日本エネルギー経済研究所 研究理事 保坂修司
 
 今年6月、「イラクとシャームのイスラム国」と名乗る武装集団がイラク第2の都市、モスルを制圧し、首都バグダードを狙うところにまで迫ってきました。6月末には名前を「イスラム国」とあらため、さらにそのリーダー、アブーバクル・バグダーディーをカリフとする「カリフ」国家を宣言しました。
 ここでいうシャームとは、歴史的シリアとか大シリアと呼ばれる概念で、現在のシリアという国の枠組を超え、レバノンやヨルダン、イスラエル、パレスチナなどを含む歴史的呼称です。また、カリフとはイスラム共同体の長(指導者)を指します。オスマン帝国皇帝が19世紀にイスラム世界の支配者としてカリフを自称するようになりましたが、歴史的には13世紀にバグダードを首都としたアッバース朝が滅亡して以降、カリフ国家は消滅したものと考えられていました。
 名前に「国」とついていますが、イスラム国は単なる武装組織にすぎません。それがどうしてイラクやシリアの政府軍と互角に戦える力をつけたのでしょうか。そもそもイスラム国とはどういう組織だったのでしょうか。なぜ、21世紀においてカリフなどという歴史的な肩書を持ちだしてきたのでしょうか。

 イスラム国の源流は1990年代にまでさかのぼることができますが、世界的に注目を集めるようになったのはイラク戦争後のことです。グループ創設者の1人で、ヨルダン人のザルカーウィーは拠点をイラクに移し、国際テロ組織アルカイダのイラク支部となり、外国人の誘拐や自爆テロなどで世界を震撼させました。けれども、彼の死後、活動は下火になり、他の組織と離合集散しながら、イラク・ムジャーヒディーン評議会、イラク・イスラム国と改称していきました。
しかし、2011年以降のいわゆる「アラブの春」でアラブ諸国が混乱すると、それに乗じてふたたび活動を活発化させていきます。さらに隣国シリアが事実上の内乱状態となると、シリアにも要員を派遣し、アサド政権とも戦うようになります。
 このグループは、シリアとイラクを股にかけて武装闘争を展開していったので、2013年から「イラクとシャームのイスラム国」と改称しましたが、シリアで活動していたメンバーの中核が離反し、これをきっかけに、親組織であるアルカイダとも絶縁状態になります。
 イスラム国は一時期であれ、アルカイダの傘下に入っていただけあって、アルカイダとは似たようなイデオロギーをもっています。イスラムの地を占領した異教徒からイスラムの地を解放することをジハード、聖なる戦いとしてイスラム教徒の義務とみなすジハード主義という考えかたです。しかし、その一方、シーア派などに対するイスラム国の残虐かつ無差別な攻撃はアルカイダ内部からも批判されていました。
また、アルカイダが今でもアフガニスタンを支配していたターリバーンに忠誠を誓う一組織にすぎないのに対し、イスラム国はかなり早い時点で「国」を意識したイデオロギーを前面に押し出すようになりました。イラク・イスラム国の指導者は「信徒の統率者」という肩書を用い、また預言者ムハンマドと同じクライシュ族の出身を自称していました。「信徒の統率者」は歴史的にはカリフの別称でもあり、スンニ派ではカリフになれるのはクライシュ族出身者だけという考えかたがあったからです。イスラム国は早くからカリフ国家樹立の布石を打っていたといえます。
イスラム国は従来から豊かな湾岸産油国の慈善団体の寄付を資金源としていたとされていましたが、シリアの油田の一部を制圧すると、そこから出る石油を密輸したり、誘拐で身代金を奪ったりして、潤沢な活動資金を得ていたといわれています。こうした資金力を背景に、また、イラクやシリアの政府軍から奪った戦車やミサイルなど重火器を用いて、イスラム国は政府軍や対立する勢力との戦いを有利に進めていきました。
 イスラム国がこうした武器のあつかいに慣れていたことは、その組織の中核に、プロの軍人が含まれていることを意味しています。実際、イスラム国にはイラク軍の元軍人だけでなく、イラク前政権関係者も多数参加しています。
 また、イスラム国に無数の外国人が参加しているのも顕著な特徴です。イラク戦争後、アラブ諸国から多くの義勇兵がイラクにやってきて、アメリカやシーア派政権に対する攻撃に加わったことは知られていますが、最近では、アラブ人だけでなく、欧米からも多数のイスラム教徒がシリアやイラクでのジハードに参加しています。
 外から入ってきた、この義勇兵たちの大半が事前にツイッターなどソーシャルメディアに何らかの痕跡を残しているのは興味深い現象です。ツイッターで怒りや不満をつぶやいていた若者がある日突然、シリアやイラクに現れ、自爆テロを行う、といったことも珍しくありません。
 イスラム国側も積極的にソーシャルメディアをリクルートに活用しています。とくにイスラム国の場合、アラビア語だけでなく、英語やフランス語、ドイツ語、ロシア語などの欧米の言語による宣伝活動を活発に展開しており、預言者ムハンマドがメッカからマディーナに移住し、イスラム共同体を創設した故事を強調し、イラクやシリアに移住するよう呼びかけています。
 
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イスラム国は、こうした宣伝文書やビデオのなかでしばしばサイクス・ピコ協定を破壊することを強調しています。
 
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サイクス・ピコ協定とはイギリス・フランス・ロシアのあいだでオスマン帝国領の分割を定めた秘密協定で、現代の中東の国境線の多くが、この協定と何らかのかたちで結びついており、その中心がまさにイラク・シリア国境だったわけです。
 イラク現政権による行き過ぎたシーア派優遇政策、シリアのアラウィー派政権によるスンニ派弾圧はイスラム国に、戦うための大義と体制に不満をもつ人びとからの支援を与えました。しかし、イラクやシリア以外の人びとにとってはそれがすべてではありません。ヨーロッパ人が勝手に引いた国境線を破壊し、新たな国境線を自分たちの手で引いていく、さらにカリフに支配されたイスラム共同体を拡大し、かつての栄光を取り戻す。こうした理想が、現実社会のなかで不満をかこつイスラム教徒の若者たちの心をとらえた可能性も否定できないでしょう。
 サイクス・ピコ協定から約100年、中東のあちこちで、宗派や民族の分布を無視した国境線、国民国家の枠組が揺らぎつつあります。中東の人びとはさまざまな社会的・政治的な不満を抱えていただけでなく、期待したアラブの春が結果的に内乱や渾沌を生み出してしまったことに対して絶望感を感じていました。イスラム国はこれらをサイクス・ピコ体制への怒りに収斂させることで、自分たちが単なる地域的な反政府武装勢力ではなく、より大きな大義を担う存在であることを示そうとしているようにみえます。軍事攻撃で彼らの勢いを一時的に止めることは可能かもしれません。しかし、中東の人びとの怒りや不満の受け皿になりうるのはイスラム国ではないということを、中東各国の政府や国際社会が不満をもつイスラム教徒に示さないかぎり、イスラム国の脅威を排除するのはむずかしいでしょう。