ちょっと用があって出かけたらまたJRが遅れており、しかも乗った時点では8分遅れだったのが南大高で2本続けて優等列車を待避とかやられたせいで駅に着いたら14分遅れ。1時間に1本のバスに乗り継ぐ予定だったのが見事置いて行かれましたと、そういう話。仕方ないからタクシー飛ばしたらバス運賃の14倍くらいかかってな orz。もうちょっと真面目に走らせてください。>JR東海
さてその途上、いま書いている原稿に関連した調べ物で、以前に買って途中で置いておいた一ノ瀬俊也『明治・大正・昭和軍隊マニュアル:人はなぜ戦場へ行ったのか』(光文社新書2004)を読んでいたところありゃと思った記述があったのでご紹介。
夫れ輜重兵の任務は、実に重大なるものにて、各兵の活動し得るも、
活動し得ざるも実に彼等の手裡に存せり(......)
だが激励「マニュアル」のおもしろさは、そうしたまっとうな、文字通りの「模範文」だけを掲載しているわけではないことである。
同じ河村の『軍人送迎 祝辞弔祭慰問文範』(略)は、「某富豪の輜重輸卒として戦地に赴くを送る文」なる文章を掲載している。金持ちの息子にして素行の悪さゆえ郡中の嫌われ者「運野芳蔵」が一輜重輸卒として戦場へ行かされるのを送るという趣向である。「足下が輜重輸卒として、今回満洲に赴くことは、富尾仁久無君の通知に由りて承知せり(......)軍人の頭上には、貴賤もなければ上下もなく、貧富もなければ尊卑もなし、唯年齢に達せしものは、当籤して兵士となるのみ、故に足下のごとき百万の富を有する富豪にても、軍隊中に在りては一個の輜重輸卒たるに過ぎざるなり」
お前のようなまっとうでない人間は、輜重輸卒でも務めて反省せよ(......)と勧告するのである。逆にいえば、輜重兵とは運野のような人間にでも勤まる「卑」しい仕事だというのである。 [101-3]
あのまさかあなた輜重兵と輜重輸卒が同じものだと思ってるんじゃあるまいね。輜重兵科の将校から下士官兵卒、つまりこの頃だと上等兵・一等卒・二等卒である「輜重兵」(狭義には兵卒だけを指すのではないかとも思う)に対して、そこに入らないのが「輜重輸卒」。現役3年の輜重兵が、二等卒でも腰にサーベルを下げて乗馬長靴を履き、馬の上から輸送を管理するのに対して、彼等に管理される実働部隊が輜重輸卒で、まあ主には馬の轡とりですわな。現役は3ヶ月限定、地位は二等卒の下、一等卒や上等兵への進級もなしという地位で、まあだから徴兵検査で甲種合格になるような立派な壮丁ではなく、乙種とか丙種の補充兵役からというパターンが多かったらしい。金持ちや高学歴者で体を鍛えていないと普段は偉そうにしていても補充兵役から輜重輸卒、一方で貧しい農家の小倅が頑健な肉体を生かして華の近衛歩兵というような事例が典型的に想定されるわけ。「軍人の頭上には、貴賤もなければ上下もなく、貧富もなければ尊卑もなし」というような言葉の背景にあるのは、従って、兵站業務や輜重兵という兵科への蔑視というよりは階級格差の大きい戦前社会において陸軍の持っていた(擬似)デモクラティックな要素への・貧困層庶民層からの期待だと言った方がよろしい。
ちなみに日露戦争期の第11師団における人数構成が見つかったので紹介しておくと、中心となる歩兵が4個連隊で司令部コミ11714人に対し、騎兵連隊566人、砲兵連隊1724人、工兵大隊788人など。これに対して輜重兵大隊と輸送用の馬の管理をする馬廠をあわせて1569人もいたのだが、このうち輜重兵科の士官・准士官が14人、下士官が47人、上等兵と一二等卒であわせて112人だけ。残りの大多数が何かというとそれがつまり輜重輸卒で1246人。「輜重兵」でも大隊では稀少価値のある存在で、他方「輜重輸卒」が有象無象であるというのがよくわかると思う。「輜重輸卒が兵隊ならば、チョウチョウトンボも鳥のうち」という俗謡はよく知られているが。つまりチョウチョウトンボなのは「輜重輸卒」であって、「輜重兵」ではないのだ。
念のために言うと、他の兵科から輜重兵科が低く見られていなかったとか、日本陸軍に兵站軽視の発想がなかったと言うつもりはない。特に士官学校から任官する場合に輜重兵科は極めて人気がなかったとはたびたび指摘されていることだし、陸軍大学校の入学枠がごく狭く限定されていたことも事実だろう。日露戦争期はともかく、自動車化が遅れて二次大戦期まで馬と輜重輸卒(昭和17年から輜重特務兵)に頼り続けたことという事実からも陸軍が全体として兵站とそれを担う輜重兵科を軽視し続けたことが示されているのかもしれない。しかしそれは輜重兵や兵站業務への民衆の視線とも、輜重輸卒の位置づけとも別の問題である。
念のため、やはり一ノ瀬が輜重兵(全体)と輜重輸卒を混同していると考えられる個所をさらに引用しておく。前の引用部に引き続き、戦後の「輜重兵に対する蔑視観」(というのは馬から落馬していると思うわけだが)を示している(と一ノ瀬が考えている)部分。前掲河村『軍人送迎歓迎慰労』にある「輜重輸卒の凱旋を祝する文」に、こうあるという。
これについて一ノ瀬は、「これでは歓迎と言うより慰めの文章である。輜重兵とは『駄馬の身代わり』であって、この官吏や運野のような金持ち、つまり『花々しき戦闘』には耐え得ない惰弱な者の仕事に過ぎないという、同時代人の輜重兵観が透けてみえる [104]」と言うのだが、すでにここにある混乱は明らかだろう。輜重輸卒とは確かに「『花々しき戦闘』には耐え得ない」ものに割り振られる「駄馬の身代わり」的な仕事なのであって、かつ一般社会(「地方」)においていくら権勢を振るっていても陸軍の基準で「惰弱」なものには問答無用で強制されるという、本人にとっては悲劇、普段その権勢者に苦しめられている側にとっての喜劇の舞台なのであった。そして、繰り返すが、このような「輜重輸卒」が社会からどう見られているかということは、その輜重輸卒を使役する「輜重兵」がどう見られているかということと直接には関係しない。この部分における一ノ瀬の記述からは、輜重兵と輜重輸卒の区別を理解していなかったために「軍隊マニュアル」類の意味を読み違え、昭和陸軍の「非合理性」という物語りに安易につなげてしまったこと、それによって「民衆」の中にある対立関係とそこから生まれてくる(擬似)デモクラティックな陸軍への同調と期待という要素を見逃してしまったという同書の問題点を見て取ることができる。後者については、日本陸軍を「擬似デモクラチック」と切り捨てる際に丸山眞男がそれでもきちんと指摘していることであるし、それが生まれてくる基盤である学歴貴族の社会との関係については、高田理惠子先生が縷々述べていることなのにね、と思うわけである。あ〜軍事史・社会史の研究者なのにこれかあ、じゃあやっぱりGleichschaltungも知らなかったのかなあとか、余計なことまで思い出してしまったことであった。
なおこの本全体の感想について言うと、良い材料だったのに味付けが凡庸極まりなかった残念な作品ということになるだろうか。ポイントは、「国家」と「社会」という時に対立した欲望を持つ要素の区別ができていないこと、また上記の点にも現れているように、「社会」の中にある無数の「個人」の対抗関係が理解できていないことである。
たとえば一ノ瀬は、日露戦争期に出征兵士を出したムラから送られた慰問状を「国家のための死を強いる『集団脅迫状』」[87]とする見解を肯定的に評価する。しかし、それが「集団脅迫状」としての効果を持っていたことは事実だとしても、死によって守ることを求められていたのは「国家」なのだろうか、「ムラ」なのだろうか。ムラが求めたのはムラを犠牲にしても国家を守ることではなく、ムラがその一部として含まれる国家を守ることではなかったのだろうか。だとすれば、そこに込められた欲望は(もちろん国家がそれを歓迎し促進しただろうことは疑えないとしても)ムラ自体のものであり、国家の欲望と同一ではない。
あるいは、輜重輸卒として駄馬同然に使役される「判任官」をからかう視線は、彼を官吏として処遇する国家ないし政府のものなのだろうか、彼を含む学歴貴族に支配される大衆や、政府から疎外され敵愾心を燃やす(たとえば私学出身の)亜インテリのものなのだろうか。すべてを国家と人民の二極構造でのっぺりと塗りつぶすことによってこのように多様な読み解きの可能性を見失わせてしまった筆者の論述は、あたかも塩と唐辛子の味しかしない料理のようだと思ったことである。
どうもありがとうございます。
「輜重兵」「輜重輸卒」確かに混同してしまっていますね。
著者本人としてはなぜ昭和期に兵站が軽視されるようになったのか、その由来を明治にさかのぼって説明しようとしてこのように書いてしまったのですが、そこで「民衆の疑似デモクラティックな陸軍への同調と期待」が落ちているというご指摘はその通りであり、今となっては弁解の余地はありません。
あと、近代日本の戦争において「ムラを守る」もしくは「国を守る」という発想がどれだけあったのかはよく考えてみたいと思っています。戦争は太平洋戦争末期を除きいずれも外地の利権確保のため外国でやっているのであり、そこに「祖国防衛戦争」的な発想は意外と無かったんじゃないか、と想像しています。今のところ想像するだけですが。
ところで拙著の刊行は2004年ですが、高田先生の『学歴・階級・軍隊』は2008年であります。「知らんのか」とおっしゃられましても、筆者としましては「当時は知りませんでした」としか申し上げようがございません。
私は不勉強で大屋先生のご著書を拝読したことはないのですが、もしや「時系列に沿って学説史を整理する」ことすらもお出来になっていないのではないかと思うと、ゆうべは心配で眠ることができませんでした。
自分の記憶が正しければ,東大の北岡先生の日本政治外交史の授業でも「輜重輸卒が兵隊ならば」は日本陸軍の兵站軽視の例として(授業の合間の小話ですが)触れられていたいたと思います.自分も含めてかなり誤解していた方は多いのではないでしょうか.
>一ノ瀬俊也さん
どうもこれはご丁寧に……と最初のコメントを読んだときには書こうと思ったんですが、とりあえず私は「『文学部という病い』が2001年に出ています」とでも書けば良いでしょうか。あるいは、もちろん多くの場合において著書には元になった研究業績があるので、1994年の「「文学部」の問題:高橋健二と東京帝国大学」とか、さらにさかのぼって「外国文学者のディスクール」(1991年)とかがあるよな、とは思います。ただこれらについては「学歴貴族の社会との関係」をひとつの主題にしてはいても軍隊との関係を直接扱ったものではなく、また率直に言えば畑がかなり違うでしょうから、「知らんのか」と言うようなものではないでしょうね。
というかそもそも私は「『学歴・階級・軍隊』を知らなかったのか」というようなことは一切書いていませんよね。「知らなかったのかなあ」と書いたのはGleichschaltungについてで、それは日本陸軍の(擬似)デモクラチック性や学歴貴族の問題と直接には関係ない……ということはご存知ですよね。お願いだからわかっていると言ってくださいね。まあいいや。とにかく問題にしたのは民衆の中の対立関係とそれに由来する陸軍への同調という話ですが、それが古くは丸山眞男、最近は高田理惠子先生に論じられていると書いたらそれは例示であって中間に何もなかったはずはない。そういう問題が議論される土台とか状況とかに気付きませんでしたかという話なんじゃないですか。具体的には坂野潤治先生の一連のお仕事とか(『昭和史の決定的瞬間』は間に合わないのかな)、立花隆の共産党研究にもそういう側面はあるでしょうし、より証言に近い方に寄せれば春風亭柳昇『陸軍落語兵』とかも挙げられますかね。それを後端の方に飛びついて「俺の本よりあとに出ている」と噛み付いたってじゃあ前のものは全部見逃したんですかということになるし、しかも「これだ」と決めてかかったものとは別に明確に前に出ているものがあるわけでね。ご不快だったのはわかりますが噛み付くんならもう少し落ち着いてテクスト読んだ方がいいんじゃないですか、そちらの・皮肉を意図したであろう言辞をひっくり返してぶつけるような真似はしませんけどね。
ところでまあ釈迦に説法みたいなことはしたくないんですが最初のコメントの内容についても一言のみ申し上げると、私個人は日清・日露とそれ以降のあいだに断絶があるんじゃないかという通説的な(通俗的な、かもしれませんが)見方にまだ魅力を感じています。というのは、そもそも戦争のあり方自体が日露~WWIで大きく変わるわけで、日本軍はその変化を見逃した・対応できなかったという側面の方が強いんじゃないかと。端的に言うと旅順では日露双方とも濃色の軍服で戦ってたんで、近代戦というものに遭遇してはじめてその消費する物量生命のすさまじさに困惑するわけです。日本の場合はさらに元々は国土防衛用で設計した軍隊で、外征に適した構造でもなかった(平時の師団はほぼ内地にいます)。防衛戦の延長として海外で日露戦争を戦い、必要とされたものと現実のギャップに気付きながらも、勝ってしまったためにそれ以降の変化が抑止されて以後の惨状につながると、まあ予算不足や軍縮条約など他の要因もあったでしょうが、そういう性格の方が強いのではないかと思います。
戦争に対する観念についても、日露期には二六新報の「露探」騒動のようにある種のヒステリーが社会を覆うところがありますが、日中戦争の頃には戦争は外地のもの・動員された兵士と職業軍人のもので内地は好景気に浮かれていたりして、またそのギャップが皇道派軍人の憤激の種になったりするわけでしょう。もちろん「本当はどうだったか」というのは別の問題として検証すべきことですが、日露が防衛戦争=自分の問題として比較的広範囲に受け止められていたのに対し、WWIやシベリア出兵・日中戦争は他人の問題、書かれた通り「外地の利権確保のため外国でやっている」ものと見られたのかなという気がします。そうだとすれば、太平洋戦争期のイメージを日露以前につなげるのもそう簡単ではあるまいと、まああくまでこれは(すでに書いた通り)通説に依拠した印象です。
>東大法学部卒さん
ども。北岡先生の授業は受けたことがないのですが、「輜重輸卒が兵隊ならば」が日本陸軍の兵站軽視を示しているということ自体は間違いでないと思います。上に述べたように、この俗謡を歌った「普通の人たち」には輜重輸卒を軽視する理由があったと思いますが、陸軍が兵站を重視していれば彼らではなくもっと優秀な人材をそれにあてるとか、機械化するなどの方法を選んだでしょう。社会から軽視される人に任せきりにしたことに「陸軍の」兵站軽視が現れている、しかしそれは「普通の人々が」(輜重輸卒を、ではなく)兵站業務を軽視していたということではないというのが、このエントリの趣旨でした。
検索から来てなかなか面白かったんですが、しかしあれ程欧州大戦とその後の動向を研究してああいう形に至った国軍関係者なら「日本軍はその変化を見逃した・対応できなかった」と言われるとまあ困りますわな。より正確に言えば「その変化に対応したいとは世界中の誰も考えていなかった」という話なのかもしれませんが。
ドゥーエ主義も機動戦志向も「2度とあんな戦争をしない」為のもので、日本軍は極めて忠実にそれを学び、日中戦争で見事結実させている訳でして。もちろん理想としての高度国防国家には遠く及ばなかったわけですが。