簡単に言うと追記です。メインは「例のまとめ」の反応に対しての話で、事件に対する見解はほとんどありません。
この記事を書いたその夜に新たな展開が待っていました。
うーん、やっぱり一言では言えないなぁ。こういう事態も生きていれば起こるだろうし、車にぶつかったとでも思うしかないんだろうな。問題は無駄に盛り上げた周囲の人たちだよね。さーどうやって落とし前つけるかってところですよ。
自分がなんとなーく非常にモヤモヤしていることは、前の話でも書いたけれど「もし蹴られた女性が視覚障碍者でなかったらこれだけ取り上げられたのだろうか」っていうところだね。「通学中の女子生徒、ぶつかった男に蹴られけが」という見出しだったら誰もが「ふーん」で終わっていたと思う。
だけど「通学中の全盲の女子生徒」となった瞬間に「許せない!」ってスイッチが入る人たちがたくさんいる。「弱い障碍者相手になんてことだ!」っていう憤りがいらない反発を招いて、あんなまとめ記事が作られてしまったのだと思う。どこにも過密社会に対するストレスも障碍者を見下した意地汚い加害者もいなかったのに、それぞれがそれぞれの中で勝手に敵を作っていた。これは恐ろしいね。うまく利用したらとある思想のために命をかけても構わないという洗脳だってできちゃうんじゃないかな。あ、これは昔やったのか。
実際、傷害事件なんてそこらへんで毎日起きている。ストーカー被害みたいに精神的にも被害を加えられている人や児童虐待なんかを入れたら本当に目を覆いたくなるようなことが世の中たくさん起きている。今回の事件でいろいろ言っていた人はそのことは「なかったこと」になってないだろうか。たまたま「視覚障害者の女子高生」というどこからどう見ても弱者という立場の人がたまたま被害にあったら「許せない!」って言うの、どうかと思う。
さっき出したファミマ土下座事件も、似たようなことはたくさん起こっている。たまたま犯人が動画をアップとか狂気の沙汰としかいいようのないことをしてくれているから注目が集まっただけで、意味もなく恫喝される店員は今この瞬間もたくさんいる。
だから何だってことではないけれど、そんなに正義感を丸出しにするのであれば都合のいい部分だけワーッと吠えるのってすごくカッコ悪いと思うんですよ。「正義感をアピールする自分カッコイイ」にしか見えないんですよ。別に正義感を表明するのは問題ないと思うんだけど、それにしても底が浅い。何かをアピールするには下地が必要なのに、基礎も土台もない状態で見た目のいい感情だけを吐き出すから居心地が悪い。更にそういう見た目のいいものを人は選びやすい。スーパーでまっすぐなきゅうりが好まれるのと一緒だ。
別に今回の事件で「私にも何かできたんじゃないか」みたいにもやもやする必要は一切ないと思う。下手な正義感の行き場に戸惑っているより、明日自分が突然何者かに襲われないかとか間違って誰かを傷つけるんじゃないかってことを心配したほうがいいと思う。まずはコツコツと身近な正義を実行していくことが望ましいと思うんだよね。そんだけ。