1967年に「新宿ブルース」が大ヒットした。歌手生活50周年を迎えた今年は新曲「酔いどれほたる」も好評だ。「自分では波乱万丈だとは思ってないんです。誰の人生にも浮き沈みがあると思いますけど、くじけそうなときに応援してくれるファンと背中を押してくれるスタッフに恵まれてるんですね」と振り返る半世紀には、さまざまな物語があった。
出身は広島。生後6カ月で被ばくした。
「でも、自分が原爆に遭っていることを知ったのは中学2年のとき。爆心地からわずか2キロの自宅で、灰をかぶって顔が真っ黒だったと母親から聞かされました。抵抗力のない子供ですから普通なら死んでます」
当時、十数年を経て原爆症を発症する子供が増え社会問題化していた。
「9歳までは愛媛県の松山の祖父母の家で育って。生き別れた母と再会してからは大阪に住んでましたから。原爆のことも知らなかったです」
母親に勧められ保健所へ原爆症について自ら聞きに行ったという。
「いずれ出産するときに子供に障害が出る可能性があると…子供ながらに私は結婚しちゃいけないんだ、と思ってました」
母親は「女ひとりで生きていける術」として、踊り、歌、演技などあらゆる芸事を習わせた。
それが実を結び、念願かなって64年に歌手デビュー。だが同じ年に、同じレコード会社から、小林幸子、都はるみがデビューした。「会社としての(私の)推しは、全くなくて」と逆風が…。
「それは、売れてないから仕方がないんですけど。いいなぁ、売れたいなぁ、と。テレビの歌謡番組に売り込みにいっても『枠がない』と断られ続けましたね」
「新宿ブルース」も、周りからは反対された楽曲だった。「新宿以外の地方の人は買わないだろう、って。それに、暗い歌ですし。レコーディングのときにディレクイターから『楽譜どおりに淡々と歌ってくれ』と言われて。これは売れるはずがないと思ってましたよ」と、期待はなかったのだ。
ところが、哀愁を帯びたこの歌は大ヒットし、その後のご当地ブルースの先駆けとなった。
「自分でも、50年も歌い続けてこられると思わなかった。続いている理由? それは人を裏切らないこと。それと、いい歌は健康管理ができてないとダメ。これからも頑張りますよ。この世界には定年がないから」
破顔一笑。名曲とともに歌い続ける。
■おうぎ・ひろこ 1945年2月14日、広島県出身。64年8月、「赤い椿の三度笠」(日本コロムビア)でデビュー。新宿キャンペーンが実を結び、67年の「新宿ブルース」がミリオンヒットとなって翌年NHK紅白歌合戦に出場(2年連続)。女優としても68年からは日活「昇り竜シリーズ」などの女侠客映画に出演、東映の藤純子、大映の江波杏子と人気を競った。2013年に歌手生活50周年。