金
29
6月
2012
「明日書く」とか言っといて今日になってしまいました。
締め切りがないと自分に甘くなっていけませんな。
つげ義春の代表作の一つに『ゲンセンカン主人』というのがありまして、知る人ぞ知る名作というか、知らん人はぜひ一度読んで欲しい漫画です。全部読んでも十分とかかりません。それでいて、上質の文学作品をも上回る内容を持っています。
たぶん一度読んだだけでは、なんのこっちゃらわからんという人が大半だと思います。難解ゆえに勘違いされることがあまりに多かったせいか、作者はのちに『やなぎ屋主人』という、『ゲンセンカン主人』の解説編のような作品を書いています。
どちらも鄙びた場所で女が店を経営していて、そこに泊まった客(作者自身がモデル)と関係して……という筋立てで、『ゲンセンカン主人』がそのままいすわった方、『やなぎ屋主人』は立ち去った方、になっています。
このように二つの作品を読み比べると、『ゲンセンカン主人』は一種のドッペルゲンゲル譚として、よく「わかって」しまいます。ただしこれだけだと、なんだか腑に落ちないというか、つげ義春の自己韜晦癖の罠にはまってしまったような感じがしてきます。
というのも、『ゲンセンカン主人』には、どうにもひっかかるエピソードがあるからです。それは回想中に登場するゲンセンカン主人と老婆の会話です。
「あのおかみさんは生まれつきなのですか」
「きっと前世の因縁でしょうね」
「前世?前世ってなんのことです」
「鏡です」
「おばさんはそう信じているのですか」
「だって前世がなかったら私たちは生きていけませんから」
「なぜ生きていけないのです」
「だって前世がなかったら、私たちはまるで」
「まるで……」
「……」
「まるでなんだというのです」
「ゆ…………」
……迷信にとらわれた老婆とのたわいのない会話、とするにはずい分ドラマチックな扱いがなされています。
おそらくこれは、「前世」のことを語っているようでいて、まったく別のことを表現しているのでしょう。
それは、「自分の存在していない場所」は自分とどのように関係してくるのか、ということです。
「自分の存在していない場所」とは、空間的には、どこか遠くの場所、もしくは、単に今ここでない場所。
時間的には、自分が生まれる前の過去、自分が死んだあとの未来。つまり、もしあるとすれば、前世と来世ですね。
そして、「自分」というものは、そうした「自分が存在していない」ことによって支えられている、というわけです。
【「存在していない」ということではない】という二重の否定、「否定の否定」によって人間は「存在」しているのだ、と。
なんだかヘーゲルの弁証法みたくなってますが、『ゲンセンカン主人』で問われているのはそういうことなのではないでしょうか。
それは普段、「日常」とか「死」とか「神」とか「前世&来世」とか、「理性」とか「科学」によって封印されています。
しかしそれらをどけて、そこへ目をやると、「超越論的意識」とか「構造」とか「死の欲動」とか「顔」とか「無」とか見えたりするのでしょう。
つげ義春はそれを漫画にしてしまいました。
自己の存在の不安がどこからくるのか、直観的につきとめて『ゲンセンカン主人』を描きあげ、そしてそこに「そんな大層なことは言ってないよ」というごまかしも追加しました。「俺なんかが口にすることじゃない」という想いもあったのでしょう。
自分自身の存在は、生命体のような「力の躍動」ではなく、どこか遠くの、はるかな過去か未来において、欠落していることの裏返しなのではないか? かつて存在せず、これから先も存在しない、一回性の自分自身とは、過去にも未来にも「存在しない」ことによって、その存在が支えられているのではないか。 では、たとえば過去に「存在しない」ことは、どうすれば明瞭になるでしょうか。もし前世というものが存在すれば、今の自分自身はそこにはっきりといなかっ たことがわかります。だからそれは「鏡」なのです。それがなければ、自分自身は存在してるのやらしてないのやら、まったく不確かな「幽霊」になってしまうわけです。
現在、前世というものは血液型占い程度にしか信じられていないし、私も全く信じていません。「理性」や「科学」の方に顔を向け、そっち側には背を向けているからです。ゲンセンカン主人も「前世」など信じてはいません。
「幽霊」となることなしに生きようとするなら、「存在の不安」に直面することになります。
それは、いつかどこか遥か彼方に存在しているかもしれない、もう一人の自分と出会ってしまうという恐怖に直結してくるのです。
とりあえず、このへんで。
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