日めくりプロ野球1月
【1月15日】1950年(昭25) 金ナシ、寮ナシの広島カープ、原っぱでお披露目式
広島の初代監督を務めた石本秀一(前列右)の晩年。75年広島が初優勝した時はテレビの前で無言のまま涙を流した。左は優勝を報告した古葉竹識監督
Photo By スポニチ |
寒風吹きすさび、砂塵が舞い上がる広島市の旧西練兵場跡。スタンドもなければフェンスもない、ただの野原で広島カープの結団披露式が行われた。
集まった“最初の”カープファンは約1万人。広島商高出身で戦前阪神の監督も務めた、石本秀一監督が一番名前が知られていたほどで、ほとんど無名の選手ばかりのカープ1期生の20人が入場すると“おらがチーム”の誕生に拍手が鳴り止まなかった。
長々とお偉方の挨拶が続き、当初遠目にながめていた人たちも、選手がお披露目のキャッチボールを始めると、その周囲をグルリと取り囲んだ。間近で見られる形となった選手は内野狭いエリアに押し込まれるような状態に。続いてトスバッティングが始まると、今度は声援が飛び交い、球拾いを買って出る人さえ出た。
そんな家族的な和やかなスタートを切ったカープだったが、現実には笑えない毎日だった。
広島球団の設立趣意書によると資本金は2500万円。大口株主は広島市などの自治体、後に親会社となる東洋工業(現マツダ)、中国新聞社などが名を連ねたが、1月15日のお披露目までに集まった金はわずか500万円。それから半月たっても収入は一切なかった。
2月1日のキャンプイン。石本監督の最初の仕事は集金だった。巨人の厚意で地元へ戻った白石勝巳助監督にチームを預けて、自らはスーツを着て各企業、自治体を訪ねた。
寒さをしのぐために火をおこすのにも薪もなければ炭もない。キャンプ自体、広島総合球場(現、県営球場)を県の計らいでタダで借りてのスタート。広島が県外でキャンプをするようになったのは、球団創設から13年後の63年。鹿児島・鴨池球場と宮崎・日南でキャンプを張ったのが、初めてだった。
原爆で崩壊した街を野球で復興させたい−−。球団創設の熱意は石本監督以上のものが自治体にも企業にもあった。しかし、話が金になると、思うように集まらない。市長や助役が寄付を約束しても「そんな大金がどこにあるんだ」と、反市長派の議員から反対を食らったり、戦災から立ち直る途上の企業は気持ちがあっても設備投資などでまとまった金はすぐに出す余裕がないというのが現状だった。
それでも石本監督は広島以外にも呉、三原、福山などの主要自治体をあたり、なんとか選手の給料分は2月末ごろまでに確保。遅配ながら3月10日に公式戦が始まる頃には支給できた。
ただ、合宿費が払えなかった。当時、カープの若手選手は西日本重工業広島造船所(現、三菱重工業広島製作所)にあった3棟の社員寮のうち、1棟の10部屋を借りていた。原爆の爆風で傾いたまま修繕もできなかった建物の家賃はいくらだったのか定かではないが、決して高額ではなかったはずの部屋代が払えず4月にはとうとう引き払うことになった。家賃を請求されたわけではなかったが、居候の身分はつらかった。
こんなに苦労してまで球団を設立しようとした話の始まりは49年9月までさかのぼる。球団設立の動きは2つのルートから沸き起こった。1つは中国新聞社と県財界有志、もう1つは戦前に存在した職業野球チーム、名古屋金鯱軍の理事だった広島出身の山口勲が元衆院議員の谷川昇(広島選出)に働きかけたものだった。
戦前、警察権力を握っていた内務省の役人だった谷川は47年に衆院選で当選したものの、占領軍総司令部(GHQ)の公職追放で浪人の身だった。何も力を貸せない己の現実を恨んだ谷川だったが、息子が大切に持っていた野球選手のメンコやブロマイドを見て、「荒廃した広島の街で子供たちに希望を与えるのは野球だ」と一念発起し立ち上がった。
谷川はカープの名付け親である。当初、平和の願いを込めて「ピジョン」(鳩)や「レインボーズ」(虹)なども候補だったが、最終的に鯉を意味する「カープ」にしたのは、広島城が別名「鯉城」だったのと、広島市内を流れる太田川には名産の鯉が泳ぐことに由来したものだった。また、出世魚の鯉をニックネームにすることで、惨害を乗り越えて、広島の街が力強く立ち直る象徴に球団がなってほしいという願いを込めたものでもあった。
ところで、広島はパ・リーグに所属していたかもしれないチームだった。広島が球団を設立するという話を耳にした毎日新聞の社長は、谷川が内務省にいた頃に付き合いがあったことで、パ・リーグへの参加を打診。谷川もその気になっていたが、毎日側は自社の球団設立に追われて谷川に声をかけたことをいつの間にか忘がてしまっていた。
焦った谷川がセ・リーグの立ち上げを考えていた読売側に相談すると、安田庄司副社長が即快諾しセへの加盟が決まったのであった。
広島の苦労話は数え切れないほどある。それを「樽募金」など、県民の後押しで一つずつ乗り越えてきた。市民とともに作り上げてきた歴史を持つ唯一のプロチームは、あと2年で還暦を迎える。
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