№525 宮島さんの 神主が~
 カープ戦の盛り上がったとき応援団の中から「宮島さんの神主が おみくじ引いて申すには いつもカープが 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち」と歌が鳴り球場中響き渡り試合が一層盛り上がる。

 この歌はカープの応援歌だと思っている人が多いが、県立広島商業高校の人に言わせると、この歌は県商野球部の応援歌であるが、応援する時盛り上がるのでいつの間にかカープファンが勝手に歌いだしたものだそうである。

 広商では「宮島さんの神主が 御みくじ引いて申すよう 何時も広商は 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち」とカープと広商の文句が入替っているだけで殆ど同じである。

 しかし、この応援歌は地御前村で歌われ始めたのが真相である。

 地御前村では明治30年頃、村の青少年がハワイ帰りの移民に習って盛んに野球の試合を行なっていた。 野球の練習や試合は明治29年に旧国道や、山陽鉄道が広島三田尻間の鉄道用地敷設のため海を埋立てた、阿品の田尻海岸の鉄道と山の間の空き地で行なわれていた。

 当時の地御前村では、「町組」と「浜組」に分かれて野球の試合が行なわれていた。当初は「町(又は浜)勝て 町(又は浜)勝て 勝った方がえーよ 勝った方がえーよ」との囃子言葉で応援していた。

 明治40年頃には他の町村との対抗試合で「いつも 地御前が 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち」と付け加えられ、今歌われている応援歌に近い形となっていった。

 明治44年夏には「宮島さんの神主が ~~」の文句が頭に付け加えられた。
 これは日清戦争以降の宮島杓子で「召し(めし)取る」と「飯(めし)取る」の語呂合わせの戦勝という縁起感と、地御前神社の拝殿の修復が行なわれた時期が重なり、村民の悲願がかなったため神託的な歌詞が盛り込まれたものと伝えられている。

 明治44年の夏には、地御前の郷友クラブと廿日市の篠尾倶楽部の対抗試合が行なわれた。
 この試合では地御前側は多数の応援団を送り込み、村にある限りの太鼓やラッパ隊10名、祭礼用の天狗の服装に大杓子を持ち込み、応援歌を怒鳴りながら前代未聞の応援戦を繰り広げ、周辺の人々を仰天させた。

 地御前野球応援団の派手な応援は、広島にも飛び火して伝わった。明治45年の春に行なわれた、当時の県中と広島商業の対抗試合にも、両校の白熱した応援団両方が地御前の応援歌と服装を持ち込んだので、野球場は大混乱を招いたそうである。

 この混乱を収束するため両応援団で協議し、地御前の応援歌についてどちらか一方が辞退することなった。
 県中・広島商業いずれにも地御前出身の在学生が居り「本来、地御前の応援歌なのでお前らで決着せよ」言うこととなったが一任された二人は親友関係もあったので、二人の話し合いの結果広商野球部の応援歌に決まったそうである。

 小学校の運動会では「宮島さんの神主が おみくじ引いて申すには いつも赤(白)が 勝ち 勝ち 勝ち 勝ち」と、赤白両者が必死で怒鳴り揚げながら応援していた。
 深い意味も分からず歌っていたが調べてみると面白いいきさつがあるものである。
by hirosan_kimura | 2013-03-01 11:01 | 文化芸能 | Comments(0)
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