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この人にこの技あり

田村大五(小社顧問)

第11回:白石敏男の逆シングル捕球

一塁手の経験と茂林寺の猛ノックで生み出され、拍手に育てられた美技

巨人が第1期黄金時代を築く基礎となったと言い伝えられる、「茂林寺の猛ノック」。その主人公となり、ノックを受けたのは、当時わずか19歳の青年だった。炎天下、あるいは強く、あるいは弱く、あるいは高くバウンドし、あるいは地を這い……、吐いても、倒れても、なお続く激烈なノック。そかしその中から、青年は一つの技をつかんでいた。のち白石敏男その人の代名詞ともなる「逆シングル捕球」である。

旧制中学を出たばかりで再建への「いけにえ」に

 久しぶりに阪神の元監督、現役時代は「一代の名遊撃手」とうたわれた吉田義男さんに会って“むかし話”を聞いたあと雑談に入ったら、こちらから聞いたわけでもないのに「藤本(敦士)はうもうなりましたなあ」とつぶやくように言い、「トリタニ効果ですかなあ」と重ねた。04年の阪神遊撃手の座。開幕前はいろいろと話題の多かったエリート・ルーキーにとっても、みっちりと鍛えられた藤本をしのぐことは容易ではなさそうだ。

 「遊撃手と猛練習」というといつも白石敏男(50年から勝巳)遊撃手の“遠い昔の回想録”を思い出す。

 「ワシ、広陵中学(旧制)を出たばかり。東京へ出てきても西も東もわからん。人のうしろからついていくだけの、ま、いうてみればホンの子供だった」

 ギョロリと大きい両目。太いまゆ。引き締った唇。ずんぐりした体。年配の映画ファンならご存知だろう、一昔前、ジェームス・ギャグニーというギャング映画の主人公を演じた小柄な名優がいた。“似ている”ということで「和製ギャグニー」とも呼ばれた。一見、怖そうだが、後年、カープの監督や巨人に戻ってヘッドコーチや二軍監督を務めたとき、若い選手や担当記者に「お父さん」と呼ばれ慕われた“心優しい人”だった。

 36年、誕生したばかりの巨人に入ったとき「まわりはみんな、東京の六大学で活躍した大スター選手ばかり。ワシの出る幕などありゃあせん。もっぱらみんなの道具運びよ」

 そんな“中学生”がチーム再建のための“標的”されたのだ。

 2度目のアメリカ遠征から帰国した(36年6月)チームは「アメリカ帰りをハナにかけ、慢心しきった、たるみきったチーム」(藤本定義)だった。遠征留守中に監督に就任した藤本は「あまりのだらけように」驚きあきれ、一度は「辞任するしかない」と思いつめたほどだ。だが慰留され、チーム再建のための“助言”に三原脩を口説き、「たるみきった選手」に対し乾坤一擲(けんこんいってき)の勝負に出る。それがいまなお語り継がれる「巨人伝統の基礎を作った」といわれる「茂林寺の猛ノック」だった。

 「ワシャあ、まだ子供だったからそういう複雑なチーム事情は、よう分からんかった。あとで聞いて“ハハアそういうことか”と―」。白石は「何年たっても、あの練習だけは忘れようとしても忘れられん」と言う。あらためて当時のことを思い出してもらったのは、野球殿堂入りが決まったあと、東京・笹塚駅近くの喫茶店でだったが、約2時間の間、「もう一杯、ええかのう」とコーヒーを3杯もおかわりして日ごろの訥弁(とつべん)とは打って変わって珍しく能弁だった。それだけ強烈な思い出だったのだろう。

 「8月の終わりごろだったと思うけどな、毎日、暑うて暑うて。いきなり群馬のハズレ、まわりはところどころにワラブキ屋根しか見えん、石ころだらけのグラウンドに連れていかれて、グラウンドに立っているだけでもクラクラした」

 そこで藤本監督(当時33歳)の白石への猛ノックが始まった。
「大和球士(当時随一の野球評論家)さんの名物語で有名になったけど、ワシャ、参った」

 その大和球士の記述。
「藤本のノックは巧妙をきわめた。あるいは強く、あるいは弱く、あるいは高くバウンドし、あるいは低く地を這(は)った。ヤマをかけられなかった。ヤマをかけてスタートしようとすると、その逆をつかれた。残暑は午後三時、気象台が華氏九十四度の炎暑地獄だった。だが、白石への猛ノックは延々と続けられた。しまいに、胃の中はカラッポなのに吐いた。吐いて倒れた。それでもなおノックは続いた」

 藤本に言わせると「慢心しきって練習もしなかった(沢村、スタルヒンら)投手団が、自主的にランニングを始めた」のは、そんな鬼気迫る光景を見てからだったという。人間の心に訴えるのが、その炎暑の中の猛ノックにあったということか。藤本はそのとき「これで巨人は立ち直ると確信し、白石には心から感謝した」という。

 「一国一城の主」を自認して血気盛んなスター集団の中にあって、白石は無口で純朴な少年だった。そういう少年を選んで一種の“いけにえ”にしたのは「プレーは粗かったが、リストが強く鍛えればモノになる」とみたからでもあった。

無理だと思ったら、打球が飛び込んできた

 そして白石は言う。「あの耐えられんようなムチャなノックの中から、ワシャあ、ひとつのものをつかんだと思っとる」。それが、白石遊撃手の代名詞になった「逆シングル捕球」だ。

 「ワシはもともと足と肩には自信があった。初めはゴロの捕球に自信がないから、慎重に確かめ確かめ捕って、ぎりぎりのところで一塁へ投げて間一髪という場面が多かった。それも肩に自信があったから。そのうち左右に一歩踏み込んで捕れるようになった。“とても届かない”と思っていた三遊間深いゴロに手が届くようになってくる。一度、ムリだとは思ったが、追うだけ追って左手のグラブを逆シングルで出したところにスポリと打球が飛び込んできた。無意識だった。そのとき無意識に逆シングルで手が出たのは、おそらく広陵中時代から長く一塁手だったからだと思う。一塁を守っていて、二塁方向に悪送球がきたときはいつも逆シングルで捕っていた。そういう習性がとっさに出たんだろうなあ」

 公式戦に遊撃手として起用されるようになって、ときに三遊間深いゴロに逆シングルで飛びつくと、スタンドから拍手が起きるようになった。

 「自分では意識していなかったのに、それ(拍手)に気がつくようになるとうれしくなってしまう。するとね、次第にそれを意識して練習するようになるんだなあ。もし、ワシのあの捕球も“名物プレー”といわれる中に入るとしたら“名物プレーというのはそういうものじゃあないかと経験上、思うなあ」

 白石は、自分が鍛えられたノックを、笑いながら「ムチャなノック」と言った。理屈や理論を超えた世界。その白石が、それから28年後、2度目の広島カープの監督時代の64年、親会社・東洋工業のコンピューターを駆使したデータを基に日本プロ野球史上初の「王シフト」を編み出すところが野球人生の妙味だ。クリーブランド・インディアンスの監督、ルー・ブードローがテッド・ウイリアムズ相手に編み出した特異なシフトは「ブードロー・シフト」と監督の名前を付けて呼ばれたが、こちらは「白石シフト」とは言われなかった。

 「ワシが人のアイデアに乗っかったものじゃ、それでよかろう」。そのことに関してはあっさりしたものだった。(文中敬称略)

白石敏男(しらいし・としお)
50年より勝巳。1918年4月15日生まれ、広島県出身。広陵中では一塁手として35年のセンバツ準優勝。36年に巨人に入団して遊撃手となり、第1期黄金時代の一員となる。戦後は、46年パシフィックに入り、ノンプロの植良組を経て48年巨人に復帰。50年、広島の創立に際して移籍。この年ベストナインに選ばれた。53年から監督を兼任。55年、一塁手に転向、56年限りで現役引退。監督は60年まで務めた。逆シングルの名手として知られる。62〜65年、再び広島監督。72、73年監督補佐。85年殿堂入り、2000年没。通算成績は、1359試合、1574安打、84本塁打、571打点、210盗塁、打率.256。

週刊ベースボール 2004年 6月14日号掲載

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