<2014年7月 東スポ携帯サイトより>
〝超人〟ハルク・ホーガンが7月10日、WWE日本公演の大会ホストとして
7年ぶりに来日した。ここ30年ほどはWWE(旧WWF)の…いやプロレスそ
の物のアイコン的存在として「世界で最も有名なプロレスラー」であることは
間違いない。
ホーガンは、もともと米国のTVドラマ「超人ハルク」をモチーフとしたキャラ
クターレスラー。今やホーガンは知っていても、超人ハルクを知らない世代も
増えてきたし、入場時にTシャツをビリビリに引き裂いたり、日本国内におけ
るホーガンの異名が〝超人〟だったりすることに名残があるくらい。米国で
スーパースターとなる前は、たびたび新日本プロレスに来日し、日本のファン
にもスーパースターとなっていく過程を見せ続けてきた歴史がある。
80年の初来日時は〝銀髪鬼〟フレッド・ブラッシーをマネジャーに筋肉を誇
示するマッチョ系選手として登場。年末には当時の外国人エースであったスタ
ン・ハンセンとタッグを結成し、MSGタッグリーグ戦で準優勝。以降はアントニ
オ猪木ともタッグを結成し、この頃から海外向け土産の定番である「一番Tシャ
ツ」を着こんで「イチバン!」を連呼するキャラが定着。82年には「サンダーリッ
プス」なる謎のカタカナが描かれた黒いガウンを着て入場。当時「あの『サ
ンダーリップス』ってのは、一体どういう意味だ?」と中学校の教室でも話題に
なっていたものだが、やがてサバイバーによる主題歌「アイ・オブ・ザ・タイガー」
の爆発的大ヒットとともに「ロッキー3」が日本公開されると、それが同作に出演
したホーガンの役名(ロッキーの敵役のプロレスラー)であることが判明したの
だった。
83年6月の第1回IWGPの決勝戦では試合中に舌を出して失神した猪木を
下して優勝。この頃からケーブルTV網を利用して全米侵攻(それまでの米国
プロレス界は、あくまで各地区のテリトリー製を重視する業界だった)を開始し
たWWFの看板選手として活躍。翌84年1月にはアイアン・シークを下してW
WF世界ヘビー級王者に君臨。もう、おいそれとは簡単に来日はできない大物
タレントへと化けたのだった。初来日の80年から数えて、わずか4年。モスクワ
五輪からロサンゼルス五輪までの、わずかな期間にホーガンはスーパースター
への階段を駆け上ったのである。
今も謎が多い第1回IWGPの猪木失神事件。勝ったホーガンはオロオロし、
試合を終えていたタイガーマスク(佐山聡)もリングに駆けつけ、後日、坂口征
二副社長は「人間不信」と書き置きして失踪。その夏、新日本プロレスはクー
デター騒動という大激震に見舞われ、人気絶頂のタイガーマスクは引退を表明
し、現在の総合格闘技のパイオニアである修斗(当時はシューティング)の確立
に情熱を注ぐことに。
この時、タイガーマスクの引退がなければ、タイガーは当時の新日本とWWF
の提携関係により、ホーガンとともに全米侵攻の二枚看板として活躍するプラン
が水面下で進行していた。実際、タイガーは82年に実験的にWWFのツアーに
参戦し、大絶賛を受けており、ブルース・リーやジャッキー・チェン以来のアジア
ンスターとなっていた可能性は高い。そうなればクーデター余波で発進したUW
Fも存在しておらず、それらをベースに進化発展した国内の総合格闘技は存在
しなかったかも知れない。
プロレス界の世界統一王座を謳った壮大な「IWGP」構想は、先代のビンス・
マクマホン代表が取り仕切っていたWWFの協力なしには実行できなかった。
だが30年後、世界のプロレス界を事実上、統一してしまったのはIWGPではな
く、旧NWA→WCW、AWA、ECWなど各ライバル団体を過去のアーカイブ映
像を含めて買収し、世界150か国でテレビ放送され、今や「プロレス」と「WWE」
を同義語として認知させてしまったWWF(現WWE)だった。
色んな運命の分岐点となった83年6月2日。現在につながるプロレス&格闘
技ビジネスの鍵を握る猪木、ホーガン、タイガーマスクは同じ蔵前国技館にいた。