どこから若者なんだという話もありますが。
さて、脱ゆとり前の話になりますが、出身高校へ訪問する機会があり、そこで教科書を見て驚きました。
字がない。
いや、もちろんあるんですけど、ロスジェネ世代の端くれである私が高校生だった頃に使っていたものと比べると、明らかにページあたりの文章が少なかった。じゃあ何が多いかというと写真や図表です。
サイズもでかいしカラーだし、「これ資料集じゃないんですか?教科書?」と教師に尋ねたほど、私の持つ「教科書」のイメージとは違っていました。教科書といえば2色刷りの分厚いA5版だったはず。文章がメインだったはず。だって「テキスト」というくらいでしょ?それが10年たたないうちにこうまで変わるとは。
文章が読めないんだろうな
その教科書を見てまず思ったのは「今の子供たちは長い文章が読めないんだな」ということでした。文字ばかりのページでは興味関心を持てないから写真や図表が多用されているのだろうと。そしてそういった教科書で学んだ世代は、今後も長い文章を読んで理解するための訓練はおそらく不足し、その結果、文章を書く力も低下していくだろうと。
変化をネガティブにとらえたんですよ。「これだからゆとりは」という思想ですね。
文章なんて古くてダサい
ところが、世の中は文章でコミュニケーションする時代ではなくなってしまいました。携帯メールでこつこつやりとりする光景なんて今は昔。近況や感情を伝えるために写真や動画を送りあい、友人とのオンラインの会話はイラストのスタンプで完結する。
数年前、年下の友人たちが携帯メールの絵文字をやたらと多用することにドン引きしたことがありましたが、そんな経験もむかしむかしのお話。カジュアルなコミュニケーションにおいては、すでに文章なんて「古くてダサい」のですよね。
もちろん、文章がだいすきでだいすきでしかたがない、わたくしはまさに活字中毒である、というあなたみたいな若者もたくさんいると思いますが、あなた、同世代では少数派でしょう?(ここではカジュアルなコミュニケーションにおいて、という話なので、なんだかんだで結局テキストが普遍的だよねみたいな話じゃないです)
文章を読めないかもしれない世代が身につけている力
彼らには他に情報を伝えるためのうまい手段があるので、実際、文章を読んだり書いたりする力は落ちているかもしれません。が、文章の世界で生きてきた私などとは違う能力が確実にあります。
それは「空気を読む」と上の世代には軽く言われる能力です。そして、彼らの世代はとても器用です。
私の「空気を読んでいる」状態と、彼らの「空気を読んでいる」状態はまったく違っていて、なんというか、私にはついていないアンテナで常に情報を受発信しているようなイメージでそれをごくごく自然に行っている。新しいコミュニケーションの方式にもすぐに適応し、呼吸をするように空気を読み続ける。
とにかくなんだかすげーのです。ついに人類は触角を手に入れたと思うほど。
そんな世代が「書く」側にまわってくるってわくわく
すでにインフォーマルでカジュアルなオンラインの場では文章以外でのコミュニケーションが主流になっているような気がしますが、空気を読みつつちゃちゃっとビジュアル表現できる世代が大人になって発言力を持ち、ちょっとフォーマルな場でも文章以外のコミュニケーションがもりもり交わされるようになると…
世の中はどうなるのでしょうね。断絶するのか融合するのか。
とても楽しみですし、生きているうちにそういう世界が見られる時代に生まれてラッキーだなと思います。
まあこんなことを文章で書いてしまうってことが、私は古い世代の人間だって証ですね。
今週のお題「書くこと」に関する日記でした。おしまい。