小説 『人災派遣のフレイムアップ』 
第1話 『副都心スニーカー』


 

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◆◇◆ 6 ◇◆◇

 
 
  水が流れる音がどろどろと暗闇の奥から鳴り響き、おれの足元を人工の川が流れてゆく。下水道という言葉から予想していたよりは、悪臭や汚水も遥かに少なかった。かつては生活排水が注がれていたのだが、再開発に伴い新規に下水網が整備された結果、今ではそのほとんどは遠くから流れ流れてきた雨水なのだそうだ。
  ここは臨海副都心の地下に広がる下水道の一つ。地中を貫く分厚いコンクリートの円柱の中、横合いに穿たれた穴から注がれた下水が合流し一本の川となり、下り坂になっている円の底をゆるやかに滑り落ちてゆく。直径五メートル以上もある管に対して水位は三十センチ程度のため、おれ達は下水を避けて歩いてゆくことが出来た。靴音が響き渡り、ここが地下であることを否応無しに思い知らされる。
  おれはバンから持ち出してきた七ツ道具、強力ペンライトのアマ照ラス君(そういうネーミングなんだ、おれがつけたんじゃない)を掲げて奥へ奥へと慎重に進んでゆく。
「うう、こんなことなら一回事務所で着替えてくればよかった……」
  その後ろから同じくアマ照ラス君を掲げてついて来るのが真凛。おれの行動選択肢が気に入らなかったのか、ひたすらさっきから愚痴っている。トンネル内に反響して愚痴が倍増しになる。
「なんだよ、ちゃんとインナーは着込んであるんだろ?」
「そういう問題じゃないよ!ボク制服着てるんだよ!?」
  じゃあ機関銃でも持たせておけばよかったかねえ。いや、ブレザーではアカンか。おれはこいつの愚痴を無視することにした。だいたいおれより先に呼び出されていたくせにロクに着替えてないというのは如何なものか。ちなみにおれはといえば暑さに耐えつつ長袖を着込んできた。おれらスタッフは任務中、少なくとも活動しやすく調査に支障ない服装を心がけるものである。幸か不幸か分厚い地面は夏の日光を遮断するらしく、むしろ地下は涼しいくらいなのだが。
「だって、ジャケット着て戦うものだと思ってたし……」
「あのねえ真凛。おまえうちの仕事を押込強盗か対テロ鎮圧部隊かなんかだと思ってるだろ」
  図星だったらしく真凛は沈黙した。おれはヤレヤレと頭を振る。
「今回は金型を取り返せばいいんだから。こっそり潜ってこっそり取ってくりゃそれでいいの」
  だからこそこうして、地上の喧騒に背を向けて明かりも差さない下水道に侵入などしているのだ。
 
 
  あれから事務所に連絡を入れてみたら、うちの電子担当である羽美さんにつながった。どうやら豚のジョナサン君の件は科学よりも腕力がモノを言う段階になったようで、ヒマになったから帰ってきた、ということらしい。これ幸いと、「下水処理施設」をキーワードに調査してもらったら驚くほどあっさり情報が手に入った。建てては壊し、壊しては建てのコンクリートのジャングルの地図の作成は容易ではない。まして地上と異なり、数メートル先に通路があっても見ることが出来ない地下世界となれば尚更のことだ。ビルの地下、各種公共施設の埋設ケーブル、下水道、緊急避難通路……。官公庁でさえ存在を知らない古い地下施設もあると聞く。立体的に無数の構造物が組み合わさったこの世界の完全な地図を把握している人間はこの世にいないのではないだろうか。無数の公式非公式のデータを丁寧に重ね合わせていった結果、かつてこの地に存在した下水処理施設から延びる下水道の一本が、ザラスビルの地下施設の極めて近くを通っている、ということがわかったのである。
「まだ埋められてなければ、だけどな……」
  近所の公園に埋設された貯水施設のマンホールから潜入(いちおうその程度の基礎訓練は受けているのだ。仕事柄必要なので……)し、問題の下水道まで進んでゆく。羽美さんが即席で作ってくれたCADデータを、事務所から支給されたHDD内蔵携帯『アル話ルド君』(当然違法改造だ)にダウンロードしてあるのでまず道に迷うことは無い。今のところ、地図どおりに進んでいるハズだった。
「ううう、明日学校なのに……臭いついたらどうしよう……」
  ここまで来てまだ諦めの悪いヤツ。
「なんならここで脱いでいってもいいぞ」
「絶対やだ」
  わがままなヤツめ。だがどうやらそれで吹っ切ったのか、真凛も愚痴るのは止めておれと並んで進み始めた。しばらくは緩やかな下り坂になっている下水管を奥へ奥へと進む無機質な時間が過ぎる。下水管の終点はより大きな下水管に連結しており、水を避けてそちらに飛び降り、さらに下ってゆく。そんなことを幾つか繰り返してゆくうちに、いつしか二人がしっかり並んで歩けるほどに下水管の直径は大きくなっていた。なおも歩き続ける真凛の肩をつかんで引き止める。
「なに……?」
  そこでおれの表情を見て、真凛も言葉を仕舞う。こっからはお仕事モードだ。
「壁脇、脛の高さに、乾電池で動くタイプの簡易型センサー。鼠は通さず、人間なら歩いても伏せても引っかかる、ってヤツだな」
  ザックの七つ道具、羽美さん作成の万能センサー『ル見エール夫人』の威力は覿面だ。
「解除できる?」
「やってみましょ」
  ザックからドライバーセットを取り出し、おれは脳裏に仕舞いこんだマニュアルをもとにちょっとした日曜工作をするハメになった。常に発しつづける信号を殺さず、センサーのみを無力化する。おれ達は角を無事に曲がってさらに進む。だが三十メートルほど歩き、いよいよ下水道とザラス地下施設がニアミスするポイントに出る、というところで、『ル見エール夫人』がまたしても警告を発した。そのコメントいわく、
「他に同様のセンサーが十数個」
「ほんと!?」
  残念ながら本当。っと、ル見エール夫人の警告信号は続く。
「……ついでにもうひとつ言うと、人間大の熱源反応がいくつかある、ってさ」
「ということは、ひょっとして……」
  うなずいて、おれは一つ深々とため息をつく。ドライバセット出すのヤメ。
「バレバレ、ってことなんだろう?」
  下水道の奥に投げかけた声は、幸か不幸か無視されることなく回答を得ることが出来た。
 
 
「やアやア、ヨく来て下さいマシタ」
  ペンライトの向こうで佇むアングロサクソン系大男の口から滑り出たのは、深夜番組で外国人がやっている通販を地で喋らせたらこうなるだろうなー、という類の軽薄なものだった。服装は昼の店員服とは打って変わって、バリバリの戦闘用迷彩服。
「こんナ遠いトコロまで良く来テクダサイましタ、ジャパンノ災害会社」
  男はサングラスをかけたまま、ニヤニヤと挑発的な笑みを浮かべて腕組みをしている。
「へぇ。いつのまにかウチの評判も海を越えたってコトかな?」
  おれはのんびりとザックにル見エール夫人を仕舞いこむ。
「外資系って割には意外とサービス熱心なんだな。こんな敷地外まで警備の出張サービスかよ?」
「ノーノー。アナタはミステイク。ココはザラスのエリアでース」
「って……どういうこと?」
  外人の胡散臭さに飲まれていた真凛がようやく我に返る。
「オウ、ステキなジャパニーズレディ。ジェイ・エイチ・エスの生徒がコンナ下水に制服を着てくる、コレはとても良クナイことデス」
「あ、いえその。お気遣いどうも」
  真凛がバカ丁寧にお辞儀をする。ジェイ・エイチ・エスが中学校ジュニアハイスクールの略だと教えてやるべきかかなり迷ったが、おれはとりあえず話を進めることにした。
「嫌な造りだとは思っていたけどね。緊急時の下水道への脱出路なんてお約束すぎじゃないか?」
  おれは男の奥の壁へアマ照ラス君の焦点を合わせる。LEDの強力な光は、バッチリとそこに穿たれた扉を照らし出した。
「GREAT。ボーイは飲み込みが早くて助かリマス」
  セキュリティ上、ザラス中枢と地下施設は確かに繋がっていたが、よもや有事の際に重役さんたちがこっそり脱出するための通路まであるとはね。そりゃ警備が厳重で当然だ。おれたちは裏をかくつもりで大本命を引いてしまったことになる。
「後ろ暗いとは思ってたけどな。大方普段は脱出口じゃなく、ろくでもないモンの搬入にも使ってます、ってトコロかね?」
「OH!ウチのクライあントハ健全な企業体ネ。ザラスの取引に後ろ暗イモノガ在るトデーモ?」
「新作フィギュアの金型とか、どうだろね?」
  男の雰囲気がわずかに変わった。組んでいた腕を解く。
「地上フロアは通常のセキュリティに任せておいて、裏は裏でアンタが護る、って手筈かい」
  おれは半歩足を引き、やや半身になる。
「ノンノンノン。ジャスタリトゥディッフェレン」
  男は大げさに肩をすくめる。
「表から侵入したらドロボーさん。ドロボーさん捕まえたらポリスに引き渡すのがセキュリティのオシゴトです。でも、存在しテはいけない裏口から侵入するドロボーさんは、やっぱり存在しテはイケマセン。よって、存在をナクシテシマウベキ。それがワタクシのオシゴト」
「はあ。ちなみに存在しちゃいけない泥棒ってのは」
「ヤングジャップとヤングヤマトナデシコ。実にオ痛まシイ」
  ジャップとヤマトナデシコってそういう使い分けは正しいのか?
「あいにくと、荒事は得意ではありませんので」
「そレは奇遇、ワタシモソウデース」
  男は肩をすくめたまま、一つ指を打ち鳴らした。
「ダカラ、忠実ナ部下に任せるとしまース」
  がこん、とどこかでブレーカーが上がり、通路を光が満たす。合わせてだだだだだだ、と足音も控えめに進んで参りますは、通路の奥に控えていらしたコワモテの警備員さん約十名。手にはものごっつい警棒。こりゃやっぱりおれたちを捕まえてキリキリ背後関係を吐かせようとかそんなとこかね。
「曲者ダ!ヤッヂマイナァーー!!」
  そんなとこだけ変な風に日本語を覚えなくていいって。まるで時代劇のヤクザさんのように迫りくる警備員達を見て、おれはゲンナリした。
 
 
 
 

◆◇◆ 7 ◇◆◇

 
 
「のわっとと」
  おれはしまらない声を上げて、コンパクトな軌道で打ち込まれてくるバトンをどうにかかわした。格闘技の心得など更々無いが、それが却って幸いしたのだろう。なまじ受けようとでもすればそのまま電撃でお陀仏だった。電圧が空気を軋ませる独特の違和感が皮膚をかすめる。コレが護身グッズとかで流行りのスタンバトンというヤツだろうか。飛び退ったおれの視界の隅で、もう一人が通路に並んでいた真凛に襲い掛かる。体格差にものを言わせて組み伏せるつもりだろう。バトンではなく逆手で真凛の肩に手をかける。おれは目を覆った。ぐしゃり、と潰れる音がして、
  警備員が片膝を着いていた。真凛は直立のまま全くの自然体。ただひとつ、肩を掴んだ警備員の手に、重ねるように己の掌を重ねている以外は。まるでそれは、倒れた警備員が真凛の肩に手をかけて起き上がろうとしている、そんな姿勢にも見えた。
  ふぅっ。
  そんなかすかな息吹が空気を揺らしたとき、めぢっ、と嫌な音を立てて警備員の肘がヤバイ方向に折れ曲がっていた。たまらず響く絶叫。両者の姿勢は全く変わらぬまま。おれにバトンを向けていた警備員が思わずそちらを振り向く。プロにしちゃ致命的なスキだ。真凛がく、と腰をわずかに入れると、腕を折られた警備員はその肩を支点にくるり、とまるで自分から回転するように華麗に宙を舞い、反射的に大きく腕を振り回し……おれの目の前のヤツに思い切りバトンをつきこみながら衝突する結果になった。二人分の悲鳴と水しぶき。激痛と電撃で気絶した警備員が下水に浮かぶ。
「重心の制御がゆるいなあ……。歩き方から矯正したほうがいいよ?」
  ずい、と一歩前に進み出る真凛。おれはと言えば半歩下がって、
「よ、先生!よろしくお願いします!!」
  やんややんやと喝采を送る。
「あのねえ……」
  真凛のうんざりした眼差しは、目の前に突き込まれた二本のバトンによって遮断された。確かにスタンバトンの攻撃は相手を殴る必要はない。触れればよいのだ。ここですかさず二人同時攻撃を選択できる辺りはさすが、と思うが、今回は相手が悪すぎた。ジャブの要領で突き込まれたバトンは、だが寧ろ迎え撃つように踏み込んだ真凛の両手にまるで奇術のように手首を取られ捌かれている。彼我双方の踏込の勢いを殺すことなく、真凛の諸手が小さな円軌道を描く。四方投げ、という奴だろうか。警備員は吸い込まれるように宙を一回転し……それは同時にスタンバトンを突き込もうとしていたもう一人の警備員から真凛を身を呈して護る格好となった。上がる悲鳴、これで三人。いや、既にその時には四人目に肉薄し、顎と鳩尾に掌を打ち込んでいる。ついさっきパンチングマシーンで容易く今週のベスト記録を更新した当身を食らっては、いかに荒事のプロと言えどもひとたまりも無い。
  続く六人が気圧された、その趨勢を敏感に感じ取り、真凛は咆哮し、突進する。
 
 
  真凛の踏み込みの音が響くたびに大の男どもが宙に舞う。おれはすっかり観戦モードに周って、腕を組んで見物する側に回った。こう見えても、いや期待通りというべきか。我がアシスタント『七瀬 真凛』は、実家に伝わる古武術の正統継承者なんだそうだ。その戦闘力はバケモノ揃いのうちの事務所でも折り紙付き。中学生の時分には新宿あたりの夜の裏町でストリートファイトに明け暮れていたというとんでもない過去を持つ。しかも、そこで常に負け知らずのチャンピオンだったという。なんたって今でも新宿をとおれば「その筋」の人が腰をかがめて通り過ぎるというシロモノ。ガッコウの体育で柔道やりました、程度のおれでは百人どころか千人束になっても瞬殺されるのがオチだろう。このブッソウ極まりないアシスタントに年の差以前に戦闘能力で人間関係を位置付けられてしまってるせいで、おれの事務所内での発言権は近頃急速に低下中である。
  ふん、どーせおれはこのバイトでも味噌っかすさ。と、心の中で自嘲していると、
「どぅあっ、あぶねえっ!」
  真凛の暴風から逃れるように回り込んでいた警備員の攻撃。くそっ、ならやってやるよ。バトンと逆の腕でつかみかかってくる腕をかわして、向こう脛を蹴っ飛ばしてやる。悲鳴を上げながら警備員は後退した。ざまあみろ。と、
「このガキィ!」
  警備員さんの職業的忍耐も沸点を超えたらしい。
「やれやれ」
  おれはこの狂暴娘のような格闘技のプロではないが、一応標準レベルの反射神経は持ち合わせている。怒りに度を失ったテレフォンパンチもかわせないほど鈍くはない、つもりだ。一般人でも振りかざされる暴力に脅えさえしなければ、けっこう互角に戦うことも出来るものである。ようは慣れなのだ。言ってて自分で哀しいが。
  おれは怒り任せの大振りを沈みこんでかわし、伸び上がりざまに相手のごつい顎に頭突きを叩き込んだ。一撃必殺とは行かないが、相手はのけぞって崩れる。そこに追い打ちで両の手のひらで突き飛ばす。これも胴に入って、男は尻から下水の中に突っ込んだ。どうでい、なかなかおれも捨てたもんじゃないだろう?
  そうこうする間に警備員は軒並み打ち倒されていた。最後の一人はバトンに頼らなかった。その足を振り上げ、真凛に踵を斧のように振り下ろす。真凛は両腕を十字交差して防御。石同士をぶつけたような鈍い音がして、それで決着がついた。真凛が使ったのは痛み受け……踵落としを止めながら受けの一点に自らの体幹の力をたたきつけ、相手のアキレス腱をそのまま断つ技だ、というコトをおれは知っていた。
 
 
  かしゅうっ、と肺の中の空気を排出し、真凛が戦闘モードを解除するのを待っておれは近寄る。うかつに戦闘モード中に肩でも触れようものなら(故意か不可抗力かはさておいて)とっても酷い目にあう事は請け合いだ。
「いやいや、さすがは先生でございますナ!これからもどうかヨシナに……」
  言いつつ気絶してる警備員のおっちゃんからスタンバトンを拾い上げる。ま、おれが振って当たるとも思えないが、ないよかマシだろう。と、
「気に入らない」
  我らが用心棒先生は頬を膨らましご機嫌斜めのご様子である。ちなみにまあ、全員息はしている。この業界での戦闘行為がコロシまで発展することはまずない。つつましく市場を形成するためのささやかな同業者同士の不文律という奴だ。
「そんだけ暴れておいてまだ足りませんかこのオジョウサマは」
  そもそも人間ブン殴りたくてこの仕事始めたんだろうに。
「なんか言った!?」
  いえいえ。
「そりゃま、たしかに殴り合うのは好きだけど……」
  好きなのか。
「ああまで露骨に様子見に徹されると面白くないなあ」
「様子見?」
「こっちの手の内を出来るだけ覗いとこう、ってやり方だよ。これじゃこの人たちも災難だよ」
「ああ、なるほどね。お前の技をバッチリ見てったわけだ」
  おれは通路の奥の扉を見やる。本来厳重なオートロックが施されているであろうソレは、石ころが一つ挟まれており開きっぱなしになっている。倒れ伏す警備員達の中には、あのサングラスの大男はいない。最初から見物を決め込み、本番はあちらでどうぞ、ってことなわけだ。おれは手元の『アル話ルド君』を起動してCADデータを検証する。ここから先はブラックボックスと化している地下施設エリアだ。何が出るかは開けてみてのお楽しみ、と……。
「行くか?」
「もちろん」
  おれは扉を押し開けた。
 
 
 
 

◆◇◆ 8 ◇◆◇

 
 
  扉を潜るとそこは一転して、リノリウムの臭いが支配する密閉された地下フロアとなっていた。照明の無い中、コンプレッサーが低い唸り声を上げ、配電盤の制御パネルに灯る赤と緑の光が暗闇を僅かに緩和している。おれはアマ照ラス君を取り出そうとして、やめた。部屋の向こう側から明かりが漏れているのがわかったからである。無造作に突き進み、明りが漏れている扉を引く。そこはすでに照明が点灯しており、細長い廊下と坂が上へ上へと延びていた。周囲の壁と床に衝撃吸収材が張られているところを考えると、ここが「ろくでもないもの」の搬入路になっているのは間違いないようだ。途中幾つかの扉があったが、いずれもこれみよがしに開かれていた。まったく。いつもこうだとおれが怪しげな小道具を振り回したり、あのイカレヘッドの羽美さんが嬉々として電子ロックを解除したりする必要はないのだが……。搬入路を進んでいく以上、ゴールは決まっていた。最後の坂を登りきると、そこには巨大な空間が広がっていた。
  広大なザラスビルの敷地面積のおよそ半分、高さは5メートルにも及ぶ、ザラス地下金庫室。分厚い壁で仕切られた金庫の外壁の向こう側に、おれ達はたどり着いていた。地下空間は巨大な金庫を埋め込んでもまだ敷地が余りあり、こちら側の空間もちょっとした広場と言って通るほど。そこかしこに何かの機材や空箱が積み上げられている。そして、だだっ広い防壁の真中に、四角い扉が空間を切り取るように存在している。あの向こうに今回のターゲットがあるわけだ、が。
「ハーイ!ヨウコソまた会いマシタネヤングジャップ」
  おれ達と反対側の壁際、つい十分前に別れた男が一人、そこに佇んでいた。
「さっきはずいぶんやってくれたよね」
  再度戦闘モードに移行した真凛に前方を譲る。
「ハハー。ジャパニーズ古武道とはクラシック・スタイルね。ウチにもイマスヨ」
  やはり先ほどの戦闘は様子見だったようだ。確かにこの業界、『最初の一撃』で勝負が決する事が極めて多い。出来る限り相手の手の内を事前に調べるのは、基本戦略とも言えた。
「しかしまあご苦労さん。わざわざセキュリティを全開にしてまでお招き頂けるとはね」
  男はふふん、と鼻を鳴らす。
「アナタ達トハコウイウ処でユックリお会いしたカッタノデス」
『こっちはぜんぜん会いたくなかったわけだがね。とりあえず上司として気の毒な部下達の労災でも申請してやったら?』
  これ以上野郎のへたくそな日本語を聞くに耐えなかったので、英語で返答してみた。男はそれを聞くとひとつ首をひねり、
『使えん連中だよ。最初から殺すつもりでかかれと言っておいたのに……』
  ごく滑らかな発音が返って来た。
『そりゃちと酷いな。こちとら花のティーンだぜ?未成年へのお仕置きにしちゃあやり過ぎじゃないか』
  男はしばし沈黙した後、突然腹を抱えて笑い始めた。真凛が左腕左足を前に出し、いつでも事態に対処出来るように備える。
『いやあ正直最初フロアで見たときはとても信じられなかったよ。君達が『あの』フレイムアップのスタッフだとは到底ね。そこのお嬢さんの暴れっぷりを見てようやく得心が行った』
  男はゆっくりとこちらへ歩を詰めてくる。
『ウチも考課主義がちと行き過ぎていてね。ただ『守った』だけでは評価してくれんのだよ。『戦闘の末、対象を守り通しました』ってのでないとね』
『はん。ついでに『立ち向かってきた敵を倒しました』ならなお良しってとこだろ』
『その通り。ましてそれが……業界で知らぬもの無き『人災派遣』のメンバーなら尚更だ』
「ねえ、なんて言ってるの?」
「ようするにガチンコで殴りあいたいってさ」
  おれは投げやりに返答する。あわせて男が一歩前に出る。
『さてさて……君たちは一体誰なのかな?凶悪無比の『殺捉者』か。時間を支配する『ラプラス』かな?あるいは『守護聖者ゲートキーパー』?『西風ウェストウィンド』?……まさか『深紅の魔人』や『召喚師』だとすれば素晴らしいことこの上ない』
  男の体内から小さな音が無数に鳴っている。デジカメのズームボタンを押したときのような……アレだ。アクチュエーター音とかいう奴。
『ここまで来てもらったのはね。ここが一番俺達に都合が良いからさ。防音、防熱……障害物も足手まといの部下もいない』
  おれはうんざりした。こんなんなら最初っから真凛の言うとおりカミカゼアタックでもやっといた方が話が早かったぜ。
『ティーン相手に銃弾使用かい。随分厳しい業務方針だな』
  男が両腕をすい、と持ち上げる。手袋に覆われた掌は開かれている。
『なあに、同種の異能力者相手なら重火器でも足らんくらいだろ?』
  ちっ、とおれは舌打ちする。やっぱりこいつもおれたちと『同業』かよ!
『自己紹介がまだだったな。警備会社シグマ、特殊警備第三班主任……『スケアクロウ』』
  男の迷彩服が弾け飛ぶ。狙いは……おれじゃない!
「真凛!伏せろ!!」
  横っ飛びがてらのおれの叫びは届いたかどうか。男の両腕から奔った轟音と閃光が、地下施設を焼き尽くした。
 
 
  尻を爆風で煽られる形になり、おれは無様に頭から床にダイブした。顔面を床でおろし金のようにすられそうになるのを、どうにか横回転に逃がし免れる。
『達人級の武術家といえども、重火器の先制遠距離攻撃ではなすすべもなかろう』
  ザックを背負ったまま跳ね起きる。おれたちが先刻までいた場所には炎の海が出現していた。スプリンクラーが作動し、水蒸気があたりに振り込める。だが警報は鳴る気配が無い。こいつが細工して機能を停止しているのだろうか。
『ちぇっ、『シグマ』にゃあそんなのがいるとは聞いてたけど……実物拝むことになるたあね!』
  炎の海の中に立つ男……『スケアクロウ』が、おれの声に反応しこちらを向く。迷彩服に包まれたアングロサクソンの巨体はそのまま。だがその両腕は、オレンジ色を照り返す禍々しいクロームの輝きに包まれていた。今しがたものごっついナパーム弾を打ち込んできやがったその銃身が二本、男の両の腕から生えている。炎に浮かぶ、まるで腕の代わりに二本の棒が突き出ているかのごときそのシルエットは、まさしく『スケアクロウかかし』。機械化人間……。あまりと言えばあまりに安っぽい言葉だが、他に適当な言葉も思いつかない。炎が酸素を貪ってゆく。換気システムが作動する音が妙に間抜けに響いた。
 
  シグマ・コーポレーション。
  ここ十年足らずで日本に大々的に進出してきた外資系の警備会社大手である。欧米系の軍隊経験者や元警察関係者を中心に組織された営利団体で、こと瞬発的な機動力に関しては日本の警察では到底歯が立たないとされている。その職務内容は要人護衛、各種警護、巡回等。あらゆるセキュリティを総合的に手がけるプロ集団である。そして、世間一般には知られていないことだが、精鋭揃いの連中の中でも、『ごく特殊な護衛』任務に付く者が数十名存在する。『特殊警備班』……一般的とは言いがたい能力の持ち主が選抜され、その任に当たっているのだ。その中にはこういった、漫画紛いのSF野郎も紛れ込んでる、って噂だった。おれとしては半分以上信じちゃいなかったが、流石に実物を見せられては納得せざるを得まい。
 
『戦争で生身の部分が殆どダメになっちまってな。だが感謝もしている。コイツの精度はたいしたものだし……俺のフィーリングに応じて自動的に各種弾薬をリロードしてくれるって言う優れものさ』
  がじゃり、と左腕を突きつけられる。
『散弾だ。こいつは避けられないぞ?』
  ……こりゃやばい。ここから回避する方法はちっと思いつかないぞ。
「バイ」
  スケアクロウの銃身の奥から鉛弾が吐き出されるその瞬間。
  スプリンクラーと炎の鬩ぎ合いで生み出された濛々たる水蒸気が、一つの人間の形を取り――そこから突き出された掌がスケアクロウの脇腹に深々とめり込む!跳ね上がった銃身から散弾が撒き散らされ、天井を穿つ。
「……制服が、焦げた!」
  掌を放った体勢のまま、怒りの炎を背負い真凛が吼える。火の粉まではかわしきれなかったか、身に纏ったお嬢様学校のブレザーは所々煤と焦げ目でボロボロになっている。
「あれヲかわすとは!ファンタスティックなレディでスネ!」
  スケアクロウが己の右の銃身をまるで戦槌のように薙ぎ払う。多分両腕だけではなく、全身にもパーツが埋め込んであるのだろう。その膂力と速度は到底人に為し得るものではなかった。だが、真凛はその銃身が己に迫るその一瞬、銃身そのものをステップとして跳躍、コンパクトなモーションで回転。
「ずぇあっ!」
  がら空きになった顎に、縦軌道の変則後ろ回し蹴り。間欠泉のような勢いで踵を撃ち上げる。常人なら首の骨が折れるほどの打撃、だがスケアクロウはたたらを二、三歩踏むにとどまった。着地した真凛に出来た隙を逃さず、左腕から今度は9mmパラベラムが妙に軽快すぎる音を立ててばら撒かれる。真凛は着地の瞬間からスケアクロウを振り向くことさえなく横転しさらに跳躍、左銃身の死角となる右側に着地する。あいつに銃弾は効かない。おれには到底信じられないが、弾道が事前に脳裏に浮かぶとのことだからまず大丈夫だろう。だが真凛の打撃にはスケアクロウにそれほど通じているとは思えなかった。このままでは勝負はどちらに転ぶかわからない……。
  と、真凛が背中を向けたまま怒鳴る。
「なにやってんだよ!」
  何ってその、観戦を。
「こいつはボクが潰すから!アンタは邪魔だからさっさと取るもの取りに行く!!」
  ふと見れば、おれが背にした壁から少し離れたところに、金庫の扉が存在していた。
「……了解。んなデクに負けんじゃねえぞ!」
  お言葉に甘えて、おれは走り出した。すぐさま後方で銃声と爆発音が交錯する。
 
 
 
 

◆◇◆ 9 ◇◆◇

 
 
  結論から言ってしまえば、だ。
 
  世の中は生真面目な方々が考えるよりは遥かにいい加減に出来ているし、夢見がちな方々が想像するよりは遥かに味も素っ気もありゃしない、ということになる。
  機械化人間。超人的な戦闘力を持つ武術家。魔法使い。陰陽師。超能力者。吸血鬼。狼男。一人で一部隊を壊滅させるような凄腕の傭兵。特A級ハッカー。天才ドライバー。マッド・サイエンティスト。およそアクション系、ファンタジー系、伝奇系のコミックやら小説やらを見れば、まずこの中のどれか一つくらいは混じっているだろう。で、こういう連中が現実に存在するか、と問われれば、実は割とホイホイ実在してたりする。それも結構な割合で。
  では、そういった連中……一般人とは質、あるいはレベルが異なるひとびと……『異能力者』達にはすべて、愛憎交差する復讐劇の主人公や、あるいは苛烈な悪役、世界を支配する野望に燃えた黒幕、あるいは救世主といった役割が与えられるのか?と問われれば、答えは明確に”否”である。
  文明が未熟だった頃はいざ知らず、科学と情報が発達した現代においては、個人に宿る異能力が周囲にもたらす影響は恐ろしく小さい。
  例えば物理的な戦闘能力では、人狼や吸血鬼が如何に戦闘に秀でており、ヤクザや不良を容易に叩きのめす事は出来るといっても、武装した軍隊を正面きって相手に出来るほど強くは無い。空を飛べることは出来ても飛行機にはかなわない。力が強くても建機には及ばない。
  スーパーハッカーやドライバー、武道家はあくまでも(表面上は)人間の限界ではあってもそれ以上ではないのだ。機械化人間やマッドサイエンティストも同義。彼らは現代文明の先端、もしくは異質なベクトルではあっても、決してそのカテゴリーを逸脱することは無い。
  そして呪術や魔術、陰陽術。これらは長い歴史の間で現代文明の裏面とすっかり馴染んでおり、それらは『理解されてはいないが、知っているべき人はちゃんと知っている』レベルの物に過ぎない。例えば古代エジプトに『コプト語』というものがあった事は、大多数の人々は知らないしどうでもいいことだ。歴史学者なら知っているだろうが、話すことが出来るものは希であろう。だが、日常生活でコプト語でハンバーガーを注文するわけでなし、それで別に困る人間はさしていない。術法で出来ることは、大概が現代科学でもっと効率よく実現することが可能なのだ。実在しないとされるからこそ、世間様は魔術や呪術に憧れと畏れを抱くのである。実在を知り、その効能と限界を弁えている人間にとっては――実際のところ、長い時間をかけて修得するほど魅力のあるトピックスではないのだ。そんな時間があるなら普通車の免許でも取りにいったほうが何倍も有用である。
 
  これらを総合すれば、こうなる。
『異能力者は珍しくはあっても、さして貴重ではない』
  彼らの存在は一般人にはあまり知られてない。出会えば珍しいし、個別には憧れや嫉妬を抱かれる存在ではある。だが、彼らの能力のほとんどは設備と資金さえあれば充分に代替可能であり、社会的に大して影響を持ってはいないのだ。まれに世界征服の野望に燃える吸血鬼や選民主義を掲げる超能力者など、ベンチャー魂に燃えるカリスマが現れることもあるが、大概が一般世界の権力者達に潰されて終わってしまっている。特殊な人間が内在する百の力は、一の力を持つ凡人一万人が百年かけて積み上げた文明には決して打ち勝つことは出来ない、ということ。
  こうなってしまうと異能力者達の立場というのは非常に微妙なものとなってしまう。彼らは一般社会からいささか逸脱した存在ながら、そこから独立して己の世界を築けるほど異質ではないのだ。かつて異能力者が限られた世界で絶大な影響力を持つことが出来た神話と迷信の時代が終わり、中世辺りになるとこの流れは顕著になり、多くの異能力者は己の居場所を追い出され、あるいは見つける事に苦慮することとなった。
  だが、それが近代を経て現代に到ると、彼らにも、そして一般社会にも変化が訪れる。両者をつなぐ受け皿の登場である。
  居場所の無い異能力者に仕事と生活基盤を与える。そして社会に対しては、「設備や資金が充分ではない」状況で発生する難問を解決するための切り札を提供する。それは時として魔術師達の結社、邪悪な同朋を討つ吸血鬼達、正義の超能力戦士達だったそうだが。二十一世紀に入っての現在は、より包括的に様々な異能力者を取りまとめる組織がそれに代わっている。それがおれたち『フレイムアップ』や、あのスケアクロウが所属する『シグマ』のような『派遣会社』なのだ。
  企業間に起こる表立たないいさかいや、突発的に発生する災害。本人の強い希望により隠密に処理すべき案件。そういった依頼を(おおむね高額な料金で)各所から派遣会社が請け負い、所属する異能力者を差し向け解決させる。異能力者は己の能力を存分に振るって報酬を得る事が出来るのである。すでにこのスタイルは現代の経済の暗部にしっかと組み込まれており、各種トラブルにおける『切り札』として定着してさえいるのだ。
  そして、対立する両者が同時にこの『切り札』を用いた場合に発生するのが、今おれたちが繰り広げているような異能力者達による前近代的な戦闘なのである。
  おれたち『人材派遣会社フレイムアップ』はこの派遣業界の中でももっとも零細の部類に類別される。構成員は多少流動しているが十数人、しかもその大半がおれみたいなアルバイト員だったりする。大手派遣会社が数十〜数百の異能力者を抱えていることを考えれば、その規模が知れるというものだろう。ところがどっこい、どういうわけか『業界』内ではうちらは有名だ。任務達成率100%というのは嘘ではないし、ちょっとアレなメンバーが多いことも相まって、今ではすっかり『人災派遣会社』という異名のほうが通りが良くなってしまっている、というワケ。ロクでもない同僚がたくさんいると、おれみたいな常識人は苦労するんですよ、ホント。
 
 
 
  おれは振り返らずに壁沿いを走りぬく。もう少しで扉にたどり着く、そう思った刹那。おれは思いっきり横っ面を張られ、無様に壁に叩きつけられていた。
「な……何だよ?」
  よろめきながら立ち上がる。見るとそこには、愛らしい瞳でこちらを見上げる熊のぬいぐるみが一匹、ちょこなんと地面に座っておられた。まさか、と思ったのもつかの間、視界が急速に沈む。後ろから足を払われたのだ、と気付いた時にはべたん、と地面に大の字になっていた。振り向くと、そこには何たらいうアニメに出てくる愛らしい小動物のぬいぐるみがこちらを無邪気そうに見つめている。本能的な危険を感じて咄嗟に横転すると、どご、と鈍い音が一つ。今までおれの頭があった空間に、ボーリングの玉(14オンス)がころりと転がっていた。……危なく潰れた饅頭のようにあんをぶちまけるところだった。見上げれば空箱の上に陣取る黒猫の人形が二匹。おれは跳ね起き、壁を背にして構える。
  くすくす、とどこかから笑い声が聞こえたような気がした。それは錯覚だ。なぜなら、金庫室の各所、積み上げられた機材や空箱の向こう側から無数に姿を表した小さなモノたちの正体は……先ほどの熊のぬいぐるみ、UFOキャッチャーの景品、ゲームのマスコット人形……命ないモノたちだったからだ。それがまるで意志のあるようにおれを一斉に見つめ、こちらを取り囲んでいる。
「一階のアミューズメントフロアの景品……だよな……」
  おれは恐る恐る一歩を踏み出す。と、ぬいぐるみの群れがまるで堰を切ったかのように襲い掛かってきた。先ほどの熊が高々と跳躍し(!)おれの顔面の高さで回し蹴りを叩き込む。その途端、質量を無視した凄まじい打撃がブロックしたおれの腕に弾けた。とっさに顔面はかばったものの、今度は足首に鈍い痛み。見ればデフォルメされたワニのぬいぐるみが、がっちりとおれの踝をくわえ込んでいる。
「このっ……」
  手と足を無闇にぶん回し、熊とワニを振り払う。質量で言えばしょせんはぬいぐるみなのか、あっさりと吹っ飛んでいった。だが、地面に転がりすぐさま起き上がったその様を見るととてもダメージを受けたようには思えない。続けて休む間もなく飛び掛ってくる他のぬいぐるみを手で足で叩き落すが、これでは所詮気休めにしかならない。あっという間に背中に一撃痛打をもらい、そのままガードが崩れたところを一気に無数のぬいぐるみに押し切られて転倒した。
「痛て!痛て!痛ててぇ!」
  降り注いでくる打撃の雨を亀になって耐える。昔、新宿の飲み屋で美人のお姉さんといい雰囲気になったあと、裏道で彼氏だというアレな人にボコボコにされた事を思い出した。
  ちっ……。
  おれは亀の体勢から扉を見やる。距離としてはあと五メートルもないというのに、とてつもなく遠く感じる。ぬいぐるみどもはおれを円を描くように取り囲んでいる。こういう時、セオリーから行けば……。
「そこだっ!」
  おれは二、三発貰うことを覚悟で跳ね起き、ザックを人形の群れの向こう、丁度こちらを見下ろせる位置にある高さのダンボールに向けて思いっきり放り投げた。各種の機材を詰めたザックはそれなりの重量を有し、壁際に積まれていたダンボールの山を突き崩した。ダンボールの奥に潜んでいた人影は、おれの攻撃に怯んだ様子もなく、こちらを見て、ふふふ、とステキな微笑を浮かべてみせた。
 
 
 
 

◆◇◆ 10 ◇◆◇

 
 
  ぬいぐるみの群れが攻撃を止めたおかげで、おれはどうにか立ち上がり、彼女と話をすることが出来た。
「……やあどうも、またやって来てしまいました」
  このぬいぐるみを操っていた女性――門宮さんがポニーテールを揺らし、極上の営業スマイルでこちらを見つめてくださっていた。
「あまりお待ちする必要はなかったみたいですね」
  ダンボールの箱から軽々と床に降り立つ。その手に持っているのは……純白の鶴。といっても生きている鳥ではなく、紙で作った折り鶴という奴だ。その細い指に挟まれた鶴は、この殺伐とした部屋にはやたらとそぐわない。
「もっとお時間のある時に、と聞いたんで」
「残念ながら貴方の今夜はそんなに悠長ではないみたいですけど?」
「ええまあ。そういうわけでそこはこう、密度で補いたいというワケなんですが」
「あらそうですか」
  回答はそっけない。今門宮さんが着ているのは、夕方のときの店員のユニフォームではない。今後ろで苛烈な戦闘を繰り広げている『スケアクロウ』と同様の迷彩服だ。そしてその胸に輝くのは『シグマ』のエンブレム。……とほほ。
「改めまして。警備会社シグマ、特殊警備第三班副主任……『折り紙使い』です」
  まあ、下水道で敵が待ち伏せていた時点で三割くらいは予想していたんだけどね。最初っから誘導されてたってわけだ。
「はあ……。そういやシグマって、戦闘型と支援型のエージェントがコンビを組んで活動するんでしたっけね。聞いたことありますよ、『折り紙使い』の名は」
「光栄です、フレイムアップのエージェントの耳にまで届いているとは」
  この業界は広いようで狭い。有能な人間の存在はその『二つ名』と共にあっという間に業界に広まるものだ。おれは『折り紙使い』の名を知っていた。陰陽師の系譜に連なり、手にした紙を『折り紙』とすることで様々な術を行使する、術法系のエージェント。てえことは、この無数のぬいぐるみたちも……。おれは手に掴んだ熊の背中を見る。そこには小さな菱形の紙片が張り付いていた。
「『かえる』です。一階のアミューズメントパークから連れて来たのですが。お気に召しました?」
  『かえる』の折り紙。なるほどね、これを媒介にして操っているわけだ。
「……そこの扉を通してほしい、と言ってもムダなんでしょうねぇ」
  おれはぼりぼりと頭を掻いた。
「密度の濃いコミュニケーションをお望みなのでしょう?」
  『折り紙使い』はすい、とその右手を持ち上げる。それに合わせてか、ぬいぐるみたちが一斉に引き下がる。
「身を削りあうような激しいのでお相手しますわ」
  どっちかというと削るより暖める方が。夏でも無問題で。ダメですか?
「啄め。『鶴』」
  ダメらしい。彼女の手から放たれた一片の鶴は、いかなる幻覚か、瞬く間にその姿を百に千に増やし、吹雪のようにおれに襲い掛かってきた。
「……ッ!!」
  今度ばかりは悠長に叫び声を上げているヒマはなかった。襲い掛かってくる鶴の羽と嘴、その一つ一つに鋭利極まりない刃が仕込まれており、さながらおれは剃刀の嵐の中に飛び込んだ格好になったからだ。袖を、胴を、そして咄嗟に顔をかばったものの耳や頬を、刃がかすめて赤い線を刻み込んでゆく。実際には十秒も無かったのかも知れないが、身を削ぎ落とされるようなおぞましい感覚が過ぎた後、おれはボロボロの格好で膝をついていた。
「……いちおう、インナーは身につけているみたいですね」
  頭上から降り注ぐ『折り紙使い』の冷静な声。
「……ま、職業柄こういうの多いんでね」
  おれは、切り裂かれた袖から露出している黒い生地を見やった。こういう荒事に備えて、仕事中は防弾防刃性をそなえた極薄のボディスーツを普段着の下に纏うことを義務付けられている。これはこの業界では常識と化しており、『インナー』と総称されている。うちの事務所で支給されているのは羽美さん謹製の一級品で、ボディスーツの薄さでありながら9mmパラの10m射撃を防ぎきってのけるというトンデモアイテムだ。今もこれを身につけていなかったら、ナイフで滅多刺しにされたくらいの手傷を負っていただろう。ちなみに、強襲任務の際には特殊部隊も真っ青の防弾防刃防毒耐ショック装備である、ごっつい『ジャケット』を着込むこともあるが、これは極めて希である。
  おれはさっき警備員から没収してきたバトンを取り出し、スイッチを入れた。ヴ……とかすかに音を発し、バトンの電圧が高まっていく。とりあえず構えてみた。
「あんまり接近戦は得意じゃないんだけどなー……」
「捕らえよ。『かえる』」
  彼女の命令に答え、ぬいぐるみ達が再び一斉におれに襲い掛かる。おれはたまらず飛びのき、壁沿いに今来た道を逃げ走る。
「ちっとは手加減してもらえんものですかね」
「まさか。あの『人災派遣』相手に手加減など出来るはずはないでしょう?我々エージェント業界の鬼子。任務成功率『だけは』100%の凶悪な異能力者集団が良くいいます」
  ひでー言われようだなオイ。飛び掛ってくるぬいぐるみを払い落とし、物陰に逃げ込む。やっぱり業界内のうちの事務所の評判はこんなもんなんだろうねぇ……。
  休む間もなくぬいぐるみ達の攻撃を転げまわってかわしつつ、おれはひたすら走る、走る。詰まれた台車を跳び箱の要領でまたぐ。壁沿いを疾走、足元に食いついてくるワニにはサッカーボールキックを叩き込む。すかさず横合いから襲い掛かってくる愛らしいネズミをどうにかバトンで叩き落す。逃げ回る間に、向こうが何を狙っているか想像はついていた。だが事ここに到ってはどうしようもない。まるで予定通りのコースを走らされていたかのようにおれは、
「王手詰み、ですね」
  部屋の隅に追い込まれていた。微笑を浮かべて佇む彼女の手には折り紙。おれの頬を汗が伝う。走った汗だと思いたいが、それはどうしようもなく冷たかった。ふと視界によぎるのは……水蒸気の向こう、人間離れした軌道でスケアクロウと切り結ぶ真凛の姿だった。
 
 
 
 

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