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この人にこの技あり

田村大五(小社顧問)

第10回:若林忠志の七色の変化球

スピードに変化をつけ、ストライクからボールへの変化を使うと、ボールは「七色」になった

「七色の変化球」。今では、広く多彩な変化球を持つ投手のピッチングを形容する言葉ともなっているが、その大もととなったのは、ハワイ生まれで、阪神、毎日で活躍した若林忠志のピッチングだ。ところが、本人に聞くと、「球種自体は七つもない」と言う。では、果たして打者に「七色」と思わせたものは何だったのか……。

「七つの色」なんて、あるわけないよね

 巨人の工藤公康投手が5月7日の対広島7回戦で勝利投手になって「41歳の勝利」ということで「日本プロ野球史上の41歳以上の勝利記録一覧表」がスポーツ紙上に出た。史上7人の「41歳勝利投手」の中で最多勝が49年に阪神で15勝、50年に毎日オリオンズで4勝、計19勝した若林忠志投手だった。

 5月15日、対ヤクルト7回戦で桑田真澄投手がビリー・マーチンにプロ入り19年目で初めて満塁本塁打を打たれたとき「満塁本塁打を打たれたことがない投手」として浮かび上がったのも若林投手だった。NHK・BSテレビの「プロ野球70周年記念特集」でも、若林投手のお孫さんの投書が読み上げられて、会場をどよめかせた。若林投手は“今も生きている”ことになる。

 ハワイ生まれのハワイ育ち。マッキンレー高からハワイの日系人チーム(若林の両親は広島生まれ)の一員として来日、日本にあこがれ、さまざまな曲折を経て横浜の本牧中から法大入り、法大黄金期のエースから川崎コロムビアを経ての創設期のタイガース入り。戦前、最多勝(44年=22勝4敗)の最高勝率(44年=.846)、防御率1位(39年=1.09、44年=1.56)、戦後、38歳で復帰するや47年に26勝12敗で44年に次ぐ2度目の最優秀選手。経歴ふうに書くと、そういうことになるが、そういう数字を超えて若林を有名にしたのが「七色の変化球」という形容詞であり、50年、その年の公式戦ではわずか4勝(3敗)なのに日本プロ野球初の日本シリーズ第1戦で先発―完投勝ちした42歳7カ月のピッチングだった。

 「七色の変化球」という言葉が広まった47年当時や第1回日本シリーズのピッチングを筆者は直接見ていない。若林と深い親交を持ったのは、西武ライオンズのヘッドコーチになった63年からで、西鉄担当記者としてだった。毎夜、私が試合の原稿を書き終わるまで球場近くの天ぷら店「天安」という店で、入り口近くのカウンターの右端に席を決めていて、豆腐にマヨネーズをつけ、ビールを飲みながら私を待っていた。それから「レッツ・ゴー・ナカス」だった。以下の話は、そのころ、たっぷり聞かされた話だ。

 「七つの色」なんて、そんなもの、あるわけないよね」。カーブ、スライダーにシンカー、ナックル、ときにまじえたシュートなどを加え、それらをとっかえひっかえ投げ分ければ“七色”にはなっただろうが、若林は「スピードに差をつけたことで打者によけいに“多彩な球”に見えたのだろう」と言った。緩急の差と内、外角コースへの投げ分け、それもストライクかボールか、ぎりぎりのきわどいコースへの投げ分け。それが「多彩な変化球」になり「七色」へと形容も変化していった。

 それは、若林がコーチに就任したときの西鉄のエース稲尾和久の話で分かる。もう、かつて日本シリーズで3年連続巨人を倒したときのような剛速球はカゲをひそめ、悩んでいたそのころの稲尾に、若林は言った。

 「打たれたくないから空振りさせよう、三振を取ろうと考えて投げることはないよ。打たせて凡打にとってもアウトじゃないか。ボール球を打たせるんだ」

 コントロールに定評のあった稲尾だから、あえて言った。「そのボール球を見送られたら?」。そのとき若林は“待ってました”とばかりに答えた。

 「ストライクゾーン内での球の変化に比べれば、ストライクゾーンからボールゾーンに向けての変化は2倍も3倍も複雑になるはずだよ。バッターというのは、ストライクゾーンだけで勝負しては打たれる確率が高くなる。ストライクゾーンからボールゾーンへの変化だからバッターは手を出して失敗する」

 のちに稲尾は言っている。
「あの“七色の変化球”というのは、ストライクとみせかけたボール球を打たせることだったんだな」。それこそ“芸”というものかもしれない。

1カ月考えた、第1回日本シリーズの第1球

 もうひとつ。42歳7カ月の日本プロ野球初の日本シリーズ第1戦先発の話。いかに千軍万馬のベテランとはいえ、公式戦わずか4勝の投手を初の大舞台へ第1戦先発とは“冒険”に過ぎる。「自分から希望したという話もあるが」と聞いたら、「あれは湯浅(禎夫)監督の考えだった」と即座に否定した。「でなければ“第1球を何にしようか”と約1カ月も、考えに考えることなんかなかった」と。

 セ・リーグ初の優勝チーム・松竹ロビンス打線のトップ打者は、その年の盗塁王(74盗塁)の金山次郎。きわどい球でも積極的に打って出る強気の打者だ。「考え続けたあげく、打ち取る球はシンカー、と決めた」。その“打ち取る球”から逆算していって、その勝負球シンカーをキメるために、その前に“効果があるであろう球”は何かを考えていった。その結果が「第1球は外角わずかにハズれるボール球」だった。

 打ち気満々の金山は、必ず手を出してくれるだろうという読みだ。そこで手を出してくれ凡打に終わってくれればもうけもの、もし見送って「ボール」になっても、2球目も「ボール」の判定覚悟で今度は内角へ、シュートをかける。次に外角低めへのストライク、という計算。だが、その計算通り外角低めへのきわどい球もボールになってカウント0‐3。そこからが“勝負”だった。次はど真ん中のストレート。続いて先の外角へのきわどい球で2−3。そして予定通りのシンカーで三ゴロ。それで落ち着いた。あとは「日本シリーズ史」の記録が示す通り、延長12回、3対1の完投勝利。最後の打者も金山で、打ち取ったのは4球目の内角シュートだった。

 この日本プロ野球史初の日本シリーズは、SFシールズのフランク・オドゥール監督と日本占領軍のGHQ経済科学局・マーカット少将のバッテリー、打席にヤンキースのジョー・ディマジオが立った始球式で知られるが、もうひとつ、有名な話に、若林とマーカットの試合前の会話がある。マーカットが「勝てるか」と言ったとき、若林が「MAY THE BEST TEAM WIN(強いチームが勝つ)」と答えたら、マーカットが応じたという。「YOU MUST WIN」

 私は晩年、天ぷら店で待っていてくれる若林コーチに申し訳なく「たまには休みましょう」というと、返ってきた言葉はひとつだった。「WE MUST GO」

 そのおかげで私は、若林の若き日の房夫人とのラブ・ロマンスからピッチング論までたっぷり聞くことができたのだった。(文中敬称略)

若林忠志(わかばやし・ただし)
1908年3月1日生まれ、米国ハワイ・オアフ島出身。マッキンレー高在学中からノンプロのハワイ朝日軍で活躍。28年、カリフォルニア州の日系チーム大和軍のメンバーとして来日。本牧中に半年だけ通った後、法大に進学し、東京六大学で活躍。川崎コロムビアを経て、36年阪神創立と同時に入団。エースとなり、その投球は「七色の変化球」とうたわれた。39年には30勝、42年から監督を兼任。46年、38歳で阪神復帰。50年、毎日創立に際して移籍し、53年監督に就任。同年限りで引退。MVP2回、最多勝利投手1回、防御率1位2回。63、64年西鉄コーチ。64年殿堂入り、65年没。通算成績は、528試合、237勝144敗、防御率1.99。

週刊ベースボール 2004年 6月 7日号掲載

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