあるので、「高級な語彙」を知っていると自分が偉くなったような気がするもののよーでした。
福島第一発電所の事故のあと一見して科学の素養も基礎的訓練もない、せいぜい学部卒くらいであるらしい人たちが、科学用語をふりまわしてみたり、「物理屋」や「生物屋」は、と隠語めいた言葉で述べていたりして、見ていても、なにがなし痛ましい感じがしたが、インドの社会にも同じような傷口が開いているようで、英語の話に戻して言えばつまりは、「いまどき英語でHow are you?なんて言わない。そんなもの教えている奴はバカ」「アメリカ人に聞けばわかるがAfrican Americanなんて、アメリカで言う人間いない。英語がわかってもいないのに知ったかぶりするバカに注意」
と得意の「バカ攻撃」と一緒に何百というRTがついてtwitterで流れてきていたのと同じで、つまりは自分の傷がどれほど疼いているかの表明なのでしょう。
あるいはPonsonbyの街角でアクセントからして紛れもないイギリス人がpreponeという単語を使ってるのを聞いて、ぶっくらこいてしまう。
「prepone」は日本語に訳せば「前倒しにする」という意味のインド英語でイギリス人が使うのを聞くのは、それが初めてだった。
もう少しややこしい例を挙げると
I’m so tired. と
I’m very tired.
というふたつの文は同じ意味だが微妙に異なる。
どう異なるかというと、I’m so tiredは実は、そのあとにthat I’m sleepyというようなclauseが続くことが(実際には言われなくても)期待されている。
I’m so tired that I’m sleepy.
の後半が省略されたのがI’m so tired.という文の、おおげさに言えば、正体で、そもそもの始めから一個の恬として独立した文である I’m very tired.
とは異なっている。
書いていても、このくらいの微妙な差の話になると、その辺に転がっている無学な(←言ってしまった)英語人に聞いてみて、「えええええー!ネイティブに聞いてみたけど、そんなことないって言ってましたよおおお」という、おなじみの下品を極める声が聞こえてきそうな気がするが、so にはいまでも微かに女性的な感じが残っているのは、そういう理由によっている。
日本の人が英語の勉強をするのに良いと思っているので例に挙げて使うことにしているアメリカの昔の人気ドラマ「Friends」で男たちのなかでは博物館研究員のRossだけがsoを連発するのも脚本を書いている人が意識的にしろ無意識的にしろRossのオネエっぽい性格を表現しているからで、あんまし頭がよくないマッチョのJoeyは普通に話すときはveryを使う。
ところが、この頃はsoとveryには、「とても」という意味で使う限りにおいては区別がなくなってきてしまった。
こういう種類の些細で微妙な、英語人でも言語感覚が悪い人には感じられないような表現の差が英語からなくなってきたのは、やはり移民社会になって、英語が「普遍語」「共通語」化していることの直截のあらわれであると思われる。
よく考えてみると年齢がわしの二倍あって、ダブルパワー・ノリオな、わしの年長の友人村上憲郎などは共通語としての英語はやがて「外国語としての英語」に化けていって、EFL(English as a foreign language)が共通語になって、地方語化したアメリカ語やUK語、インド英語やシングリッシュ、中国英語、日本英語の群雄割拠体制になると考えているように見えるが、もともと90年代にはBroken Englishの街と言われたロンドンの20年後である現在を考えると、現実は案外、もとのオリジナル英語に収斂していくもののように見える。
観察していると理由は意外なところにあって言語の習得はたいていの人が考えるよりも簡単だということに依っている。
ぼくが日本語を選んだのは子供のときに住んでいてなじみがあったこと(そして義理叔父と従兄弟とが盟友であること)が隠れたいちばんの理由なのかも知れないが、その上に日本語が最も難しくて将来の役に立ちそうもない(ごみん)言語に見えたからだった。
習うより慣れろで、やたらめたら読んだり書いたりしているうちに、初めの数ヶ月で半日かけて半ページというようなスピードならば読む人が「ニセガイジン」と思い込む日本語が書けるくらいまでにはなった。
そこからあとも、むやみやたらに調べまくって書きまくった記録がこの「ガメ・オベールの日本語練習帳」で、ときどき欣喜雀躍とか乾坤一擲とか、あるいは、就中というような表現が無理矢理登場するのは、なにしろそういうカッコイイ表現が使いたくてたまらなかったからである(^^;
ブログの次には「短く速く」書く練習にtwitterを使ったのは見ていて気がついた人がたくさんいたようだった。
いまちょっと読み直してみても自分で書いたはずなのになにを言ってるのかさっぱりわからないツイートがあったりして笑ってしまうが、即問即答、スピード第一なので許してもらわなければならない。
英語を日本語アカウントで使うことを自分で自分に厳しく禁止して暫く続けて、案の定、途中では「英語で書いてみろ」と言われたりしたが、猿回しの猿ではあるまいし、自分の能力を見せるためにツイッタで遊ぶバカはいない。
一言でいいから英語で書けば自分もニセガイジンでないと信じられるのに、という人もいたが、アホな人に自分が何者であるかを証拠だてるために何かをする、というような卑屈なことをする人間は軽蔑されるべきだと教わって育ったので、あの人は日系アメリカ人の聖書学者だったが、嫌な人だなあ、と思っただけだった。
他人に向かって、自分ではとっくに知っている自分自身の何を証明させようというのだろう。
そのうちにるーく(@soloenglishjp soloenglish7.com )のようにオーストラリア人で片親が日本の人なせいで日本語も母国語にしている人やHermes Trism(@hermes_trism)のような日系のスコットランド人、あるいはYuko Ohnakaさん(@YukoOhnaka ohnaka.com )のような日本人には珍しいくらいプロの通訳者、あとはもうひとりひとり名前を列挙しないが長い間英語国に住んでていて英語で暮らせているひとたちがたくさんTLに現れて皆で話をするようになってきたので、この頃は、もう練習はやめて(←飽きてきている)、英語も少しづつ混ぜていって、いまちょっとimpression数を見てみたら、まだ日本語ツイートの3分の1くらいなので、まだ全然ダメだが、ゆっくり増やしていて英語と日本語と半々にして、たとえば福島事故の後始末や日本にとって致命的な問題になりつつある捕鯨の問題や女のひとびとの社会的地位や未成年性問題というような日本と英語圏では「常識」そのものがはなはだしくことなる問題について英語と日本語とつながるようにすればいいかなーと思っている。
(もっとも考えてみると自分でも漢字やひらがながどこかに書いてあるアカウントの英語など一瞥することもないので、ほんで、英語人がほんとうに日本語ででっかく「十全外人大庭亀夫」と書いてあるアカウントを読む気がするのか、という問題があるが)
このブログの初めのほうには「国語を英語に変えるなんて、ぶわっかたれめが、もっと自分たちの言葉に誇りをもたんかい」と書いてある記事がいくつかあるはずだが、6年間だかなんだか日本語と付き合っているうちに意見が変わって「日本語はもうダメだな」という意見に180度変わってしまった。
なによりもまず6年間に日本語そのものの質が激しく低下して型に填まった陳腐な表現が使われる頻度と表現そのものの陳腐化とが相互に補完しあいながらたいへんな勢いで螺旋形をすべり落ちるように頽廃してしまったこと、それに伴って「日本語では表現できない事象」が手がつけられないほど増えてしまったことで、特に社会の成員があっというまに水平化しつつある世界の変化に日本語はまったくついていけてない。
遊園地のドラえもんロボットでも十分こなせそうな紋切り型の生ける屍のような表現が群れをなして蒼惶と社会のあいだを経巡っているだけにみえる。
英語にしたほうがよい、と言っているのではなくて、英語になってしまうだろう、と言っている、というほうが正しい。
科学技術の研究者、たとえば日本語ツイッタで言えばもじんさん(←天文研究者)が普通に英語で職業生活を送っているように、科学研究者は普段に書く論文も仕事ちゅうの言語も英語だが、研究の分野からビジネスへと広がって、英語の出来る出来ないが階層を隔てる第一の岐れ道になるに違いない。
ここで何事にも簡潔明瞭なせいで、いかにも日本人受けしなさそうな、というよりも拒否反応を起こされてしまいそうなYuko Ohnakaさんが
「日本人の『上手な』英語なんて英語が出来るレベルには入りません」と述べて、聞いていた日本の人たちは憤慨していたようだったが、へええー、そう思う人もいるのか、と思ったことには「自分が英語が出来るのを、そんなに自慢しなくても」と言うオモロい反応を示す人までいたが、Yuko さんのほうは自分が見聞きしてきた「英語が得意な日本人」を簡明な写実主義で「英語が出来ると言えるレベルではない」と描写しただけのことなのは、ニューヨークならニューヨークのビジネスの場で登場する「英語が流暢な日本人」たちの惨状を見たことがあれば、誰にでも判ることである。
結局、日本の言語的な行く先として少なくとも仕事やフォーマルな場所では英語になるか、Yukoさんがあったときに直截クルーグマンに言われたように「アジアの二流国」として国家の余生を過ごすかのどちらかだろう。
経済はゆっくりとしか変化しないが、たとえば日本人の個々人のアセットがぼくがブログを書き始めてからの6年間でみても40%も減少しているのを見てもわかるとおり、ダメなものはダメで、グーグルもアップルもマイクロソフトすら持たず、頼みの綱の自動車マーケットにおいても欧州の高級車と韓国の大衆車にマーケットの上下を削られた上にハイブリッドという過渡的なつなぎ技術にしか過ぎない技術に過剰にいれこんで基礎技術に遅れをみせはじめたトヨタに代表されるように日本の自動車のマーケティングは、なんだか思い込みが激しいものになっている。
ニュージーランドで眺めていてもトヨタは「ビンボ人のクルマ」プリウスも「むかし流行ったクルマ」化していて大衆車はフォルクスワーゲン、レクサスはBMWXシリーズへの買い換えが普通になってしまった。
最大の足枷になっているのは一見して明らかに「英語でものを考えられない社会であること」で翻訳文化でこなせたような情報量とは流通している情報量が質的に異なるほどの量変化を起こしているのに、英語なんかわからなくても、と旧態依然でいたことが致命的になりつつある。
インドなまりがまったくないインド人たちが増えて、中国人たちも二代目三代目になってカンタベリー訛やブルックリン訛の英語を話す。
理由は判らなくて、あるいは単に高校生のときに「カッコイイ」存在であるためには出身国の訛がないほうがいい、というような浮薄な理由かも知れないが、少なくともいままでの観察では案外と英語は求心的で復元する力のほうが拡散的で変化する力よりも強いように見える。
地球上が単一の言語で覆われるなんて退屈きわまりないイメージだが、どうも、急速にそうなってしまいそうです。
何回も書いたが、インドで進行している言語的な変化を観察してみると日本語なら日本語の、もともとの言語は炬燵を囲んだ団欒の地方語であるよりは、実情をみると、階層を上下に隔てて、下層に人間を押し込める言語になる可能性が高いように見える。
ITでデバイドされ、英語で蹴り落とされ、生まれついた家の富によって厳しいハンディキャップを課せられるのではたまったものではない気がするが、現実は常に個人の虚しい願望など裏切って恬然としているものなので、やむをえない、と諦めるしかないのかも知れません。