歴博で開催中の特別展「忍たま乱太郎 忍者の世界―夏休みは歴博へ急げ!の段―」の内容紹介もいよいよ6回目。今回は「伊予と忍者の段」の紹介です。
忍者といえば伊賀や甲賀がすぐに思い浮かびますが、伊予には忍びはいなかったのでしょうか?
このことに関する史料を展示しています。
一つは「清良記」という軍記物です。これは南伊予の大森城(現宇和島市三間町)を本拠とした土居清良(どいきよよし)という武将の一代記ですが、この中で丹後(たんご)・丹波(たんば)という二人の忍び頭が清良に仕えていたとの記述があります。
「清良記」によれば、丹後・丹波は普段は博労(牛馬の売買)やさまざまな商いをしながら、近隣地域や他国の情報を収集し、清良に報告していたようで、戦時には敵陣に忍び込み、戦力を偵察して報告したりしています。
清良に忍びの技を語る場面もあり、その中で、丹後は、秋に屋敷に侵入する技として、あらかじめ鳴く虫を飼い慣らしておき、いざ忍び込む際にその虫を放して、虫の鳴く声で侵入する際の気配を消す「虫合わせ」という術があると記されています。
「清良記」の別の場面では、丹後・丹波の仲介で土居清良のもとに近江国甲賀の鉄砲鍛冶を呼び寄せ、鉄砲の生産を始めたとの記述もあり、尼子さんがしばしば「乱太郎」の中で言及される「忍者と火器の結びつき」を示唆しており興味を惹かれます。
丹後・丹波の名は確実な史料には登場せず、彼らが実在した人物かどうかを確かめるすべはありませんが、在地勢力同士が戦闘行為に至る以前にさまざまな偵察や諜報活動を担う存在がいたこと、それぞれの在地領主の支配領域を超えて活動する博労や商人はさまざまな情報を入手し、それを必要に応じ領主たちに伝える存在であったことは、戦国期の伊予でも十分に有り得たことではないでしょうか。
もう一つは、幕府の隠密が四国の城郭を偵察した時の記録です。寛永4年(1627)8月から10月にかけて、幕府は公儀隠密を伊予はじめ四国に派遣し、外様大名の各居城と城下町を実地に調査させました。伊予では松山城・今治城・大津城(大洲城)・宇和島城が対象となりましたが、この時に隠密が作成した調査報告書と絵図の写しが残されています(いずれも伊予史談会蔵)。企画展示室内では宇和島城・大津城(大洲城)の絵図及び探索書の写しを展示しており、同時開催している「松山城下図屏風の世界」展の中で松山城の絵図の写しを展示しています。
幕府の隠密は、遠望及び郭内への侵入による観察、事前に侵入させた情報提供者や城に出入りする職人からの聞き取りのほか、大津城では二の丸東側(この隠密は方位を90度誤認しており、実際は南側)は「足」にして300足=1町4反2間だったと記され、約52センチメートルの歩幅で二の丸の堀に沿って歩き、ひそかに長さを計測したことが分かります。
幕府の忍者が伊予で実際に使ったこの「歩測の術」は、エントランスでも体験できますので、ぜひお試し下さい!