まだゲーセンで消耗してるの?
読んだよ。普通にいい話だね。いい話なんだよ。よかったね。だけど、なんで「短編小説」なんて宣言したの? その辺の構造ですげぇ気になったので書く。
気になる点1:限りなく創作くさい
ブコメでは「よい話!」と大絶賛なのですが、どうしても気になるのが「短編小説」っていう部分。実際に体験したことであれば、わざわざ小説にする必要なんてありません。「新宿でおばあさんにあった→道案内した→話をした→都会の人は冷たいな→増田に書いたよ」で充分通じる話なのに、どうしてわざわざ手間をかけたのか?
理由1:客観的っぽい思い込みをスラスラ書けてしまう
自分みたいなひねくれた人でない限り、情景を想像しやすい文章と言うのは読み手も抵抗がなく読めるし、書き手も「これは小説だ」と意識をすると思ってもいないことがスラスラと書けるものです。だから「小説風」という時点で「あることないこと」虚実が入り混じっている可能性が高いのです。つまり、この体験が事実だとしても皆の心に響いただろう「都会の人の冷たさ」は書き手が自分によって都合のいいことを書きまくっている可能性が大です。
つまり、「気持ちを吐き出す」のに小説というツールは非常に向いていない。吐き出すなら増田の体験談として書いたほうがよっぽど自然だ。でもこの増田はわざわざ手間をかけている。不思議だねぇ。
理由2:そもそも増田本人の体験じゃない
トラバでも指摘されていたけれど、こういう書き方はパクリの可能性が出てくる。実際にあったことなら実際に書けばいいのに、どうしてわざわざ「客観視」するような形式をとるかと言うと、余所から題材を引っ張ってきて適当にリライトしている可能性があるからです。もちろん自分が経験したことではないから、ある程度想像で補って、最初と最後に「自分の体験したことです」と書いておけばいい、みたいな感じ。
ひとつだけ言えるのは、この短編小説は「全てがノンフィクションではない」ということだ。もし増田が似た体験をしたことを題材にこの小説を書いた場合、多くの脚色が入ってしまっている。しかし、読み手は「本当にあったことだから全部本当なんだろう」と思ってしまう。
気になる点2:「本当にあったこと」は気持ちを動かす
実際にあったことなら小説にする必要はないし、小説なら小説でそのまま「増田文学」として投稿すればいい。それなのに「昨日実際にあった出来事」を「短編小説」として投稿するということは、それによって注目を集めたいということの表れに他ならない。
これは古くは「一杯のかけそば」、最近だと「ゲーセンで出会った不思議な子」現象だと思う。もし「これは本当にあった話です」がなかったら、または単なる増田の体験談で終わっていたら、これだけ反響はあっただろうか。「これは本当にあった話です」という魔法の言葉で、何故か人の心は動きやすい。映画でもよく「感動の実話を再現!」という触れ込みで宣伝を売っているけど、それ「実話」でなかったらダメなの? っていつも思う。
たぶん我々は「本当にあった出来事」というのに無意識に価値を見出しているんだと思う。大事なのは物語の筋であって、今回の増田文学の「周りの人をちゃんと見ようね」というエピソード自体は否定できないし、よい主張だと思う。しかし、宣伝方法がおかしいことで一気に胡散臭くなっている。この前置きをすることで物語に価値を与えて、不十分な部分を「実話」という絶対的正義のもとに押し切ろうと言う魂胆が見え隠れしはじめる。よく読むと、「実際にあることなんだろうか」という疑問が湧いて出てくる。
今回は主張自体がふんわりとしているのでいいけれど、この形式に慣れてしまうとやれ「江戸しぐさ」だの「ありがとう水」だのに結びつきやすい。「本当にあったことでいいことを言っているんだから嘘でもいいだろう」というのは、カルトに陥りやすい考え方だと思う。嘘を嘘のまま受け入れることも大事だし、本当のことを本当だったと信じることも大事だ。でも、本当にあったことだからという理由で嘘か本当かわからないことを真に受けるのは非常によくない。はてなをやってる人はその辺のリテラシーが非常に高いけれど、この手の文章は余所に拡散されやすい。おそらく改変されてfacebookで出回って、疑いもせず「感動したらシェア祭り」が開催される。余所でやっているのは渋い顔して自分たちも似たようなことやってない……? というのがこの記事の主旨です、はい。
まとめ
もし増田が悪気なくこの増田文学を投稿したのであれば、悪手であったと思う。素直に体験談にするか完全に小説という形で出すべきだったと思う。ちなみに自分は「読みやすい文章」というのは「たまたま自分の主義主張と合致した都合のいい文章」だと解釈しているので、「人の親切心を利用して拡散させる文章」として読みました。そして、おそらく善人アピールというより「お前の良心を試してやる」「実は周囲に気が付いてないお前らを糾弾する」目的があると思います。
それで善が実行されればいいんだけど、こういう文章って「自分はダメだったな」の再確認にしかならないと思う。「ほっこり」「いい話」の裏にはそういう自己嫌悪が紛れやすい。素直に「お年寄りには親切にしようぜ!」でいいのにこうやって良心にチクチク刺さるような文章に慣れてしまうとよくないと思うので、用法容量は守ったほうがいいと思いました、まる。
おまけ
短編小説風ということで、「実話である」らしい文章の気になる部分を容赦なく取り上げます。
大通りの横断歩道を渡りきったところで、歩き食いもみっともないからと、立ち止まって新作のマックシェイクを飲んでいた。
イヤホンからONE OK ROCKが聴こえる。もう片方の手でスマホからFacebookをチェック。
はたから見れば、よくいる今どきの若者だったことだろう。
この状況を冷静に考えると結構無理がある気がする。何で主人公がここにいるのかという説明になっていない。実際にあった出来事なら、「友達と遊んだ帰り」など一人で新宿にいる状況を説明するのが自然だし、暇でぶらぶらしているだけならその旨が書いてあるはずだ。しかし、その疑問は「歩きながらマックシェイクが今時の若者なのか」という更なる突っ込み要素で掻き消えるし、後半でその疑問は明らかになる。
なんの気もなく目を向けながら引き続きマックシェイクを飲んでいると、突然おっさんに話しかけられた。
「西武新宿駅って、ここから結構歩きますよね?」
非常に気になるのは、「おっさんは何故こいつに話しかけたのか」というところ。おっさんとおばあさんという組み合わせだと、間違いなく耳にイヤホンを突っ込んでマックシェイク飲んでる今時の若者には声をかけないと思う。おそらく同年代の無難な人に声をかけるだろう。
「杖をどこかに置いてきちゃってねぇ。傘を買ったのよ、ほら。」
聞いたわけではなかったが、嬉しそうに杖をあげるおばあさん。
理解に苦しむ誤植。コピペで改変ミスっていう線は心情的に考えたくない。
「あぁ、そうですね!! その方が、いいかもしれませんね!」
(面倒くさくないと言ったら嘘になるけど、"やらない善よりやる偽善"かもな。今日はもう予定もないし、俺も付き合うかぁ、、! )
細かいところを考えると、半角と全角や句読点の付け方にまるで一貫性がない。もし本気であった出来事を「短編小説風」にしたいのであれば、少しは見え方に気を配ると思う。しかしこの文章にはそれが感じられない。むしろどこかからパクってきたものをところどころ改変した跡だと言ってもおかしくはない。
おばあさんは、八王子で友達と会ってきたらしい。
住んでいる場所的に、新宿を経由して帰るのはどう考えても遠回りだったが、そのことは言わないでおいた。
どうしておばあさんはやって来た道を帰らなかったんだろうね。そして横断歩道のある大通りの看板の前まで、そうとう迷っているのではないだろうか。というより、そこまで歩いて行って通りがかりのおっさんに道を尋ねるより、そういうおばあさんなら電車を降りた時点で駅員さんに乗り換えの場所を聞いていると思う。それとも、一度場所を尋ねて、再度迷ってしまったのだろうか。
「夜景綺麗ですねー。」 カメラが趣味だというおっさんは、そう言いながら写真を撮る。
新宿は、道端はさておき、たしかに夜景は綺麗だ と俺も思った。
40年の月日を、おばあさんは今この場にいる誰よりも感じていたに違いない。
そのまましばらく、夜の新宿の景色をじっと見つめていた。
おっさん道案内に集中しようよ!
おそらく読者の意識に新宿の夜景を印象付けようとしたのだろうけど、案内という大役を果たしている途中にわざわざ夜景撮っちゃうおっさんからtwitterで「新宿なう。おばあちゃん道案内中♪」とか画像を上げていそうな雰囲気が出ていて信用度が下がる。もしかしたら「おっさん=無責任」「俺=真面目」の構造を無理矢理出そうとしていたのかもしれない。この文章だと「おっさんが写真を撮るのを待っていた」と読みとれなくもない。おっさん最低だな。
あと、新宿のJRの入り口から夜景を取るおっさんが謎です。もっといいポイントあると思うんだけど。
当然Suicaなど持っていないおばあさん。切符俺が買ってきますよ と言うと財布を取り出した。
「はい!これ、あげる!」
そう言って差し出されたのは、1万円札。
このやり取り、普通はここで「1万円札」という単語でいろいろ考えてしまって他のことは考えないんだけど、肝心の「切符を買った」ことが一切書かれていない。なんかうやむやのまま終わってしまった感じがする。結局切符はどうやって買ったんだろう? おばあさんの1万円から買ったのか、それともおばあさんが別に切符代を出したのか、主人公が立て替えたのか。もし事実だったらそこまで書いてある気がする。
…そうだ。これは俺だ。
普段の、そしてさっきの俺。
スマホでネットを開いて、音楽を聴く。いつもやっていることじゃないか…。
思えば、電車内で困った人などそうそう見かけない。
きっとそれだって、見えていないだけだったんだ。俺も。
駅では我先に歩くし、歩きスマホもする。
階段の不便さだって、考えたこともなかった。
そう思ったら、どんなツラして目の前の人に声をかけたらいいのか、わからなくなってしまった。
目の前の、気持ち悪い自己中な人々。
俺だって、そんな人達の一員だったのだ。
笑えた。そして、ゾッとした。
単純に見てしまうと、短文の畳み掛けはむやみに情緒に訴えようとしているところがある。いわゆる「ポエム」って奴だ。ここで最初の「道のど真ん中でマックシェイクを啜っている主人公」が思い出される。「あー、これが伏線かー!」と思ったら作者の狙い通りだ。つまり大げさな仕込が物語に含まれているということだ。
幸い、ようやく着いた次の駅で人が降りた。
座ろうとするサラリーマンに、
「すみません!そこ、座らせて頂いてもいいですか?」
と急いで声をかける。
一瞬「?」という顔をされたが、おばあさんを見て納得してくれた。
「そうやな。その通りや。」
その一言の暖かさは、今も俺の中に残っている。
「俺、次の駅で降ります。あと4駅ほどですので、降りそびれる事のないようにお気をつけて下さい。」
「今日は本当にありがとう。楽しかったわぁ。」
何故関西弁? 「その通り」って何が?
「座らせて頂いてもいいですか」「降りそびれる事のないようにお気をつけて下さい」は学生だから頑張って敬語を使った結果なんだろうと思うことにした。実際に耳で聞くとすごく不自然な言い回しだ。
ドアが閉まってもおばあさんは笑っていた。
でも電車が発車した際、不安そうな顔をしたその一瞬を、見送っていた俺は見逃さなかった。
何この「かっこいいこと言って締めよう」感。この場合、おばあさんが不安そうな顔をしたのではなく、主人公が勝手におばあさんに「不安そうな顔」を重ねた結果だと思う。つまり最後に「おばあさんは俺がいないとダメなんだよな」っていうことが言いたいらしい。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。
いつも思うんだけど、最後まで読まれない前提の文章なんて書く意味ないと思うんだけど。この一言、誰に対してのお礼なんだろうね。
以上、あくまでも「実話を元にした小説」という観点でのツッコミです。お年寄りには優しくしましょう。ちなみに自分は早朝の電車の中で倒れかけたことがありますが、誰も気が付いてもらえなかった過去があるので割と人のことは気にした方がいいと思っています。そんだけです。